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『戦国の城の一生』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、引き続きよろしくです

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池和田城の次は、ちょうど真向かいに位置する、雀ヶ崎城というお城に行きました。鳥瞰図はこんな感じです↓
歴史は全く不明の謎の城らしいですが、この城、馬出があって妙に凝った造りになっているんです!見ようによっては二重馬出にも見えるし…こんな城は、房総でもそうはないでしょう。

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手前、真ん中、奥、と三つ曲輪があるのがおわかりでしょうか。真ん中が馬出になってます。馬出とは、城の出入り口外側に造った小さい曲輪で、凝った築城術の一つです。木橋でつないでいたんでしょうか。奥が尾根の最先端になっていて、主郭だったらしいのですが、今は丘自体が削られてしまい、一部しか残っていません。もう一個馬出があった可能性もあるんじゃないかな…

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手前と真ん中の曲輪の間は空堀になってます。

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先ほど奥の曲輪から逆に見た写真。小さい曲輪が三つ、並んでいるのがおわかりでしょうか…

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曲輪の高さ(堀の深さ)はこんな感じ。小さいですね。

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奥の主郭から見た風景。実は真ん中にぽこっとある丘、これが池和田城なんです!つまり、池和田城の真向かいの丘にこの城があることになります。

という訳で、記録にも伝承にもないお城のようですが、池和田城の真向かいにあるのですから、池和田城と何か関係があると考えるのが自然でしょうね。永禄年間に北条氏が池和田城を攻めていますから、その時の城かもしれないし、もっと以前の長南武田氏関係かもしれないし…それにしても、不思議な城でした…

以上、千葉城郭研究会合宿報告おしまい!ありがとうございました…

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参考文献

千葉城郭研究会編『図説 房総の城郭』(国書刊行会、2002年)
千葉城郭研究会合宿記録の続きです…すっかりご無沙汰してしまいました。

平蔵城の次は、房総中央部の城の中でもかなり有名どころである、池和田城です。いつ築城されたのかはよくわかっていないようですが、永正年間(1510年前後)には、長崎氏という在地領主がいたそうなので、その人関係のお城の可能性もあります。が、はっきりと歴史に登場するのは、次の多賀氏という領主です。

多賀氏についてもよくわかっていないようですが、上総長南武田氏の筆頭家臣的存在だったとされています。永禄年間には北条氏と里見氏の攻防戦の舞台ともなっていたことが、『関八州古戦録』という軍記物に書かれています。という感じで、有名な城にしては、史料が少ないんです…

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お城の入口。切り通し道になっていて、そこが一応駐車場になっているようです…普通の道ですが。こんな感じで標柱が立っています。

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標柱のすぐそばから登ります。するとすぐにこの井戸に着きます。ここは主郭へ通ずる道の途中で、今でも水が出ているようです。

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井戸を過ぎるとすぐに主郭(本丸)に到着。難なくたどり着けます。まずまずの広さで、横堀らしき跡が残っています。神社も建ってます。なんかあんまし堅固じゃなさそうだ…と思ったら大間違い、実はこの神社の裏手が断崖絶壁になっているのです!縄張図じゃよくわからなかったのですが、ものすごい絶壁なんです。房総の城はこういうの多いなぁ…

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絶壁の下は二の丸になっています。左側が先ほどの本丸の崖になっていて、本丸は左上の方向になります。ちょっとわかりにくいですね…本丸と二の丸の連携はどうやっていたのか、よくわからんです。

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二の丸にある櫓台。二の丸のここだけ小丘になっていて、櫓台のような感じになってます。

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二の丸からの眺め。北西の方ですね。もうちょっと西の方が深田が続いた重要な場所だったらしいのですが、木が邪魔で写真じゃわかりません…

縄張自体は技巧的なものではないですが、本丸直下の絶壁に見られるように、チマチマした縄張ではなく、地形にのっとってドカンと遮断する部分は遮断する、ていう感じの城に見えました。

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参考文献

千葉城郭研究会編『図説 房総の城郭』(国書刊行会、2002年)
次は、平蔵城というお城です。これも知る人はほとんどいないでしょう。]

応永25年(1418)に、鎌倉府に対抗して上総本一揆という武士の一揆が起きますが、その時に一揆軍が籠城したのがこのお城、と言われています。というのも、当時の史料に「平之(三)城」と登場しまして、これが平蔵城を指すのかどうか微妙なんです…。その後、土橋氏という人物が城主をしたとも伝えられてますが、さらにその後に正木氏が拠ったのではないかと推定されています。現在の遺構は、この頃のものかもしれません。

縄張は、この図がいちばんわかりやすいです↓
http://www.city.ichihara.chiba.jp/~maibun/isekifile111.htm

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まずは、平蔵城近くにある、吉沢城の麓にある、国指定重要文化財の鳳来寺観音堂です。室町時代後期のものとされてまして、関東ではなかなか珍しい当時の建築物といえるでしょう。

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観音堂跡地と吉沢城。観音堂からちょっと歩いたところに、移築前の観音堂があった場所があります。裏山が吉沢城跡です。城跡は今回は行きませんでした。

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西願寺阿弥陀堂。吉沢城から山を隔てたところが、平蔵です。その平蔵にも、なんと、同じように室町時代の建造物がこうして残っているんですね。もちろん、重要文化財です。奇跡的なことです!

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阿弥陀堂から見た平蔵城(平蔵城山城)。阿弥陀堂から歩いてすぐのところにあります。城と関係が深かったものと思われますね。

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平蔵城の曲輪。右側が腰曲輪のようになっていて、左側上が主郭方向です。写真撮ってわかるのはここくらいなので、写真はこれだけです…

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さっきの腰曲輪の奥。こんな感じで、土塁っぽいものがあります。この後、上に上って主郭を見ましたが、藪がすごくて何にもわからない状態でした。主郭内は削平が不十分な感じがしましたが、どうなのでしょうか…

この後、里見義頼印判状(恵日寺文書)に登場する、平蔵郷の地名の比定地をめぐり、文書の世界を体感できました。

千葉の鄙びた田舎にある平蔵ですが、中世の面影をよく残している稀有な地、といえましょうか…。


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参考文献

小高春雄「城郭史におけるひとつの画期―史料にみる地域の例から―」(『千葉城郭研究』第2号、1992年)
千葉城郭研究会編『図説 房総の城郭』(国書刊行会、2002年)
どんどん参ります。次は、真ヶ谷城跡。これもかなりマニアックなお城です…僕も全然知りませんでした。

真ヶ谷城は、文献史料には一切登場しない、謎の城のようです。地名として、「要害」とか「殿部田」「堀ノ内」といったものが残っているのと、明らかに城郭遺構があるので、城であることは間違いないですね。

また無名にしてはずいぶんとデカイ城でして…房総の城は本当にデカイのが多いですね。なんでなんでしょ…

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真ヶ谷城を望む。直下を走る道路からの写真です。比高は3、40mほどのようです。

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北側の、主郭と思われる曲輪の一段目(…のはず)。土塁が残っていて、それなりに曲輪の形がわかるのではないでしょうか…図面も載せたいのですが、作図者の名前を載せないといけないので、載せ次第、アップしてみようと思います。

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主郭と思われる曲輪の二段目、土塁上から見た曲輪内。ここはなかなか広くて立派な曲輪。土塁も分厚く高いんです。

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北の端の方にある曲輪から、主郭方面を見る。真ん中が堀切になっていて、その向こうに曲輪があるのがわかり…ませんね。冬でもこの状態ですから、夏はまず行かない方がいいでしょう!

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北限の堀切。ここで城域はおしまいのよう。先端に櫓台のような高まりがあって、そこから下を見ると、絶壁で立ちすくんでしまうほど。これは、こちら側からの攻撃は無理ですね。

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変わって城域西側の「要害」という地名が残っている曲輪。こんなに広くて、今は畑になってます。すごく広いです。土塁らしきものがなく、ただ平場になっているのが印象的でした。南側の斜面には帯曲輪状のものもいくつか。

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南側麓にある「殿部田」という地名のところ。こんな感じで、堀っぽい地形が残ってます。堀かどうかはわかりませんが、地名からして、城主関係の施設があったのでしょうかね。

全く、謎の城です。技巧的な部分はあまりなさそうですが、とにかく広い。近年の研究では、地理的位置などから、長南武田氏関係の城郭ではないかと推測されています。詳しくは、下の参考文献を御覧下さい!

鳥瞰図などもある、余湖さんのホームページも是非御覧下さい!↓
http://yogokun.hp.infoseek.co.jp/manasingayatu.htm

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参考文献
千葉城郭研究会編『図説 房総の城郭』(国書刊行会、2005年)

千葉城郭研究会合宿の続き…今回は、有木城というお城です。

天正四年(1576)に対里見氏のために、北条氏政により築城されたお城です。それは、次の史料から明らかです。

天正五年二月二十六日付け里見義弘書状(『千葉県の歴史』資料編中世4、吉川金蔵氏所蔵文書)

「…仍旧冬氏政当国東西へ相揺、其上号有木地取立、椎津為物主下総惣番手ニ加、相州衆相抱候…」

この頃、北条氏と里見氏はかなり激しく戦ってまして、北条氏の方が押せ押せムードでした。そのとき、対里見氏の拠点として新たに築城したのが、この有木城という訳です。椎津氏を城将として、下総衆と相州衆=相模の軍勢=北条氏の軍勢も入城し、北条方の拠点となったことが書かれています。

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有木城田郭を見る。下が道路になってまして、そこからの眺めです。主郭はもっと奥になります。いかにも城跡っぽい雰囲気がしますね。

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主郭にある八幡神社。公園になってまして、土塁状のものがありますが、本物かどうか疑わしいです。

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この鳥居の反対側の藪の中に、こんな感じで空堀が若干残ってましたが、藪が酷くて写真が全く意味不明ですね…

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外郭のものと思われる土塁。これそうなのかなぁ…微妙。つなげてみると、それなりに折れを伴うお城の姿が出てきますが…外郭方向にずっと台地が続いていて、このへんの防御はどうしていたのか、気になるところ。

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田郭からの眺望。ちょうど小湊鉄道が走って行きました!なかなか眺望は良さそうですね。私有地なので、許可を得て入れさせて頂きました。

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田郭の空堀。だいぶ埋まってよくわかりにくいでしょうが、かすかに面影が…堀幅は割とありますね。そこそこ大きい堀だったと思われます。

天正五年十月頃、北条氏と里見氏は和睦し、「房相一和」と呼ばれる同盟関係となります。事実上、里見氏の敗北といえるでしょう。その後、里見氏の内部争いが激化しますが、北条氏との戦争は起きませんでした。この有木城も、天正五年に役割を終えたと思われます。

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「房相一和」については、拙稿「「房相一和」と戦国期東国社会」(佐藤博信編『中世東国の政治構造―中世東国論上』(岩田書院、2007年)参照。

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