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『戦国の城の一生』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、引き続きよろしくです

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2回にわたって御紹介してきた深大寺城、最後に、いったいいつ頃の城で、誰が築城したのか、について見てみたいと思います。

つい最近まで、深大寺城のことが記されている文献は、江戸時代に編纂された軍記物の類のみとされてきました。いくつかあるんですが、例えば『北条五代記』というものには

いつよりか例ならずと心ちそこなひて、天文六年卯月下旬世をはやくさりて、嫡男五郎朝定、生年十三歳にして家をつぎ給ひぬ。ていれば、七々日の服忌さへ経ずして、道をあらためて兵をおこし、深大寺と云古城をさいこうし、氏綱へ向て弓矢の企もつぱら也。

と出てきます。つまり、天文6年(1537)7月に、北条氏綱(氏康のお父さん)と対立していた、扇谷上杉朝定(ともさだ)が、対北条氏の目的のために、深大寺に昔あった「古城」を再び築城して再利用した、ということなんです。

その他に、発掘調査が結構昔に行われていて、その「古城」のものと思われる古い堀が発見されたり、遺物から上記史料の年代と合致する結果が出ていました。しかし、「古城」がいったいいつ存在したのかは、わからないままでした…。

ところが、実は深大寺城に関する史料は、もっとあるんですね。特に、次の史料は、だいぶ前に紹介されていたにも関わらず、あまり注目されていなかったようなのです…

*上杉定正書状写(『北区史』資料編古代中世一、二四二号、加賀国古文書七。一部原本写真を見て直しました)

一昨日十三、於小沢河原合戦勝利、敵討捕候、心地好候、深大寺祗候面々動雖不始事候、推察前候、小早河同心走廻被成尤候、一両人所江御感事可相越候、扨又一両日ニ鉢形近所へ可出陣候、隙明候者、急度可罷越候、謹言、
      九月十五日   定正(花押)
        篠窪三郎左衛門尉殿

細かいことは省きますが、この史料は扇谷上杉定正(太田道灌の主人)の手紙で、深大寺にいる軍勢が活躍したことを褒めているものです。月日しか書いていませんが、年代は1490年前後と確定できます。つまり、このころに扇谷上杉氏の城として、深大寺城が存在していたと言えるんですね。

で、最初の史料に書いてある、今まで謎であった「古城」は、この頃のものじゃないかなと思うんですね。となると、またしても文献史学と考古学の成果が一致したことになります。これは今後の深大寺城研究において、重要な事実となるでしょう。

もう1つは、ちょくちょく触れられているんですが、次の史料です。

*北条為昌書状写(『北区史』資料編古代中世一、三二八号、紀伊国古文書藩中古文書十二)

従矢野方之一書具被披見候(中略)、隋而河越衆神太寺へ陣を寄候由、此方へも申来候、殊外無人数之由申候、乍去具不見届候間如何、自其方人を被遣、懇聞届、其上可承候、猶期面候、恐々謹言、
                    三沢(彦)九郎
      七月三日(天文六年)          為昌判

これは、北条氏康の弟である北条為昌(ためまさ)の手紙です。軍記物じゃなくて文書史料なので、より信頼性があるものなんですね。これも天文6年のもので、やはり深大寺(神太寺)に川越衆(扇谷上杉氏の軍勢)が在陣していることがわかります。軍記物の記述が、文書史料からも裏付けられたことになります。

ということで、深大寺城は、最初は1490年頃に扇谷上杉氏により築城されて、その後いったん廃城となり、天文6年(1537)になると再度扇谷上杉氏により築城された、という2時期に分かれていたことが言えるかと思います。

以上のことを踏まえて、今後も深大寺城の調査研究・整備を進めて行ってほしいと思います。

参考文献
拙稿「戦国前期東国の城郭に関する一考察―深大寺城を中心に―」(『一橋研究』第34巻1号、2009年)
PDFで公開されました!↓↓
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/17995/1/kenkyu0340100330.pdf

黒田基樹編『扇谷上杉氏』(シリーズ中世関東武士の研究第5巻、戎光祥出版、2012年)にも再録されました。誤字等も直してあるので、こちらの方をおススメします。

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深大寺城、続きです。

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主郭をめぐる空堀。この部分は復元です。堀の外側、つまり第二郭側にも土塁が盛られているのが特徴的ですね。これについては、以前、主郭と第二郭はそれぞれ独立した機能をしていたため、などと説明がされていましたが、どうなんでしょ…
堀の規模自体はそんなに大きくないです。もちろん深さはもっとありましたが、幅は大きく変わらないでしょう。小さい堀です。

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説明板。どういうふうにして復元したのかが書いてあります。やはり土橋は埋設して拡張したそうですね。
こういうふうに、どこが復元でどこがそのままなのか、という説明がない城跡ってたくさんあります。何も知らない人は、これを見て当時のまま残っている、あるいは当時の姿に復元していると思ってしまいかねません。このようにちゃんと説明板を設置して欲しいものですね。

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第二郭。ここも今はキレイに整備されています。主郭に比べてかなり広い曲輪で、黒い切株のようなものは、発掘調査により出土した建物跡の柱穴の場所を示しています。そんな立派な建物ではなく、長屋のような簡素な建物だったようです。


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第二郭と第三郭の間の堀。第三郭は現在、テニスコートになっていて、跡かたもない関係で、どういう曲輪だったのか、よくわからないようです。

以上、小規模な城跡ですけど、都内だし、見学はしやすいので、オススメです。

次回は、文献史料からこの深大寺城の歴史を探っていきたいと思います。

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城郭探訪、今回は東京都に戻りまして、調布市にある国指定史跡、深大寺城を御紹介しようと思います。

深大寺城は、都内ではかなり古い歴史がある深大寺というお寺ののすぐ南側の台地にあるお城で、戦国時代前半のお城とされています。詳しくは後日お話させて頂きますが、ともかく都内の城跡の中ではよく残っていて整備されているお城ですので、是非訪れてみてください。深大寺そばも有名なので、おそばを食べて、深大寺をお参りして、深大寺城へ!

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深大寺山門。1695年に建てられたもので、深大寺の建物では一番古いものだそう。
私は今回、JR三鷹駅からバスで向かいました。20分くらいで、到着です。直通は少なく、近くの大通り沿いのバス停から歩いて10分くらいで着きます。途中には深大寺そばのお店が軒を連ねていますよ。

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深大寺本堂。深大寺は、なんと奈良時代の天平5年(733)の創建!めちゃくちゃ古いお寺なんですね〜。天台宗のお寺で、重要文化財の釈迦如来倚像(奈良時代)などが残っています。お寺の周辺の雰囲気も、ちょっと都内とは思えない雰囲気でいっぱいです。都心から近いし、手軽な日帰り旅行にはぴったりの場所です。

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深大寺のすぐ南にある、神代水生植物園内に、深大寺城はあります。有名な神代植物公園ではなく、その隣の無料で開放されている、付属の小さな水生植物園の方にあるので、注意を!こんな感じで、雰囲気あるでしょ〜。

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これを登ると、主郭(本丸)に到着。石碑と案内板があります。石碑には「都旧跡」とありますが、最近国指定史跡になりましたので、そのうち違う石碑が建てられるのかな…

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案内板。縄張図のところをアップして撮ればよかった…台地の先端を主郭にして、外側に曲輪を重ねて配置していっているという、ある意味典型的な形のお城ですね。

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主郭内部。土塁が巡っていて、先ほどの石碑の裏側が櫓台になっています。広さはまずまずですかね、そんなには広くないです。

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本丸東側の堀。西側の堀は次回紹介しますが、キレイに整備・復元されていますが、こちらはそのまま。いいですね〜いかにも古城の堀跡っぽい…

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主郭虎口。ここが主郭に入る唯一の虎口だったようです。土橋で平入りの構造ですね。櫓台から攻撃されるようになっているような気がします。この土橋も整備されたもので、たぶん消防法の関係で車が入れる大きさにされていると思います。

次回は、復元・整備された第二郭を御紹介します!

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4回にわたってご紹介してきた滝山城、いかにすごい城であったのか、おわかりになられたかと思います。では、この縄張について、今まではどんな感じで評価されてきたのでしょうか、見てみましょう。

今までは、北条氏照が永禄四年頃(1561)に滝山城に入城したことがわかっているので、そのころの縄張だろうと云われてました。しかも、なんてったって北条氏当主の弟の本拠地ですから、北条氏の築城術が散りばめられている城、つまりは「北条氏系城郭」の典型例として、評価されてきたんです。

で、最近話題の杉山城なんかは、この滝山城と縄張に似ている部分があるので、やっぱり永禄年間頃の城で、北条氏系の城だろう、と評価されてきたのです。所沢市にある滝の城も同様です。つまり、滝山城=北条氏の城かつ永禄年間、というのは、縄張年代比定の軸、編年標準化石となっていた訳です。

ところが、最近の研究によって、軸となりうるべき滝山城の年代自体が怪しくなってきたんです!

まずは、氏照がいつ滝山城に入城したのか、について。以前は、天文年代の末頃に、この地方の国衆・大石氏の養子として入り、同時に、あるいは永禄四年までには滝山城に入城したと云われていました。

ところが、最近、実は大石氏の本拠地は由井城(浄福寺城・松竹城)であって、滝山城ではなかった、なので氏照が最初に入城し、上杉謙信が永禄四年に来襲した時にいた城は由井城である、という説が出ています。氏照は、最初は「由井源三」と名乗ってい「由井領」を支配していたことがわかってますが、これも由井こそが当時の本拠地だったから、ということになって納得できます。

ということは、滝山城は大石氏の一支城、あるいはその頃存在していなかった可能性すら出てくる訳ですね。で、史料に確実に「滝山」と登場するのは永禄十年(1567)なので、その頃までに滝山城が築城されて移転したと考えられる訳です。じゃあ入城と同時にこんなに大規模な城を一気に造り上げたのか?という疑問が出てきます。

次。これは今指摘したこととかかわるのですが、なんで今までこの縄張=永禄年間と評価されてきたのか、についてです。だって、滝山城は八王子城に移転する天正後半(1582以降)まで使用されていたことはどうやら確実らしいですし、秀吉の北条氏攻めの時に氏照の城として「竹山(滝山)」と出てくるんですね。これは、八王子城に移転したことを秀吉側が知らなかったのか、未だ機能していたのか、どっちかはわかりませんが、いずれにしても滝山城は天正後半まで使用されていたことには変わりないでしょう。

んじゃあ、この縄張も、何も永禄年間じゃなくて天正後半の頃に造られたんじゃないの?とも言えますよね。つまり、別に氏照入城時に関連させなくても、もっと後に造った新しい縄張なんじゃないのと。つーことは、編年基準が動いちゃうから、似ているとされる杉山城も、あれ、もしかして天正後半の城?となってしまいますよね。こりゃ大変。

ということで、滝山城=永禄年間というふうにいえる証拠は、実はどこにもないんですね。その証拠に、永禄年間(1560頃)とされてきた杉山城は、どうも永正・大永年間(1520年頃)の城らしいということがわかってきたのは、記憶に新しいと思います。ということは、あらら、やっぱり縄張で編年するのは無理かな…と思います。

そして最後に、滝山城は北条氏系城郭の典型例、という評価です。これも微妙でしょう。と言うとよく怒られるんですが、よくよく考えると、そういうふうに言いたい気持ちは痛いほどよくわかるんだけど、なかなか言えないよね、ってな感じです。

だって、「〜系」というからには、「〜系」とくくれるくらいの共通要素がないといけないじゃないですか。「北条氏系」なら、北条氏の城のみに共通してある築城術を挙げないと、話になりませんね。じゃあ滝山城の縄張のどこが北条氏固有の築城術なのか。角馬出?壮大な横堀?枡形虎口?ルートの複雑さ?あるいはそれらの組み合わせ方? 

これらは、いずれも他の大名の城や他の地域の城、さらにもっと昔の城にもあったことがわかってます。それに、北条氏の城はそんなのばかりではないし、むしろ滝山城のような城は珍しい方でしょう。とすると、一体なにが北条氏特有の築城術なのか、実は挙げられないことがわかると思います(障子堀も全国で発見されています)。他の大名、他の地域、他の時代にも存在している築城術を、北条氏固有の築城術と評価するのは難しいことは、わかりますよね。なので、それを「北条氏系」として概念化するのも、難しいですよね。

一言でいうと、滝山城=北条氏の城だけど、滝山城≠北条氏系城郭です。前者と後者では、話の次元が違うんですね。なので、そこは慎重に評価していかないと、結局は「感覚」に陥ってしまいかねません。議論するからには、何を根拠としてそういう概念を作っているのかをはっきり明示して、それは論理的に正しく説明可能なのかを常に考えなければならないのです。


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縄張図をまた出しておきます。

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本丸と中の丸の間の空堀。谷を利用しているようで、かな〜り深いです。橋がかかっているのがおわかりでしょうか?

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その橋がこれ。これを渡っていきます。

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渡ったところが、本丸虎口です。枡形虎口になっているのがおわかりでしょうか? 四角い空間になっていて、まっすぐ進まずに右に折れてからまたまっすぐ進んで城内に入るようになってます。四角い空間=枡の形だから、枡形といいます。

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城内側から見た枡形虎口。う〜ん、わかりやすいですな。ここは発掘調査されまして、なんと、河原石で敷き詰められた敷石通路が発見されました。つまり、この道は石で固められていたというんです。その理由として、権威を見せつけるためだ、とか云われていますが、どうなんでしょうかねぇ。発掘調査でよくわからん遺構が出てくると、宗教とか権威に結び付けてよく評価しますけど、ちょっと安易な気もしないまでもないんですが…(怒られるかな?)

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ようやく本丸到着!城跡碑が建ってます。立派なものですね。

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城跡碑あたりから見た本丸。二段に分かれていて、二段目には霞神社他が建ってます。この二段目の奥に行くと…

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この景色が待っているんです!眼下に流れているのは多摩川。この城の立地がよくわかります。穏やかな風景です…氏照もこの風景を見ていたのでしょう…

これで、滝山城の紹介は終了です。次回は、滝山城の縄張についての個人的な批評を行いたいと思います…



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