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滝の城、続きです。 縄張図。 本郭からの眺め。東方面ですね。 本郭の四脚門跡。ここは以前発掘されて、門の跡が出たところです。鉄砲玉や金具などが出土、敷石も出ていて、石で化粧されていたようです。火事の跡もあったとか。 門は橋で堀の対岸の曲輪(馬出)に繋がっていたようです。土橋状になっていますが、これは遺構ではないようです。 対岸から本郭門跡を見る。 本郭北側を囲む堀。見事ですね〜素晴らしい! 本郭と三の郭間の堀。 馬出と二の郭を囲む堀を見る。実に見事!お城好きにはたまらない光景ですね〜 手前が馬出、奥が三の郭。発掘調査がされていて、馬の北側虎口からは門跡(敷石あり、火事の跡もあり)が、三の郭からは井戸かと思われる巨大な穴が見つかったとか。 三の郭東側の堀。遊歩道になっていますが、ここもなかなか大きい立派な堀です。 北側から三の郭・馬出を見る。柵沿いに馬出の門跡があります。さらに東側の崖下や北側外郭の堀跡なども見に行きました。 さて、この滝の城、いろいろとよくわからないことが多いのです。「滝の城」という名前自体、近くに滝があったことからそう通称で言われているだけでして、戦国時代当時の名前がわからないのです。 文献史料には、北条氏の史料に「清戸番所」というのが出てくるので、これだろうと言われていますが、厳密に言うと清戸は川を隔てた城の対岸に位置していて、街道もそっちを通っているそうです。なので、滝の城=清戸番所で本当にいいのか、もう一つ決定打に欠けるといえるかと思います。まあたぶんそれでいいと思うんですけどね。 さらに、天正18年の小田原合戦で浅野軍の攻撃を受けて落城したという伝承があり、最近の発掘調査で本郭だけでなく馬出虎口の門跡からも火事の跡が出てきたことから、新聞記事などでは、落城伝説が実証されたかのように書いていますが、火事の跡と小田原合戦の伝承の話をストレートに結びつけるには、もうちょっと手続きが必要かなと思います。 なにはともあれ、素晴らしい遺構が残っていて、しかも見学しやすいので、まだ未訪の方は是非いらっしゃってみてください。 |
L埼玉県の城
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コメント(3)
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城郭探訪、去年末に行った埼玉県所沢市の滝の城をご紹介しましょう。関東のなかでも有名な城跡といえましょう。歴史はよくわかっていないのですが、遺構が見事に残っていて、しかも技巧的な縄張なので、昔から有名です。私も割と近くの城にも関わらず、今回が初訪城でした。戦国初期、八王子の大石氏の支城だったといいますが、後に北条氏の支城となり改修されたと一般的には説明されます。 縄張図。コンパクトな城ながら、塁線が複雑に屈曲しています。 所沢方面から車で行きました。滝の城址公園として、非常によく整備されています。公園入口には二重堀が。図の左側、二の郭西側の堀と土塁ですね。見事な遺構! これも二重堀のうち外側の堀。本当に、よく残っています。素晴らしい。 これも二の郭西側の堀。二の郭へ渡る車道から撮ったもの。 これは二の郭北側の堀。 二の郭内部。北側を発掘していました。 二の郭と本郭の間の堀。西側ですね。 同じく、今度は本郭の北側をぐるりと囲む堀。実に見事。 奥が二の郭。手前が本郭。本郭には城山神社があり、その参道で堀を渡り本郭へ。 本郭に到着。城跡碑があります。 神社が建っています。 続きます。 |
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鉢形城、続きです… 「三の曲輪」から見た風景。眼下の荒川がすごいです。これは攻められません… 「三の曲輪」から「二の曲輪」の方を見たところ。柵が復元されていて、雰囲気あります。 「三の曲輪」と「二の曲輪」の間の巨大な空堀!ここが一番の見どころです。堀の奥の方には1つだけ畝があります。すごいデカイ堀なのですが、以前私の友人はこの堀を見事に駆け上がってました(笑) 反対側の馬出の方からみたところ。 「二の曲輪」から「三の曲輪」を見たところ。「三の曲輪」の方が標高が高いようなんですねぇ。 で、最後に本丸跡の石碑です。何しろ、2007年10月に訪れた際の写真ですので、あまりたくさん撮っていなくて…今度行くときは隅々まで写真を撮りたいもんです。 さて、この鉢形城、北条氏の城として有名です。なので、北条氏が滅亡する天正18年(1590)で歴史が終わるというふうに理解されがちですが、実はそうではないんですね。昔から言われてはいることなのですが、案外この点はあまり知られていないというか、研究もされていない点なのですが、鉢形城の年代や遺構の評価という面で非常に重要な論点です。 最近の齋藤慎一『中世東国の道と城館』(東京大学出版会)でも、鉢形城の石垣は2時期あり、北条時代と徳川時代と推定しています。実際に残る遺構の面からも、徳川時代のものがあるということになりますね。 北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東に入ってきますが、鉢形城には家臣の成瀬氏が入り、甲斐国の武川衆という武士団というんでしょうか、そういう人たちが付されたとされてまして、その後一定期間使用されていつの頃からか廃城になった、という感じでこれまでの研究では理解されていると思います。ただ、これも成瀬氏の系図等からわかる話でして、ちゃんとした史料はあまり知られていません。 そこで、北条氏滅亡後の鉢形城について、何かわかる史料はないか、探しましたら、1点ありました。私も最近まで知らなかったので、ご紹介しましょう。 【史料】伊奈忠次知行書立(『伊奈忠次文書集』一三六号、田中文書) 鉢形城廻替知行之覚 一、六百拾五石壱斗六升 櫻澤之郷 (中略) 戌(慶長三年)四月二日 伊熊蔵(花押) 武川衆 参 これは、伊奈熊蔵忠次という徳川家康の家臣が武川衆に対して出したもので、年代は慶長三年(1598)と推測されますので、北条氏が滅亡してから8年後のものとなります。 ここで、伊奈忠次は武川衆が「鉢形城廻」(鉢形城めぐり=鉢形城の近辺)に持っていた知行地を変更すると言っているんですが、この「鉢形城廻」という言葉が非常に気になるんですね。単に「替知行之覚」ではなく、わざわざ「鉢形城廻」と書くということは、この頃まで鉢形城が存在していたからこそなのではないか…と思うのです。 この解釈が正しいならば、鉢形城は1598年ころまでは徳川氏の城として存在していたと言えそうです。このことは、すでに近世史研究者の根岸茂夫『近世武家社会の形成と構造』(吉川弘文館)という本の中で指摘されてましたが、あまり注目されていません。 これだけなので、ちょっと微妙な史料ではありますが、少なくとも織豊期の城郭関係史料もこれから発掘・分析していくことが必要なことは確かですね。最近の城郭研究では、戦国時代の前半の城郭が注目されていますが、逆に織豊期・近世初頭の城郭についても、まだまだよくわかっていないことが多いです。私は前期だけやっている人間ではないのです(笑) |
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いまさらですが、鉢形城です。2007年10月の写真で、あまり撮ってないので、一部のみのご紹介です。 文明8年(1476)に,関東管領山内上杉氏の家臣・長尾景春により築城されたといいます。その後、山内上杉氏の拠点として機能するのですが、16世紀前半前半の一時期になると歴史上に登場しなくなります。藤田氏というこの地域の領主が入ったという説が昔からありますが、最近では藤田氏の本拠は近くの花園城だという説もあり、よくわからんです。 16世紀の半ばになって小田原北条氏が進出してくると、北条氏康の息子である氏邦が藤田氏の養子となり、紆余曲折を経て鉢形城主となりまして、鉢形城は北条氏の重要拠点になります。天正18年の小田原合戦で豊臣軍により開城、その後は徳川家康家臣の成瀬氏が入城したとされます。 現在は、国指定史跡で、「鉢形城公園」として整備されています。昔に比べたらまあすごく整備されたもんです。「鉢形城歴史館」というミニ資料館も建設されて、小さいながらも鉢形城のことがよくわかる、面白い資料館となっております。 現在の城跡公園内図。右上の方に、東武東上線の終点・寄居駅があります。寄居駅から歩いて10分しないほどで荒川に着き、この図の一番右にある「正喜橋」を渡るともう鉢形城内です。歴史館HPから拝借です↓↓ http://www.town.yorii.saitama.jp/modules/xfhachi/article.php?articleid=1 その「正喜橋」から見た鉢形城。眼下は荒川で、まさに天然の要害地です… 橋を渡るとすぐ本丸なのですが、「外曲輪」の方から攻めていきましょう。「外曲輪」に歴史館と駐車場があります。その「外曲輪」の堀がこれ。城下町の名残も残っています。 次に、「三の曲輪」に行きます。戦国時代には「秩父曲輪」と呼ばれていたそうです。左右に馬出があるのが特徴的。入口に城門が復元されています。これももちろん、想定して復元されたもの。絵図など残ってませんので。 「三の曲輪」の虎口の部分ですね。低い石積みがあります。奥に行くと「諏訪曲輪」という馬出があります。 城門のアップ。中に入ります… 中に入って左に見えるのがこの石積み。下から上まで、いわゆる石垣のように一気に造られているのではなく、四段に分けて階段状に造られています。高石垣を築く技術がなかった頃のものということのようです。基本的に北条氏時代に造られたものとされています。これもあくまで復元ですので…発掘調査で出てきました。 曲輪内は広いです。井戸や池もあります。この「秩父曲輪」の「掃除」に関する史料が残ってます。詳しくは「城と掃除」の書庫へ↓↓ http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/17252743.html |
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城郭探訪、今回は、埼玉県富士見市の難波田(なんばだ)城というお城跡です。 県内ではなぜか古くから有名なお城で、私も結構昔から知ってました。縄張も馬出があったりで独特で、岩付城や忍城のように、周囲を沼に囲まれた城です。現在は、普通に住宅街や畑になってますが、遺構もまずまず残ってます。発掘調査も何度となく行われ、遺物もたくさん出ています。最近公園化されて、市立難波田城資料館もたってます。 東武東上線志木駅からバスで15〜20分くらいで、難波田城公園入口というところで下車、徒歩5分ほどで着きます。難波田氏という武士が鎌倉期からいたといわれてますが、詳細は不明です。南北朝時代には、史料上に難波田氏が登場するので、その頃にはいたようです。 去年、現地見学をして、たくさん写真も撮ったのですが…PCクラッシュでデータが取り出せず…お金をかければデータ救出もできそうですが、結構かかるみたいだし。ということで、お城の紹介は、以下の画像を引用させて頂いたHPをご覧ください。 これが、難波田城の現況。左が北ですね。曲輪や水堀の形がよくわかりますね。引用元は、富士見市のHPです↓ https://www.city.fujimi.saitama.jp/40shisei/19chikatu/Location/2010-1115-1657-126.html とまあ、こんな感じのお城なのです。 戦国時代になると、扇谷上杉氏の重臣である難波田善銀がここを居城としていたといわれます。その後「川越夜戦」で扇谷上杉氏も難波田善銀も滅亡すると、北条氏家臣の上田氏が難波田を領すようになります。なので、難波田城も上田氏の居城として改修され、今現在見られる形になった、というのが通説です。発掘調査でも、15世紀から16世紀末までの遺物が多く出ていて、おおむね合致しています。 ところが、上記の説は、江戸時代の軍記や地誌類を中心に推測されているもので、ずばり難波田城が登場する当時の文献史料は、今まで紹介されてきませんでした。が、これも実は2点あることがわかりました。今回は、それをご紹介します。 【史料1】清水正花武功覚書(『群馬県史』 資料編7中世3、3694号、清水文書) (前略) 一、武蔵国難波田之城江相働、河越之者共何も走廻り候、大窪屋敷ニ而当地ニ有之参((ママ))候鯨井与申者其外、我等鑓下ニ而三人討申候、此内負於((ママ))当地ニ赤垣助左衛門与申候者ニ我等を鑓付候、其時之覚無隠候事、 (後略) 【史料2】北条氏政感状写(『戦国遺文』後北条氏編3857号、古今感状集)。 於去五日難波田往返之敵一人、討捕之、感悦候、弥可走廻者也、仍如件、 六月朔日 氏政(北条)判 鈴木助三郎トノ 【史料1】は、北条氏家臣・清水政勝(入道して正花。康英の次男)が、晩年に自身の武功を書いた覚書の一部です。清水政勝が、難波田城を攻撃して活躍したことが書かれています。 【史料2】は、北条氏政が家臣に対して出した感状です。鈴木助三郎が、難波田において行き来していた敵を討ち取ったので、それを褒めたたえています。 【史料1】から、難波田城は北条氏の敵方の城だったことがわかります。【史料2】も、敵が難波田とどこかを行き来していたと解釈するのが自然です。ということは、この「難波田」も敵方の城=難波田城を指すと考えてよいでしょう。 で、細かい論証は省きますが、いろいろ調べた結果、両方の史料とも、どうも永禄4年(1561)である可能性が高いです。永禄4年といえば、上杉謙信が関東にやってきて小田原城まで攻撃した、あの年です。この時、難波田を含めた川越地域でも、北条氏と上杉方が散発的に戦っていました。そして、その時、上杉方として北条氏と戦っていた主力は、どうもさいたま市岩槻区の岩付城を拠点にする、岩付太田氏の軍勢だったようなのです。有名な、太田美濃守資正(道誉)、あいつです。 つまり、難波田城は、永禄4年頃に上杉方の岩付太田氏の城として存在していた可能性が非常に高いということになります。まさか岩付太田氏が出てくるとは…これには、調べていた私本人が一番驚きました。なるほどね〜と。 しかも、難波田周辺には、もともと岩付太田氏の所領がたくさんあって、さらに難波田氏と岩付太田氏は姻戚関係にあったこともわかっています。考えてみれば、荒川を挟んだ対岸は、もう岩付太田氏領なんですよね。 もちろん、それ以前に難波田氏がいた可能性、それ以後に上田氏がいた可能性は残ります。これは、今後の課題ですね。 ********************************************** 参考文献 拙稿「岩付太田氏と難波田城」(『一橋研究』第35巻第3号、2010年)PDFで見ることができます↓↓ http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/19384/1/kenkyu0350300510.pdf 応援のポチ、お願いします↓↓↓ |







