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『戦国の城の一生』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、引き続きよろしくです

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訳あり城郭探訪、東京都青梅市にある勝沼城に行きます。

この城は、この地域の領主・三田氏の居城でした。三田氏は関東管領山内上杉氏の家臣で、京都とも交流がある文化人としても有名な人でした。その後、北条氏の家臣となりますが、永禄四年(一五六一)に上杉謙信が関東へ出陣してくると上杉方となります。しかし、謙信が引き揚げてしまうと北条氏の猛攻により三田氏は青梅市の辛垣山城にて滅亡してしまいます。その後の勝沼城は、どうも北条氏照の持ち城としてある程度使われていた形跡がありますが、永禄十二年以前には役割が失われて廃城になったのではないか、と考えられます。

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JR青梅線東青梅駅から歩いても10分しないくらいで、光明寺というお寺に着きます。このお寺の裏山が勝沼城跡です。光明寺からさらに5分ほど東に歩くと妙光院というお寺もあって、そこの裏からも簡単に入ることができます。

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縄張図。いつものように、『東京都の中世城館』(東京都教育委員会編、2006年)より引用・加筆。今回は、赤くペイントしたルートをご紹介しましょう。

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光明寺の裏山の墓地を登って行って城跡に到着。縄張図の「a」の部分の下のあたりですね。土塁に囲まれています。送電線が建ってますので、わかりやすいです。

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で、「a」の右側に入って送電線を横に進むと、すぐに主郭「1」に到着。看板が建ってます。

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「1」内部。草ぼうぼうですが、かなり広いです。

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「1」と「3」を隔てる堀。ここが虎口だったのかな。

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「1」の左側をめぐる横堀ですね。見事ですよ。

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「3」の一番下の縁あたりの横堀。この横堀は縄張図の左上方向へずっと続いていますので、それを進んで行きます…

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堀を進んで土橋部分で登って「3」の内部に到着。これも結構広い曲輪となってます。下草が刈られていたのか、見やすかったです。

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「3」の左下に小さく土塁が切れていて虎口になっているのがわかるでしょうか?ちょうど赤線とかぶってます。そこの土橋ですね。細〜い土塁上の道を伝って、ここでちょっと竪堀が入って狭くなり、90度曲がって土橋を渡って「3」に入るようになっているみたいです。千葉県の小西城の虎口にそっくりな構造です↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/21605458.html

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で、「3」の左側の圧巻の横堀!これは素晴らしい!!!感動的でした…。勝沼城跡で一番の見所ですね。

「3」からこの横堀を隔てて、先ほどの土橋に続く長くて細〜い土塁があるのですが(いわゆる「比高二重土塁」みたいなもの?)、この土塁上がどうも通路になっているみたいで、「3」側から常に横矢がかかっている、という構造になっています。ホント、小西城にそっくり。

1枚目は「3」から横堀を見たところ。

2枚目は、先ほどの土橋から撮ったもの。延々100mほど続く長大な横堀で、圧巻です。

最後の写真は、堀底から「3」を見たところ。人が立っていて、その深さがわかるでしょう…

わかります?「3」の左側にある細〜い白い部分が土塁上の通路で、それと「3」との間が横堀です。縄張図に赤い矢印を付けておきました。

続く…



参考文献
齋藤慎一「戦国期八王子の変遷『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)

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訳アリ城郭探訪、先日ご紹介した今井城と同じ日に行った、檜原城です。

築城年代はよくわかりませんが、戦国時代には平山氏という人が城主で、滝山城・八王子城主の北条氏照の家臣でした。最初に史料上に登場するのは永禄12年(1569)です。甲斐武田氏が檜原に向かって軍事行動をしていることから、少なくともこの頃には北条方の城として檜原城は存在し、攻撃対象になっていたと考えられます。

檜原城は、甲斐国との国境に近いために、武田軍が攻めてきたり、逆に「檜原衆」が甲斐へ攻め入ったりしています。天正16年(1588)には「檜原」の「普請」が行なわれていることが確認されるため、戦国時代末期・小田原合戦まで使用され続けていたことがわかります。都内を代表する山城の1つでしょう。

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五日市街道から見た檜原城。武蔵五日市駅から五日市街道(檜原街道)をずっと進んで行くと、檜原村中心部に至ります。その中心部である「本宿」、村役場目の前の目立つ山が檜原城跡です。いかにも山城という感じ。

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麓に吉祥寺というお寺があり、そこの駐車場を借りました。無断駐車禁止ですので、駐車したら必ずお寺さんに断りましょう。

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縄張図。『東京都の中世城館』(東京都教育委員会編、2006年)より引用・加筆。登城ルートをペイントしてみました。山麓部分の道がちょっと違いますけど…おおよその感じとしてご理解ください。

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お寺の裏の墓地から登って行きます。案内板もあるので、わかりやすいはずです。途中から見た吉祥寺と、奥に見える立派な建物が檜原村役場です。

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縄張図にある、山頂から山麓まで繋がっている長大な竪堀。ただ、これも林業関係のものかもしれないので、城の遺構と断言するのはちょっと危険かも。

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比高は200mほどありますので、かなりキツイです。25分くらい登ってようやく頂上付近に到着。竪堀を渡って、曲輪「1」の北側に迂回し、「1」へと入るようになっているようです。その「1」へ入る部分の道。S字状になってますね。虎口と考えてよいですかね。これも当時のままかどうかはわかりませんが。

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「1」に到着!城内最大の曲輪で、中心にあります。ここが主郭なのかどうかは議論が分かれています。案内板もあります。ちなみに案内板には、「戦国初期の構造」が良く残っていると書いてありますが、戦国末期まで存在したことは確実なため、書き直しが必要でしょう。

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「1」南側にある堀切。2枚目は下の道から撮ったもの。はっきり残っています。これぞ、ザ・山城!

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その堀切の底から城内最高所にある曲輪「a」方面を見たところ。段々状に小さい曲輪が続きます。

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「a」に到着!小さい祠があります。ここが狭いので、「1」の方が主郭なんじゃないか、という説もありまして、私も縄張図で見た感じはそう思ってましたが、現地に行くと、それなりの広さがあるので、ここが主郭でいいんじゃないのかなぁ。

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「a」の西側にある三重の堀切です。1枚目が1つ目、2枚目が2つ目の堀切。わかりますかね?これも小規模ながらもなかなかよく残っていて、いい感じでした。さらに奥へ続くとの噂もあります。

「1」の北側にも曲輪「2」などが続いて、何本か堀切があるそうですが、ちょっと藪が酷く、写真が無意味になること間違いないので、あきらめました。


都民ですが、檜原村は初めて行きました。なかなか行かないですよね〜。その意味でも貴重な経験でした。構造的には立派なものがある訳ではないのですが、比高200mの典型的な山城という感じで、小規模ですけど見ててなかなかおもしろかったです。

しかし、武田軍もよくここまで攻めてくるよなと感心。



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訳アリ城郭探訪、今回は、青梅市の今井城というお城です。これも高校の頃から見たいなと思っていたお城でしたが、ようやく今回見る事ができました。

今井経家という武士の居館という伝承があります。が、「1」で行なわれた発掘調査によると、城域はどうも墓地だったようで、板碑や火葬骨・骨壷が散乱していたといいます。今井氏の屋敷墓か寺院跡かわかりませんが、ともかく墓地を意図的に破壊して新しく現存の遺構を築城したことがわかりました。
土塁中から文明14年(1482年)の板碑が出土し、別の場所から大永2年(1522)の板碑が出土していることなどから、おそらく大永2年以降に築城されたものと推測されています。

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縄張図。『東京都の中世城館』(東京都教育委員会、2006年)より借用。この本、一般にはほとんど知られていませんが、都内の中世城郭をほとんど網羅し、最新のデータを踏まえて、全て縄張図付きで、とても良いのですが、発行部数もわずかで一般販売もしていないようなのです。こういうのを安価で都民に提供してほしいもんです。
「1」の横一辺がおおよそ50mです。

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「3」の右上に二つに分かれる道路がありますが、その分岐点から入りました。画像は「3」の右側にある堀です。緩やかなカーブを描いています。かなり浅くなっています。

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「3」です。先ほどの堀続きですね。曲輪なのか、堀底なのか…

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「3」と「1」の間の横堀。これが見事でした。残り具合も素晴らしいです。規模も思ったより大きく立派。

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「1」内部から先ほどの横堀と「3」方面を見たところ。ちょうど人が立っていますが、そこが「3」の土塁上で、真ん中が先ほどの横堀ですね。高低差がなんとなくわかるでしょうか…
図面の「1」の北側の土塁が切れているところです。ここも虎口っぽいですが、微妙です。

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主郭である「1」の内部です。これもまずまずの広さ。小規模と聞いていましたが、思ったよりは広くて大きいですね。

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「1」と「2」の間の横堀。先ほどの横堀が奥で90度曲がってこちらに続いています。ここもよく残ってますね〜。
2枚目の画像は、「2」内部から横堀と「1」方面を見たところ。人が立っているのが「1」で、ちょうど図面でも土塁が切れている部分です。ここが虎口なのではないか、といわれています。

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「2」の内部です。この季節でも十分見れます。

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「2」の右上の横堀の部分ですね。右側が「3」の土塁で、左側が「2」の右上にある細い土橋です。堀の折れ具合がわかりますね。いかにも城跡という雰囲気。

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「2」の上の横堀。細い土橋上から見たところです。ここもよく残っています。

さて、現存遺構はいつ造られたのか、ですが、これも昔から諸説あります。最近だと、幹線となる街道の変遷から、永禄10年(1567)以前には既に重要性が低下していたと考えられますので、その頃には使われなくなったと考えていいのではないでしょうか(もちろん、現時点での可能性で、基本的には、の話です)。ということは、大永2年から永禄10年の間で取りあえずは考えることができるでしょう。

となると、2つの可能性が考えられそうです。1つは、大永4年の山内上杉氏と北条氏の争いです。埼玉県毛呂山町の毛呂城で両軍が戦っていて、今井城近くの勝沼城へ北条氏綱が来ています。その関係で築城された可能性も無くはないかな。

2つ目は、永禄4年の上杉謙信の小田原攻撃です。同年7月、上杉軍は小田原城から撤退しますが、北条氏の反撃を阻止するために、このあたりに「地利」「新地」を築いたという史料が残っています。「地利」とは純軍事的な城を指す当時の言葉で、「新地」は新規築城した城のことを言います。これも昔から指摘はされていますが、この「地利」「新地」こそが今井城の可能性も、大いにあるなと改めて思いました。

ま、可能性で、確固たる証拠は残念ながらありません。謎の城の1つですね。

何故か昔から有名で、カーナビにまであった今井城。一見の価値があるお城です。駐車スペースが無いのが難点ですが、JR河辺駅からバスもありますので、比較的行きやすい城です。



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謹賀新年。今年も未知なる日本の城の姿を追い求めて行きたいと思います。よろしくお願い申し上げます!

さて、新春恒例、皇居の一般参賀に今年も行ってきました!相変わらずたくさんいますね〜。外国人が特に増えているような気がしました。あと、公安警察の怖いおっさん達がちょっと減ったような…

手荷物検査とボディーチェックを通過して、いよいよ中に入っていきます。

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画像でわかるかと思いますが、ツアーの団体さんも多かったですね。整列して少しずつ前に進んで行きます。

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最初の橋を渡ります。ここから二重橋と伏見櫓が見えます。

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橋を渡ると皇居正門。ここを入っていき、緩やかな右カーブを少しずつ登って行きます。

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二重橋上から伏見櫓がキレイに見れます。

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二重橋上から東京駅方面。入ってきた方向ですね。ものすごい行列ですが、キレイで気持ちいいです。

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宮殿東庭にて、天皇の「お出まし」。今年は定刻ギリギリに入ったので、よく見えませんでした。毎年、この光景を見るたびに、歴史というものがいかに我々の社会・生活を規定しているのか、実感しますねぇ…。

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「お出まし」はほんの5分ほど。出口へ向かいます。こんなふうに富士見櫓が見えてきます。

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本丸に残る富士見多聞と堀。雄大ですね〜

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毎年恒例、同じ角度からの富士見櫓の写真(笑)。

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たまには違う角度から…なかなか良い写真ですな。

ということで、今年の城始めも無事に終了。正月に江戸城登城するのは本当に気持ちいいもんです。是非、皆さんも行ってみてください。タダですから(笑)

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「城郭探訪」、今回は、渋谷の中心部ど真ん中にある、渋谷城を訪れましょう。城好きの人には有名ですが、あの渋谷にも中世の城跡があるんです…

場所は、ウィンズ渋谷や渋谷警察署の裏手の小高い丘にあります。下の地図を参照してください。

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現在は、金王八幡神社が建っています。渋谷の中心街の氏神様なんですよ。お祭りの時は、「金王八幡」と書かれた提灯が、駅前やセンター街とかに吊るされています。渋谷の歴史発祥の地と言っても過言ではないのです。

渋谷城は、源義家の家臣・河崎基家という武士が、寛治6年(1092)に築城し、その子・重家が渋谷氏を名乗ったとされています。で、さらにその子、つまりは基家の孫が、金王丸という人で、源頼朝のお父さんである義朝の家臣として活躍して、いろんな伝説があるそうです。金王八幡神社の名前の由来も、この金王丸から来ているんですね。

その後、戦国時代の大永4年(1524)に、北条氏綱と扇谷上杉朝興が、近くの高輪原で戦いますが、その時にどうも上杉方だった渋谷氏は、北条氏に攻撃されて、渋谷城は落城した、ということらしいです。

全部「のようです」「らしいです」としたのは、すべて伝承や江戸時代以降の文献が根拠となっているためです。つまり、本当のところがよくわからないってことですね。渋谷氏という一族がいたことは、確かなようですが。

小高い丘になっていて、東急東横線沿いには渋谷川が流れていて、昔は近くに鎌倉街道も通っていたそうなので、立地的には十分城があってもおかしくない場所のように思えます。

遺構なんて、もちろん渋谷のど真ん中ですから、ありゃしません。どんな縄張だったのかすらわかりません。が、実は神社の境内に、こんなものが!!

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ずばり、「渋谷城 城石」!!社殿のすぐ脇に置いてあります。昔は、「渋谷城 砦の石」と書いてあって、奥の土蔵の横にひっそりと置いてあったのですが、この前行ったらこんな目立つところに。かなり新しそうですが(笑)、いつからあるのか、近現代における史跡顕彰や歴史認識の問題として興味あります…

渋谷駅から徒歩5分で行けるんで、ちょっと寄り道してみては??



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参考文献
『日本城郭大系〈第5巻〉埼玉・東京』新人物往来社、他。

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