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『戦国の城の一生』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、引き続きよろしくです

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菅谷城、続きです。

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再度縄張図を。上が南で、下が北方向です。赤線のように見ていきます。

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「本郭」南側の堀。こちらは北側に比べると浅い堀になってます。

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堀を渡ると「南郭」です。大きくて細長い曲輪です。

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「南郭」から階段を登って、再び「二ノ郭」内部に。「二ノ郭」がいかに広いか、わかるでしょう…

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「二ノ郭」から見た「本郭」西側の堀。

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「本郭」北側の堀。昨日見た横矢の張り出し部分がわかりますね。いかにも戦国の城という雰囲気…

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そして昨日見た「本郭」へ入る土橋と虎口です。

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「二ノ郭」の櫓台とされる高台には、畠山重忠の石像が建っています。抜群の雰囲気ですな…

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その周囲は水堀というか池になっていて、「二ノ郭」をめぐる横堀に繋がっています。虎口もあって、そこから「三ノ郭」へと渡ったところが馬出状になっています(画像右端。切れてますが…)

ざっとこんな感じです。さて、この菅谷城の歴史を見てみましょう…

まず文献史料。菅谷城は、15世紀後半から16世紀初頭に登場します。最初に登場するのは、『松陰私語』という史料。松陰という当時、群馬県の寺院・長楽寺のお坊さんが書いた記録です。そこには、関東管領山内上杉氏に対して、「河越に向かって須賀谷(菅谷)の旧城を再興するべし」と進言していることが記されています。

その後、たしかに「再興」されたようで、山内上杉顕定が須賀谷にいたことが2点の文書から明らかになっています。長享2年(1488)には、山内上杉氏と扇谷上杉氏との間で、当時「関東三戦」と称された須賀谷原の戦いも行なわれていて、700人あまりが死んだという記録が残っています。なので、15世紀後半には山内上杉氏の城として存在していたことは確実です。

では、その後はどうなのか。永正6年(1509)、連歌師・宗長という人が、須賀谷の小泉掃部助という人の宿所に行った、ということが、宗長の紀行文『東路のつと』に記されていますが、これが菅谷城のことを指しているのかは微妙です。

すごくデカくて技巧的な城ですので、かなり前から縄張研究的には16世紀後半の北条氏の城とされてきました。天正10年(1582)に、北条氏の伝馬(てんま。馬による輸送)関係の史料に中継地として須賀谷が登場しますが、菅谷城のことを指しているのかは微妙です。ということで、実は北条氏時代に菅谷城が使われていたことを示す史料は現在のところありません。

発掘調査では、14・15世紀から16世紀前半と、17世紀の遺物が確認されていますが、16世紀後半の遺物はまだ確認されていないとのことです。発掘面積はまだわずかなので、今後また変わってくるかもしれません。

城内にある嵐山史跡の博物館も、近年中世や城館にほぼ特化した博物館になりましたし、このように遺構としては素晴らしいものなので、まだ訪れたことが無い方は、是非ぜひ、ご覧になって下さい。

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昨日、今日と、埼玉県嵐山町にある嵐山史跡の博物館にて「城館の年代観」というシンポジウムが行なわれました。皆様、お疲れさまでした…。私は意味不明な発言をしていた記憶があり、スミマセン。

さて、この博物館は、国指定史跡の菅谷館という城跡の中にあります。菅谷館は、源頼朝に仕えた畠山重忠の居館と伝えられていますが、現存遺構は戦国期以降のものとなっております。史料では館ではなく城と出てきますし、何より見た目が明らかに城ですので、史跡名も「菅谷城」にした方がいいんじゃないですかね。

歴史については、次回の最後に少し触れます。ちなみに、2月まで博物館で「遺物が語る中世の館と城」という企画展が開催されています。図録はなんと300円。入館料も100円とお安くなっております。菅谷城の出土遺物を中心とした展示なので、興味をもたれた方はぜひぜひ…
http://www.ranzan-shiseki.spec.ed.jp/?page_id=222

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こういう縄張りをしております。上が南で、下が北方向です。とにかくデカイ、広いんです。広大の一言。初めて見たのは高校生の時だったかと思いますが、その雄大さに感動した覚えがあります。見学したのは、今回で5回目くらいでしょうか。
赤線のように見ていきます。

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入り口。ここは搦め手になるようです。虎口になっていますが、博物館もあるので拡張されてます。中は「三ノ郭」になります。

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この搦め手の両側には堀が残っています。

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「三ノ郭」に入り、「西ノ郭」へ目指します。画像は「三ノ郭」内部。「三ノ郭」はとにかく広大。この画像も一部分。

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「三ノ郭」西端の「正てん(土へんに占)門跡」。奥に「西ノ郭」への橋が見えると思います。左側のちょっとした土塁は「蔀(しとみ)土塁」とされていて、「西ノ郭」から「三ノ郭」が見えにくくなるようにわざと設けた土塁、ということです。

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「西ノ郭」へと渡る復元木橋から見た、「三ノ郭」(右側)と「西ノ郭」(左側)の間の堀。ちょっとヤブで見にくくなってますが、これがまたすごい規模なのです。見事ですね。

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「西ノ郭」から見た復元木橋。この部分に発掘調査で橋を架けるための基礎とみられる石積みが発見されたようで、それで橋を架けたということです。この画像左端の土塁が切れている部分にも、やはり発掘調査で石積みが出てきています。ちなみに、この「西ノ郭」内部の北側土塁裾にも石積みが若干残っています。今は枯れ葉で埋もれていました…

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戻って「二ノ郭」。ここも広いです。

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「本郭」に向かいます。奥がそれです。

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「本郭」虎口脇にはこのような立派な石碑があります。

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これが虎口。立派な土橋に虎口です。土塁がまた高くて分厚い!

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土橋右側の「本郭」をめぐる堀!ここが一番の見どころでしょう!いつ見ても素晴らしい堀です。デカイし、横矢が効いている。保存状態がいいですね〜。もっと真冬に来ればより良く見えるでしょう。

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反対側の堀。こちらも同規模でデカイです。

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「本郭」内部。ここもまた広いんです。奥に土塁が見えますね。非常に残り具合は良いです。

次回に続きます…

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城郭探訪、今回は、今年の真夏に十数年ぶりに訪れた、松山城です!埼玉県、いや関東地方を代表する巨大城郭で、扇谷・山内上杉氏の争いや、北条氏康・上杉謙信・武田信玄の争いにも頻繁に登場する、超有名なお城なので、歴史は他のHP等を見て頂くことにして…

最近、杉山城や小倉城などとセットで、国指定史跡に格上げされました。最初に訪れたのが、確か中学3年生だったか…それ以来でしたので、本当に楽しみでした。今回は、いろいろと縁があって、ハーバード大学の留学生数人に、この松山城と杉山城などを案内しました!というより、現地の専門家の方に案内して頂きました(笑)この夏で一番暑かった日だと思いますが、その節は大変お世話になりました。留学生の方々も、初めて見る日本の中世城郭に興味津々だったようです!

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松山城縄張図。今回は本丸、物見やぐら、二の丸、兵糧蔵、というルートで、主要部分のみを見ました。また冬にでも行きたいですね…

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登り口からそう時間もかかることなく、本丸に到着します。この雰囲気、十数年前とあまり変わってません。

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本丸の東北隅には櫓台があって、そこにこんな城跡碑が建ってます。これもそのままやなぁ…。

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本丸の周囲をめぐる巨大な空堀!これには驚きました。十数年前は、夕方にちょっと見に行っただけなので、あんまり印象に残っていなかったのですが、こんなに見事に残っているとは思いませんでした。素晴らしいですよ、この大迫力!真夏でこれですから、冬に行ったらもっとすごいでしょう…
3枚目は、二の丸から見た本丸櫓台方面ですが、ちょうど人が立っているので、その規模がわかるかと思います。見事の一言です。

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二の丸をめぐる巨大空堀!これもすごいの一言。保存状況が素晴らしい。2枚目の堀の重なり具合は特に美しいですね〜。

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兵糧蔵。本丸から巨大な堀を隔てたところにあります。「城と兵粮」のコーナーでもちょっとだけ取り上げました↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/16933169.html

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松山城の隣には、古代の横穴古墳である「吉見百穴」があります。これもとても珍しい遺跡で、一見の価値ありです。

本当に久しぶりに見た松山城でしたが、杉山城が巨大化したらこうなるんじゃないかな、似ているなぁという印象を持ちました。

まぁそれはいいとして、この松山城で一番不思議なのが、土塁が無いんです!私は全部の曲輪を見たわけではないですけど、とにかく土塁が無く、曲輪は全部平場になっているそうです。これが何を意味するのか…破城の時に土塁を全部崩して廃城としたのか、それとももともと土塁が無い城だったのか、だとしたら何故土塁がないのか、どうやって守備していたのか…研究者の間でも議論となっています。

もう一つの問題は、この立派な縄張は、いったいいつ造られたのか?という問題です。これについては、今までは北条氏の支配が及んだ永禄年間(1560年前後)とされてきましたが、最近では、関東に徳川家康が入ってから松平家広という人が入城するんですが、その時に造られたとする、織豊系城郭説まで出てきています…。そんな縄張年代の議論の対象ともなっているお城に行ってみては??

*松山城には、「白米城伝説」があります。詳しくは↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/19733946.html


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小倉城、あとちょっとだけ続きです…

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またまた小倉城の測量図。石川安司「石造りの山城 小倉城」(『戦国の城』高志書院、2005年)より引用。方角は、下が真西、上が真東です。

最後に、郭1北方向の尾根を行きましょう…

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郭1の北側から、枡形虎口Dを見る。ちょうど虎口C(写真撮るのを忘れたらしい…)あたりから見下ろした写真と、目の前まで来て撮った写真ですね。道が右側にカーブしていて、何となく道の部分が窪んで枡形になっているのがおわかりでしょうかね?ちょっとわかりづらいですね…

これ本当に枡形虎口なの?と思いましたが、石積みがあったらしく、一応虎口であることには変わりないようですね…

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枡形虎口Dから、つづら折りになっている道をどんどん下って行きます…。この写真は、下ったところから郭1・枡形虎口D方向を撮ったもの。簡単に侵入できないように、クネクネ道を曲げているんですね〜。

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クネクネ道を降りていって、尾根伝いに進んで行くと、小倉城最後の見どころ、北側尾根先端にある、二重の堀切に着きます。この写真は、そのうちの1本。北側は、この二重堀切と枡形虎口Dで防御している、ということなのでしょう。

このように、小倉城はなかなか見どころが多い、そして中世の山城のことを知るにはもってこいのお城と言えます。最近、近くの杉山城や松山城などとともに、国指定史跡になり、今後ますます調査整備が進んで行くことでしょう。

ところで、この小倉城、なかなかのお城なのですが、いわゆる縄張的には、杉山城の方が発達しているので、小倉城の方が古く、杉山城の方が新しい、もしくは同時期、という評価が今まではされていました。ところが、最近の発掘調査によると、小倉城は16世紀後半までの遺物が出ているのに対して、杉山城の場合は、このブログでも見たように、16世紀前半までの遺物しか出ていないんです。

つまり、杉山城の方が古くて、小倉城の方が新しい、ということになった訳です。逆転現象ですね。こうした問題を、今後どう考えていくのか…最近の城郭研究学界の大きな問題となっています。


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小倉城、続きです…

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再度、小倉城の測量図。石川安司「石造りの山城 小倉城」( 『戦国の城』高志書院、2005年)より引用。方角は、下が真西、上が真東です。

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郭1西側虎口(図のA)を、外側と内側両方から。昔は石積みの虎口だったようで、今でもちょっとだけ石積みが残っています!
この虎口は、郭2に対して正面に開いていなくて、横に道を通して郭1の側面に開けています。こんな感じで、正面からすっと入るのではなく、道を側面に迂回させて入る形にする虎口が、この比企地方の城に多いので、一部の研究者の中では、「比企型虎口」と命名されています。

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郭1内部。土塁上から、先ほどの虎口A方面を望む。よく残っています。虎口がA、B、Cと三つもあります。

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郭1中央にある、城跡碑!ようやく、到着しました…。城跡に来て、城跡碑があると、妙に嬉しいのは私だけ…??発掘調査成果の案内板もあります。

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では、郭3に向かいましょう。虎口Bから外に出ます。Bには、こんな感じで石積みがちょっと残っています。

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郭1と3の間の堀切と、郭3を見る。堀切なのか、よくわからないんですけど、岩盤を削っています。石材調達のために削ったとも考えられるのでしょうかね…。というのも、この小倉城は、今までも見てきたように、石積み(石垣)がたくさんあるお城なんです。

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郭3の斜面には、こんな感じで石積み(石垣)が今でも残っています。だいぶ崩落はしているものの、よく残っている方でしょう…。この石は、この地方独特の秩父青石(緑泥片岩)という石でして、その名の通り、石の色が青みがかっているんです。ということは、おそらく当時の小倉城は、山麓から見たら、まさに「青い城」だったんだと思います…。

もうちょっと続きます…


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