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小田原城、続きです。どんどん行きましょう。 縄張図。『歴史群像名城シリーズ 小田原城』(学研、1995年)から引用。こんな感じのルートで見ていきます。 その前に、番外編として、国道一号線・東海道沿いにある「ういろう」本店。ういろうは名古屋が有名ですが、小田原も有名で、名産品になっています。その歴史は、北条氏時代に遡るほど。「陳外郎」というふうに当時の古文書にも出てきます。 http://www.uirou.co.jp/ 三の丸箱根口門。石垣が若干残って、石碑が建っています。こういう門跡もわりとよく残っているのが小田原城。 銅門(あかがねもん)が見えてきます。 左側には、二の丸の堀が。右の建物は小田原市郷土文化会館で、資料の展示がされています。 銅門。手前にかかるのが住吉橋。これも近年復元されたもの。某研究会の見学会で内部に特別に入ったことがあります。 …キレイで立派です。銅門近くには、「小田原城歴史見聞館」なる施設があります。パネル展示や、小田原合戦の時の「小田原評定」の再現シアターなどがあります。プリクラや、虎朱印スタンプもありました。 いよいよ、本丸に向かいます。 赤い橋の上から見た本丸の堀跡。左上の台地が本丸です。 常盤木門。これも昭和46年に復元された、わりと古いもの。枡形になってますね。 本丸に到着。お土産店の隣に、ひっそりとあるのが鉄門跡。せっかく写真を撮ったので、いちおうご紹介しておきましょう… 次はいよいよ天守へ! |
L神奈川県の城
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城郭探訪、いよいよ小田原城です。特に説明は不要かと思いますが、戦国大名北条氏の居城として有名ですね。戦国時代最大の城です。江戸時代も、箱根や江戸を守る、譜代大名の重要な城として機能していました。 この小田原城、中学生のころから何回行ったことか…。私の好きな城ベスト3に入るでしょう。小田原城といえば、周囲10km以上ある「総構」が有名ですが、それも全部歩きましたし、遺構という遺構は全部見たはずです。写真も膨大にありますが、デジカメ以前のがほとんど…なので、ここでは最近デジカメで撮ったごく一部のみの紹介になります… まずは、近世の小田原城から見ていきましょう! まずは縄張図。『歴史群像名城シリーズ 小田原城』(学研、1995年)から引用。 まずは、三の丸幸田口門跡。駅から歩いて5分くらい、御堀端通り沿いにあります。この道沿いに、小田原に行ったら必ず行くお店があります。「RYO」というお店。ここのランチの「まかない丼」が美味すぎて、小田原に来たら必ずこれを食べています。人気店で、すぐに満席になってしまいます。オススメです↓↓ http://www.d-ryo.co.jp/ で、城の話に戻りますが、幸田口門にはこんな感じで土塁が保存されています。商店街のなかにあって、よく破壊から免れたもんです。ちなみに、門の名前の由来は、北条氏の家臣・幸田氏の屋敷が近くにあったからだとか。 御堀端通りをそのまま歩いて行くと、二の丸のお堀と馬出門と二の丸隅櫓が見えてきます! この隅櫓は、昭和9年に復興されたもので、復興された小田原城内の建物としては最古だそう。ただし、江戸時代当時は、もう一回り大きい櫓でした。 馬出門にやってきました。この門は最近復元されたばかりの門で、まだピカピカです。これはきちんと当時のままの復元だそうです。小田原城も最近整備が進んでまして、当時の城の姿がだいぶ蘇ってきました。 門から見た天守。木に隠れて見えにくいですが…。この木が邪魔で天守が見えないから切ってしまえ!という計画が今持ちあがってまして、賛否両論、議論になっています。ニュースで大きく取り上げられていました。たしかに、天守か見えないのは不満ですね。でも、本来の小田原城の姿は、古写真なんかを見ても、鬱蒼と茂る木陰の間に天守が見える、そんな感じだったのです。城と木の関係については、「城と竹木」の書庫を↓↓ http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/folder/744750.html なので、木を伐り払ってしまうと、当時の景観とは異なる景観になってしまうのではないか、と思います。ただし、木が生え過ぎて石垣や地下に眠る遺構が破壊される危険性もあるそうですし、観光という観点からは、やはり天守が見えた方がよい、というのもわかりますし、これは難しい問題です。 馬出門内部。これは冬の快晴の日に撮った写真ですが、まぁなんとキレイに撮れたことか。お気に入りの写真です。夏に撮った写真も混ざってますが、ご了承ください…。 馬出門内部から銅門を見る。ここまで復元されると、さすがに雰囲気ありますな。しかも人がいなかったのがラッキーでした。 銅門にかかる住吉橋あたりから馬出門を見る。お堀にも映っていていいですね。 まだまだ続きます。 |
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城郭探訪、小田原の久野城という城跡へ参ります。 北条早雲の三男で、早雲から氏直まで北条五代全てに仕えた、まさに「最長老様」として有名な、北条幻庵の屋敷跡です。久野城ともいわれ、発掘調査では立派な堀が出土しています。現在は保育園や住宅街になっていて、あまり遺構は残っていません。 小田原から続く足柄街道沿いに入口があります。久野の市街地のちょうど中心部、といったところでしょうか。 入口にはこういう石碑があります。 入口を入るとすぐに土塁に出くわします。これも遺構の一部のようです。 そのすぐ隣にも土塁が残ってます。ここが一番よく残っているところでしょうか。 この道の奥に社があって、案内板があります。この左側に、庭園遺構があるのですが、何故か写真撮るのを忘れてしまったようです…。保育園の敷地内なので、車を止めたり、写真撮影をする際には、一言断ることをお忘れなく… 最初に入口の道路は鍵の手に曲がる部分があり、城跡の雰囲気があるのですが、その曲がり角に中世の石塔があります。真ん中の笠をかぶったような小さい石塔、これが五輪塔で、形からして中世のものと思われます。 久野城はこれくらいで、近くの総世寺にも立ち寄りました。ここは、北条早雲が入って来る以前に小田原を支配していた大森氏によって建立された曹洞宗のお寺。秀吉の小田原合戦の時は、秀吉の甥である豊臣秀次が陣取った場所といわれています。 境内には立派なカシの木があります。 このお寺には中世の撞鐘があるのですが、それには3つの銘文が刻まれていて、そのうちの1つが、豊臣秀次が在陣した時に鐘を使用したことが書いてあるそうです。その鐘は残念ながら見学できませんでした。 |
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訳あり城郭探訪、どんどん行きますが、今回は、訪れたことがある人はほとんどいないであろう、超マニアックな城跡をご紹介します。その名も「御所山城」。「ごしょやま」ではなく「みとこやま」と読むそうです。 この城は、昭和50年代に地元の郷土史家によって発見されたお城だそうで、その歴史は全く不明です。ただ、見事な枡形虎口が残っていることから、その筋の人たちの間では注目されているお城といえましょう。 訪れるのは容易ではありません。自家用車が無いと無理ですね(タクシーも良いとは思いますが、帰りも呼ばないと…)。小田原から箱根ターンパイクという有料道路(料金払います…)に入り、走ること10分ほどで、旧桜山駐車場の跡に着きます。今ではロープが張られていて駐車できませんが、そのロープの手前に置くしかありません。 御所山城遠景。この道が箱根ターンパイクです。手前が旧駐車場。周囲には全く何もありません。 で、さっきの画像の右隣に入口があります。真ん中がへこんでいますが、そこが入口です。わからないですよね〜。 入口まで行けば、こんな感じで案内標柱が立っていますので、一安心です。山道を道なりに歩いて行きます。 縄張図。『小田原市史 別編城郭』から引用・加筆。右上から入っていきます。歩くこと10分ほど、そんなには歩きません。このルートの順番で見て行きますので。 そして到着!東郭・西郭の北側にまたがってある巨大な土塁がこれですね。キレイに残ってます。 そして、これが噂の枡形虎口!雪が積もっていて、かえってわかりやすかったですね。 進入路をペイントしました。こういう形になっています。全体的に、規模としては小さいです。 枡形虎口内部から先ほど写真を撮った場所方向(北側)を見たところ。 西郭内部に到着!冬でもこんな感じの藪だらけです…西側には堀切もあります。 東郭から西郭を見る。東郭内部も同様の状態です…。西郭と東郭とされていますが、実質的には1つの大きい曲輪を、真ん中に土塁を築いて区切っている形になりますかね。西郭の方が高さは若干高いです。 東郭北側の虎口。 すべては謎の城です。手がかりは、小田原の石垣山方面から伊豆方面へと続く「太閤道」という古道沿いに立地している点です。太閤道は、その名の通り、秀吉の小田原攻めで使用された道といわれてまして、そういうことから、豊臣軍が中継基地として築城したんじゃないか、という説があります。まあそれでいいんではないでしょうかね。 ただ、太閤道自体はかなり古くからあった道らしく、大森氏や北条氏が関与した可能性も捨てきれないのではないか、という説もあります。いずれにせよ、街道監視の城、ということはいえるでしょう。 という推測しかできない状況です。本当に小さい城で、曲輪内部の削平も不十分な印象で、よくわかりません。 |
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「訳アリ城郭探訪」ということで、今回は平塚市にある真田城(実田城)に行ってきました。 小田急線東海大学前駅から東へまっすぐ歩いて15分ほどでファミリーマートがある交差点に着きます。その裏手の台地上がもう城跡中心部の天徳寺境内なのですが、お寺へは交差点を右に曲がって台地上に登って左に入ると行けます。 ここは、源頼朝の石橋山合戦で活躍した真田与一義忠という人がいた場所といわれていますが、真田氏の館があったのかどうかはよくわかりません。その後、15世紀末の戦国時代前期になると、扇谷上杉氏の家臣で相模国守護代上田氏の居城として本格的に築城されたようで、戦国時代前半の相模国の重要拠点の一つでした。 永正元年(1504)、山内上杉軍によって「実田要害」が攻め落とされたことが文献史料からわかってますが、その後はどうなったか不明です。問題は、その後の北条氏時代にどうなっていたかですが、状況的に使われていない可能性が高いんじゃないでしょうか。 しかし、にしても事前情報と違って、巨大な道路が出来ているわ、マンション・アパート・住宅造成で、かなり開発が進んでいて、よくわかりませんでした。天徳寺も工事中だったし、なんだか残念な城郭探訪になりました… 天徳寺入口。お寺自体も整備中のようで、事前にネットで見た写真と異なってました。 本堂は工事中でした。真田城に関する看板も石碑も何もありませんでした。 本堂の裏手に墓地があります。その北東隅に土塁らしき痕跡があります。これがほぼ唯一の遺構ですかね…。これとても土塁なのかどうかは不明です…。 その土塁上から墓地と本堂方面を見る。台地の先端部分になります。かなり広いですね。この下に遺構が残っているのかもしれません。 土塁上から北方面を望む。比高は10mほどの台地ですが、眺めは抜群でした。いい場所をちゃんと選ぶもんですね。 台地の一段下には貯水池が出来たり、ファミマが出来たりで、ごく最近こんななっちゃったようで、城跡の雰囲気はほとんどありません。 ただ、このあたりは開発が進んでいることもあって発掘調査が大規模に行なわれています。で、どうもこのファミマと貯水池あたりで発掘がされたようで、真田城のものと思われる堀が出てきています(正確な場所はもう一度確認しますが、確かここのハズ)。その図面を見て私はビックリ! これがその堀の一部です。どうですか、見事な虎口と横矢ですよね!堀「SD004」と「SD005」の間が虎口・土橋になっていて、堀「SD004」が90度曲がって虎口・土橋に向かってキレイに横矢をかけていることがわかりますよね。 図の右側が外側のようなので、右側から侵入してきた敵を横矢で攻撃していることになりますね。実は図面下の左右に長い部分、これも堀だそうで、こちらからも横矢がかかっていることになるそうです。 問題はこの堀がいつのものなのか、ですね。真田城は先ほど言ったように、基本的には永正元年(1504)に落城して以来、文献史料には登場しません。出土遺物も、少ないながら15世紀末から16世紀初頭のようです。なので、取りあえずは1500年頃の遺構と考えて良いのではないかと思います。 ファミマ裏手から見た先ほどの墓地。真ん中の木から左の竹藪が土塁ですね。このくらいの高さです。台地の一段下のこのあたりに堀が巡っていたことになりそうです。 周囲には入居者募集中のマンションやアパートが立ち並び、まだまだこれから造成を待つ土地もたくさんありましたし、天徳寺南方の道路沿いにはショッピングセンターも出来てました。景観がどんどん変わっていってしまうのは仕方ないのでしょうがね… 縮尺がなかったので、追加です。 ****************************************** 参考文献 『平塚市真田・北金目遺跡群発掘調査報告書4』(平塚市真田・北金目遺跡調査会、二〇〇三年)。 |







