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                      (画像は長野県荒砥城。イメージです)

「城と火事」のコーナーも10回目を迎えました。ここのところ、江戸時代のお城と火事の話をしてきましたので、今回は戦国時代に戻りましょう。舞台は、現在の埼玉県さいたま市岩槻区にあります岩付城です。今では「岩槻」と書きますが、当時は「岩付」と書かれていました。

天正18年(1590)、豊臣秀吉が大軍を率いて小田原北条氏を攻めに来ました。いわゆる「小田原合戦」というやつですが、その時に戦いの舞台となったお城の一つが、この岩付城でした。「のぼうの城」の舞台となった忍城は持ちこたえたものの、この岩付城は猛攻撃を受けて、激戦の末数日で落城してしまいました。


そんな岩付城ですが、籠城戦に際して、急遽火事を警戒して、建物の改修をしているのです。



【史料】松浦康成書状(『戦国遺文後北条氏編』3734号、越前史料所収山本文書)

口上ニ可承之候、昨日惣構被押破、人衆悉崩入候処ニ、惣戸口之門、貴殿物はやく御開候故、数百人身上無異議取入候、近比御手柄共ニ候、則大曲輪横へ具披露申候へハ、事之外御褒美ニ候、後刻出仕可被申由、仰出され候、仍帷子三ツ被遣之候、然者大手口ハ物近取寄候、鉄炮しかい可為其間候、其曲輪之義ハ沼面ひろく候之間、先以心安存候、敵おもての方ハ板屋にて候が、小屋共作籠かや家之事ニ候間、火之廻無心元候、可被遣御念候、此段福又八郎方・金子駿河守方へ堅可被仰候、本城ハ萱屋之分、昨晩より今夜普請ニ悉ぬり屋ニ申付候、猶以此節ニ候間、無二無三御走廻肝要候、
    松佐渡守
    五月廿一日(天正十八年)       康成(花押)
    山信濃守殿
         参御宿所



これは、岩付城の「本城」(本丸)にいたと思われる北条氏家臣の松浦康成という人が、同じく岩付城のどこかの曲輪いた山本信濃守に宛てた文書です。長文なので一部分だけ抜粋しました。太字を中心に読んでみますと・・・


まず、山本さんが守備していた曲輪は、広い沼に囲まれているので、鉄砲で攻撃されることについては安心しているようなのですが、曲輪の建物についてはかなりの心配をしているのです。


というのも、敵側、ようは曲輪の外側ということでしょう、そこにある建物はみんな「板屋」だったようですが、籠城戦に対応してか、「小屋」がたくさん建設されていて、それらは「かや屋」=萱葺きだったようなのです。なので、火の廻りが非常に心配であると述べています。


で、松浦康成がいる「本城」の方はというと、こちらも「萱屋」の建物があったようですが、それは昨晩から今夜にかけて「ぬり屋」=塗屋=耐火建築に改修したと言っています。普通、塗屋といえば漆喰などを使いますが、この場合はどうなんでしょう・・・。


豊臣軍に攻撃されるという大変な状況のなか、燃えやすい萱葺きの建物が多かったこと、火の用心のため、萱葺きを塗屋に改めたことがわかります。今さらそんなことしているのか・・・と突っ込みたくなりますね。「板屋」も燃えやすいような気がするのですが、この文書を見る限り、そうでもなさそうですね。萱葺きに比べれば、ということなのかもしれませんが。

それと、萱葺きの「小屋」がたくさん造られていたというのも面白いですね。これは、いわゆる「村の城」論とも関わるのかもしれませんが、籠城戦ということで、いろんな人たちが城内にいた訳で、そういう人たちが身を寄せるための「小屋」なのかもしれません。


城と火事の関係について、いろいろとわかると同時に、岩付城の構造や籠城戦の実像も垣間見えて、非常に面白い史料でした。


季節柄、火の元には気を付けましょう。


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すっかりご無沙汰中の「城と火事」、金沢城の「火事掟」の続きです。


最初は、前回見た四条目の続きの条文のようです。



【史料】「火事之節之心得」(『日本海文化叢書第三巻 金沢城郭史料』p103、後藤家文書、昭和51年)

二御丸詰番諸役人宅々ゟ家来真鞭持参候者、乗馬与一集ニ指置可申候、若御近火等ニ而於 御城中指引をも可致程之火事ニ候者、其節家来ゟ御番人江断、差図次第可罷通事、

一、御間之内江懸リ候而も煙も無之之所ニ而ハ丸子提灯弓をはづし携可罷越申事、

一、雨天之節 御城中塗笠着用仕間敷候、主人ハ手傘家来末々迄ハ管笠、当分相用可申事、



二の丸の詰め番の諸役人宅から家来たちが「真鞭」を持参したならば、乗り馬と共に一ヶ所に集めておくように。もし火が近くにまで来ていて、城中に入るようにと指示するくらいの火事であったならば、その時は家来から門番へ断って、指図があり次第門を通ること、というような感じでしょうか。「真鞭」というのがよくわかりませんが、火消しに使う棒か何かでしょうか。火事でも、よっぽどの状況でない限り、主人は入れても家来は入れない、ということのようですね。


次の条では、城中に入って、御殿の部屋の方へ来るとき、火事の煙が来ていない場所でも、提灯弓を外して手で持って来るように、ということでしょうか、ちょっとわかりにくいですね。これも、よっぽどヒドイ状況でない限り、提灯を指して御殿入り込むのは禁止、ということなのでしょうか。


最後の条は、火事の時に雨が降っていても、城中においては塗笠を着用することは禁止する。主人は手傘を、家来下々は「管笠」(=菅笠?)を用いるように、とのこと。細かいですね、火事という緊急事態の時は、たとえ雨が降っていても、塗笠なんてのを着用するのはもっての外で、身分相応の笠を着用するように、ということのようです。


解釈が微妙なところもあるかもですが、面倒な掟があったということはよくわかるということで。


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                            (画像は河北門)

城と火事のコーナー、8回目になります。今回は、金沢城に出された火事の掟を見てみましょう。

金沢城には「城中出入定」という史料が残っています。年代はよくわからないのですが、江戸中期あたりの法令のようで、編さん時の注が付けられていたりしています。そこに「火事之節之心得」という一節があるのです。


【史料】「火事之節之心得」(『日本海文化叢書第三巻 金沢城郭史料』p103、後藤家文書、昭和51年)


一、若火事之節 御城江罷出候等之義、今度被仰出之通無違失可相心得事、
一、遠所無気遣火事之節ハ、人々登城仕ニ不及事、
一、若火事之刻、御城中所々当番人之内宅類火歟又ハ隣家等ニ候ハゞ、夜中ニ而も代リ番人待請可罷帰事、
一、河北・石川両御門内鳶口一本為持罷出候義不苦事、
  但家来迄持参罷通候義ハ可遠慮事、


今回はこの4条を見てみましょう。

まず第1条目。もし火事が起きた時、お城へ参上することなどについては、この度命じた通りに間違いないように心得なさい、というような解釈でしょうか。これは、その前にいろいろと城門の出入り関係の掟が書いてありまして、そこにちょこちょこ火事の時にどのように城内に参上すればいいのかと細かく定めているので、そのことはちゃんと守るようにと言っている訳です。その内容については、追々ご紹介しようと思ってます。

2条目。遠いところで起きた特に気にしなくていい火事の場合は、皆の者はお城へ登城するには及ばない、と。遠くで火事が起きた場合は、別にお城へ出てこなくてもいいよということのようです。

3条目。もし火事が起きた時、城内の所々で警備・見張りなどの当番をしている人の屋敷が類焼してしまうか、またはその隣の家などが類焼してしまった場合は、夜中であっても代わりの番人が来るのを待ってから帰りなさい、と。お城を守る番人たちがいるわけですが、その人の家が燃えてしまった場合、またはそのお隣さんの家が燃えてしまった場合は、夜中の大切な番であっても、代わりの人が来次第、帰りなさい、ということのようです。番人への気遣いなのでしょうか。

4条目。河北門・石川門内に、鳶口1本を持って参上することについては認める。ただし、家来の者共までが持ってくることは慎みなさい、と。二の丸河北門・石川門内に、鳶口(とびぐち)=棒の先が鉄製のくちばしみたいにとんがっている、火事の時とかに家を壊すために使う鎌みたいな道具、それを持ってくることは構わないと言っています。ということは、普段はそういう危ないものを門内に持ち運ぶことは禁止されていたのでしょう。火事の時には必要不可欠の道具だからこそ、その時は構わないと。1本だけというのは何故なんだろう・・・

ただし、家来の者共までが鳶口を持ってくることはやめろと言っています。家来たちは何をするかわからないから、危ないからやめろ、ということなのでしょうか。

という感じで、火事に関するさまざまな掟があったことがよくわかります。実に細かく定められていたのですね。

5条目以降もあるので、その2へ続きます・・・

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                    (画像は、諏訪原城虎口。本文とは無関係です)

久しぶりの「城と火事」のコーナー、今回は、栃木県小山市にあります、小山祗園城で起きた火事を考えてみたいと思います。

まずは、早速史料をご紹介しましょう。


【史料】小山孝哲(秀綱)書状写(『小山市史』史料編中世、636号、秋田藩家蔵文書)


急度申越候、仍一昨夜中実城火事出来、残候家ハ陣屋・大膳・中務・刑部太輔、是等計之由申候、たかや河内・よこくら豊前家二ヶ所間より、たき火出候由申候、誠無是非候、即刻不入何ケも彼地へ罷越度候へとも、旧冬以往いたミ申候くら下、近日者猶増進、きう所なと二三ケ所申、其上のり馬とても持不申候間、芳々以不罷成候、自何実城之西之門やけ申、迷惑ニ候、大せん一札為御披見進之候、恐々謹言、
    二月十八日    孝哲(花押影)
    閑斎江


これは、城主だったのですが、故あって常陸佐竹氏領にいた小山秀綱が、佐竹氏家臣の岡本禅哲(閑斎)に送った手紙になります。天正4年(1576)のものと推定されています。これを読むと、祇園城が、かなり大規模な火事にあったということがわかります。

一昨日の夜に、祇園城の「実城」(みじょう。城の中心部。本丸およびその周辺か)で火事が起きた。焼け残った家は、陣屋(城主の居館?)と、一族の大膳・中務・刑部大輔、これらばかりと聞いた。多賀谷河内守と横倉豊前守の家の間から出火したとのことで、仕方がない。すぐさま祇園城へ駆けつけたいが、この冬以降、いろいろと体のあちこちが痛くて、乗馬もままならず、行くことが出来ない。何よりも、「実城」の西の門が焼けてしまったことは、大変迷惑である。

というような内容です。どうして火が出てしまったのかはわかりませんが、具体的な出火場所も書かれている、珍しい史料だと思います。これが、現在の祇園城のどのへんにあたるのか、もう一つわからないのですが、中心部の曲輪のどこかであることは確実でしょう。

さらに面白いのが、焼け残ったのが小山一族の家屋敷だけということです。出火場所が家臣の家屋敷だったことを考えると、同じ城内にいながら、小山一族と家臣団の居住空間は、別個のものだったことが推測されます。深読みかもしれませんが、これは祇園城の縄張構造が、ある種並列的で、各曲輪が独立的なものだったことを示唆しはしないかな〜なんて思ったりしています。

当時の城内には、結構たくさんの家屋敷があって、たくさんの人々が居住したり在番していたのかもしれませんね。だからこそ大規模な火事になったのでしょう。城の最大の敵は、やはり火事といえましょうか…

寒くなってきて、乾燥もしてきました。我々も火の元には十分注意しましょう!

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参考文献
市村高男「下野国小山城下町についての考察」(同『戦国期東国の都市と権力』思文閣出版、1994年)

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                         (画像は、川越城本丸御殿)

「城と火事」のコーナー、最近は乾燥してきましたので、火事の話題に。

今回は、江戸時代の正徳5年(1715)。武蔵国の川越城(埼玉県川越市)の諸城門に出された掟書から。川越城での火の用心のあり方をちょっとだけ見て見ましょう。

【史料】】国立史料館所蔵秋元家中福井家文書(『川越市史』近世編機■陦械牽魁繊

一、火之用心大切ニ可仕候、風立候ハゝ持分之場所繁々可相廻候事、

火の用心は大切である、風が出てきたならば、自分の担当場所を常にめぐってチェックしなさい、と命じています。燃えやすいですからね…

では、火事が起きちゃった時はどうするか。

一、出火或は廻り場之内不慮之儀有之候ハゝ早拍子木打之、其所尤番所を守、事落着候ハ相図之拍子木二ツ宛静ニ打之、猶下知を相待候事、

出火のとき、あるいは担当場所で何か思いもよらない出来事が起きた場合は、スピーディーに「カンカンカンカンカン」と拍子木を打ち鳴らして、番所を守りなさい。問題が解決したならば、合図の拍子木を静かに「カン、カン」と2回ずつ打ち鳴らして、次の命令を待ってなさい、と命令しています。

今でも、火事が起きると、消防車のサイレンが大きい音で速いスピードで鳴りますが、鎮火すると「カランカラン」と静かな音を鳴らして知らせてくれますよね。あれと似たようなものでしょうか。

こういう史料を読むと、当時の情景が浮かんできますね。

こういう江戸時代のお城の火事の掟書って、山ほどあります。それを少しずつ今後も紹介していきます!

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