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                  (画像は、姫路城大手門(旧桐二の門)と天守)

「城と動物」のコーナー、今回は、世界遺産姫路城が舞台です。

姫路藩主の酒井氏が、姫路城内の諸門の出入りについて、掟を制定しています。その史料が結構たくさん残っているのですが、そのなかに動物が登場します。


【史料】諸門出入り取締り定(『姫路市史』第14巻別編姫路城、p756)

  桐御門・絵図御門張紙右両所御門江通御書付
(中略)
一、若放馬飛来候ハゝ相止、御本丸江馳入不申候様可致候、
 附、犬御本丸江入不申候様可心付候、


姫路城の桐御門・絵図御門という門に張り付けられた掟書のようです。両門は、姫路城の主要部分(本丸・二の丸・三の丸など)に入るための重要な門の一部だったそうです。時代は、「未正月」としか書いていないのでよくわかりませんが、どうも江戸時代中期頃、宝暦・寛延年間あたりのもののようです。


これによると、「放れ馬」が城門に向って飛び掛かってきたならば、本丸へ入らないようにしなさいとしています。


それに関する附則として、犬も本丸に入ってこないように注意しておきなさい、と書いています。


どこかの馬がいきなり暴れてしまって、そのままどんどん走っていって本丸への入り口の城門にまで突撃してくることがあったんでしょうね。そういう場合は、とにかく本丸の中には入らせないように気を付けろという訳です。


で、附則の方が面白いですね。どうも城内に紛れ込んだのか、誰かが飼っていたのか、犬がウロウロしていることがあったようで、犬についても、本丸へ入ってこないように、常に気を付けていなさいとしている訳です。


城門番のなかには、やってきた犬を可愛がったりした人もいたのかもしれませんね。


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                        (画像は、江戸城大手門とお堀)

久しぶりの「城と動物」のコーナー、今回の舞台は江戸城です。

江戸城といえば、広大なお堀が印象的ですが、あれだけデカイ堀ですから、誰か落ちたりしないのだろうか…とふと心配になることもありませんか?? 調べたら、実際、よく落ちていたようです。しかも、人だけでなく、動物も落ちていたようで。

【史料】所々御堀際高札(『徳川禁令考』第三巻p144)

貞享三寅年四月
一、御堀江人之儀ハ不及申、鳥獣之類落候共、随分はやく取上可申候、向々御堀際にてあけ候事不罷成候者、大手小普請小屋ニ船有之候間、早々申達之船参次第乗候而取上置、其上御目付衆之内江相達、受差図可申候、魚類者死候而浮候而も其儘可差置候、以上、
 寅四月  御目付中

貞享3年(1686)4月に出された掟ですね。これにいろいろと書いています。

まず、お堀へ人については言うまでもなく、鳥獣などが落ちてもすぐに取上げなさい、としています。人がよく堀に落ちていたことがわかると同時に、「鳥獣」=動物も落ちていて、人でも動物でもすぐに助けてあげなさい、と言っています。やはり、犬や猫とかが落ちちゃうことがあったんでしょうか。馬とかも落ちちゃうことがあったのかな…

で、落ちちゃった人や動物は、堀際だったらわりと楽に引き上げることができるんでしょうが、広い堀のど真ん中あたりでそれが出来ない場合は、大手門の方に「小普請小屋」という小屋があったようで、そこに船があるので、すぐに船を出すように言いなさい、としています。なるほど、確かに船があった方が便利です。

それで、船がやってきたらそれに乗って人や動物を引き上げて、そのうえで御目付衆の方に知らせて、その指図に従うように、としています。落ちた人が怪しい人だったり、あるいは死んでしまっていたりする場合もあったのでしょう。ともかく、御目付衆が処分を下すことになっていたようですね。

最後に、魚類については、死んでしまってお堀に浮いていても、そのままにしておきなさい、としています。これは結構ショッキングな内容ではないでしょうか!?そんなのでいいのか…城内の「不浄」に繋がってしまう気がしますが、そんなもんだったんでしょうか…一方では殺生禁断ということで「釣り禁止!」とかよく言っているのに…わからんです。

具体的に、どんな動物が落ちていたのか、そんなことがわかる史料があったらまたご紹介します。

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             (画像は麓にある城主・内藤氏の屋敷跡から見た津久井城)

「城と動物」のコーナー、何か良いネタはないかと思ったら、灯台もと暗しもいいところで、こんなに最適なネタがあったことを忘れておりました。今回は、何かと縁がある神奈川県相模原市津久井町にある戦国時代の代表的山城、津久井城が舞台です。

津久井城は、30分くらいは登るような山に築かれた典型的な山城です。津久井城に限らず、城跡を歩いていて、山の上まで馬は登っていたのだろうか?と思ったことはありませんか?実は、その様子がちょっと見えてくる珍しい史料が残っているのです。それが、以前にもご紹介した「津久井城掟」の一部です↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/11265699.html


【史料】北条氏朱印状(詳細は参考文献参照)

(前略)
一、一騎合自分之騎数共ニ高山乗馬無所詮候、根古屋ニ置候者、人を不付而叶間敷候、自当地或乗懸、或歩にて可罷立候、五騎三騎之間、可致弁済者ハ随意候、

<書き下し>
一つ、一騎合・自分の騎数ともに高山に乗馬、所詮なく候、根古屋に置き候はば、人を付けずして叶うまじく候、当地よりあるいは乗懸、あるいは歩きにて罷り立つべく候、五騎三騎の間、弁済致すべきものは随意に候、


北条氏は、本国である相模国と甲斐国のちょうど境界に位置する津久井城へ、山角定勝(やまかくさだかつ)という馬廻(うままわり)衆を派遣しました。おそらく、小田原から津久井へ行ったのだと思います。

解釈が非常に難しいので、正確ではないかもしれませんが、山角定勝の軍隊は、馬上1騎と従者1人の組み合わせである「一騎合」(いっきあい)という身分的にはやや下のランクの軍隊と、山角定勝自身の軍隊の混合軍のようなものだったようです。

で、両方とも馬上の侍がいるわけですが、高い山である津久井城に乗馬しながら登るのは仕方ないと言っています。乗馬をしないで登るのだったら、「根古屋」という城の麓の家臣団居住域・城下集落に馬を置いて登る方法もありますが、そうするには馬を管理する人を付けないといけないようなのです。

なので、「当地」=小田原から「乗懸」(乗懸馬。ここでは民間の輸送業者・タクシーのような感じ?)を使って行くか、あるいは乗馬しないで歩いて行くのがよいと言っています。

最後が一番難しくてよくわからないのですが、馬上の侍は5騎3騎ほどなので、どうするかは任せる、ということだと思います。蛇足ですが、「5騎3騎」というように、「5と3」というのは、今で言う「2、3」という意味と同じで、ちょっとだけ、わずかな、という意味で使われる数字だったようです。

ということで、ちょっと難しい史料なのですが、少なくとも山城に馬が登ることがあったことがわかります。当たり前のようにみえて、ちゃんと書いてある当時の史料は意外と無いものです。ちなみに津久井城には「馬道」という道が今も残っていまして、馬が登っていた様子を伝えているのかもしれません。

ただ、乗馬は仕方ないとか、麓の根古屋に馬を置くこととか、乗懸を使ったり歩いて行くことを勧めていることなどから、どうもあまり馬を津久井城の山頂にまで登らせたくないような雰囲気も感じます。これはなぜなのでしょう…。まぁ確かにあの険しい津久井城、しかも山頂部分もそんな広い訳ではないし、馬までたくさん登ってきたらいろいろと大変なような気もします。にしても、よくわかりません…

難しい史料なので、他にも解釈があると思います。取りあえず、今回はこんなところで…


津久井城がある津久井湖城山公園はこちら
http://www.kanagawa-park.or.jp/tsukuikoshiroyama/

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参考文献
柴辻俊六「津久井城加番役定書について」(『戦国史研究』第52号、2006年)
拙稿「境目国衆の居城と大名権力ー相模津久井城掟の分析からー」(『千葉史学』第53号、2008年)
『特別展 戦国の馬と城』(馬の博物館図録、2010年)

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                         (画像は、舞台となった松山城)

「城と動物」のコーナー、今回は有名な話なので、御存知の方も多いと思いますが、武蔵国松山城と岩槻城(いずれも埼玉県)を往復した軍用犬の話をご紹介します。なんでも日本初の軍用犬と云われているようですが、もちろん史実かどうかはわかりません。松山城についてはこちら↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/22262849.html

有名な話ではありますが、ちゃんと元となっている出典から読んでみましょう。


【史料】「関八州古戦録」巻5

(前略)
岩築エハ関東道三十里許ノ行程ニシテ、適時ニ急ヲ告ケ難キニ付テ、三楽斎兼テ是ヲ思量シ日比飼タリシ逸物ノ狗五匹を松山エ遣シ、尋常ニ使ノアル毎ニ相副テ往返ナサシメシカ、此度大軍ノ囲ヲ受間諜ノ者タモ自由ヲ得サルカ故、白文ノ陰書ヲ認メ一束ニ切タル竹筒ニ籠テ小口ヲ封シ件ノ狗ノ首ニ結ヒ、□ケ深更ヲ待テ城内ヲ出シケレハ、山野ニ焼続ケタル篝火白昼ノ如クナルニ、此犬彼方此方ヲ経回リ、難ナク岩築エ走リ来ル、三楽斎則白文ヲ水ニ浸シテ見ルニ分刻僅ニ一時カ程ナリ、
(後略)


永禄4年(1561)に小田原の北条氏が越後の上杉氏方であった松山城を攻めた時の話となっています。あくまで「軍記物」といわれる、江戸時代以降の作品なので、作り話も交えた一種の物語ですので、すべてが史実という訳ではありません。そのへんは注意して下さい…。

さて、上杉方であった、岩槻城主の太田三楽斎道誉という人は、松山城と岩槻城で何かあった時に、両城の間は距離があるので、迅速な連絡が取れないことを心配し、5匹の犬に普段から両城を往復させていたんですね。で、今回松山城が北条氏に包囲されてしまったのですが、日ごろの訓練の成果が発揮される時がきたのです。

松山城に籠城している上杉憲勝たちは、白文の密書を竹筒に入れて、それを犬の首にかけて、松山城から外に出しました。その犬は、ちゃんと包囲網を潜り抜けて、見事にわずか「一時」で岩槻城に到着しました。それを受け取った三楽斎は、白文の密書を水に浸したところ、文字が浮かび上がってきて、松山城の様子がわかった…というお話です。

なんともよくできたドラマチックな話ですね〜。これが事実かどうかはわからないのですが、まぁ武将たちが犬を飼っていて、何かしら使っていたと考えること自体は悪くはないと思いますけどね。軍用犬については、同じ埼玉県内で伝説も残っています。それはそのうち「城と伝説」のコーナーで取り上げましょうか。

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参考文献
槙島昭武編『関八州古戦録 影印本』関東史料研究会、1973年。他にも現代語訳されたものなど、いろいろと種類があります。

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                       (画像は、今回の舞台となる二条城)

久しぶりに「城と動物」のコーナーを更新しましょう。だいぶご無沙汰してしまいました…

今回は、お城と魚の関係をご紹介します。皆さんの中にも、お堀の中で魚を飼っていたりしていなかったのかなぁ…と思った方、多いと思います。実は、そんなことがわかる史料が、あるにはあるんです。

今回ご紹介する史料は、江戸時代の元禄3年(1690)に、長崎の出島にやってきた、ドイツ人医師・ケンペルが書いた『日本誌』です。ケンペルは結構有名人ですよね。彼は、翌4年と5年に、長崎から江戸までを往復していて、『日本誌』では、その道中で見たものを事細かに記しています。その中には、彼が京都の二条城に立ち寄った時に見聞きしたことも記されていて、そこに面白いことが書いてあるんです。

【史料】ケンペル『日本誌』

スケッチした見取図によると、城廓は方形で、1辺の長さは150間、石垣を築いて深い濠を囲らし、その外側にさらに幅の広い平地を繞らしてある。中央には1個の四角い数層の高い櫓を築き、濠には味のよさそうな鯉が放魚されている。その晩われわれの通詞の許に、この濠の鯉が数尾届けられた。城には普段は相当数の衛卒を率いる定番頭が居住し、警衛の任に当っている。

これによると、二条城のお堀では鯉が飼われていて、ケンペルの通訳のもとに、その鯉が数尾届けられた、ということがわかります。おそらく、「おもてなし」として、この鯉がケンペル達に振る舞われたのではないでしょうか?「味のよさそうな…」とか言っているところが面白いですね。お味がどうだったのか、残念ながら書いてありません…。

以前、更新した「お城のオキテ2」↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/21441590.html

でも、江戸時代の米沢城でお堀の魚を勝手に捕ることが禁止されていたことを見ました。どうも全国的に、お堀で魚を飼うことは、割と一般的だったような感じもしますね。

ただ、今回の場合で面白いのは、ケンペルのような「お客様」に対して出されていることですね。お堀の魚というのは、そういう特別なお客さんや行事等のために、飼われていたのかもしれません。もちろん、観賞用のこともあるようですが。

他にもこんなふうにお堀で魚を飼っていることがわかる史料が無いか、探してみたいと思います!

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参考文献
今井正訳『ケンペル 日本誌』下巻(霞が関出版、1973年)のp253

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