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                       (画像は、舞台となる金山城の現況)

「城と信仰・祭礼」のコーナー、今回は、群馬県の金山城が舞台です。


金山城といえば、国史跡にもなり、関東を代表する山城として有名ですが、とにかく文献史料が豊富に残っていることでも知られています。そんな史料の一つに『長楽寺永禄日記』というのがあります。これは、金山城の近く、世良田にある有名な長楽寺の住職・義哲が書いた日記で、金山城主の由良氏と深い付き合いがあったので、金山城のことが事細かに書かれています。


そんな日記なのですが、これを読むと、金山城内に寺院があったことがわかるのです。


【史料】「長楽寺永禄日記」永禄8年1月4日条(『史料纂集 長楽寺永禄日記』続群書類従完成会、平成15年)

四日、一番鳥以前ヨリ各起、登山之用意イタサス・・・無程山へノホリ、小屋ニテ茶ヲノミ・・・軈而実城ヘイヅ・・・ソレヨリ開山へ参、別当ニ扇子一本、十袋為持ツル、



永禄8年(1565)正月四日、義哲は年始の礼のため、長楽寺から金山城へ行ったのですが、その時の様子を書いた一部です。長楽寺から、まずは金山城の西の出入り口近くにある「小屋」に寄り、そこから城へ上って「実城」=城主由良氏に挨拶し、そのあと「開山」へ行って、そこの別当に扇子と茶袋を贈っています。


この「開山」が問題になるのですが、どうもこれは、長楽寺の開山を祭ったお堂=開山堂が金山城内にあったようで、そのことを指すそうなのです。で、「別当」というのは、その開山堂に常駐している僧侶のことと考えられています。ということで、金山城内に寺院があって、そこに僧侶が常駐していた、ということがわかります。この開山堂は、いわば長楽寺の出張所みたいなものだったといわれています。


そういえば、以前記事にしました、近江の小谷城の場合も、城内に近隣寺院のお坊があって、出先機関的な役割をしていたと考えられていることをみました↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/28795800.html


このように、お城の中に地域の有力寺院の出張所的なお堂があった、ということが、東西問わずにいえそうです。長楽寺の場合、由良氏が領主であり旦那だったということもありますし、由良氏への加持祈祷を行ったり、城の普請をしたり、周辺勢力との外交折衝したり、とにかく政治的にも宗教的にもいろいろな活動をしていました。なので、城内にお堂を立てて、そこに僧侶を常駐させることにより、長楽寺本寺と頻繁に連絡を取っていたのでしょう。


金山城内には、実は他にもたくさんの寺院があったようなのです。それについては、そのうち・・・

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参考文献
峰岸純夫「『長楽寺永禄日記』に見る新田金山城の構造」(『季刊 ぐんしょ』72号、2006年)

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                         (画像は、現在の高岡城跡)

久しぶりの「城と信仰・祭礼」のコーナー、先日行ってきた富山県の高岡城に関する史料がありましたので、ご紹介します。

高岡城は、初代加賀藩主の前田利長が隠居城として慶長14年(1609)に築城したお城です。その前は、富山城が隠居城だったのですが、火事で全焼してしまったので、新しく高岡城を築いた訳です。

で、その築城にあたって、利長が「地祭」、つまりは地鎮祭のことだと思いますが、それをやっていたことがわかる史料があります。


【史料】前田利長書状(『金沢市史』資料編3近世1、57号、尊経閣文庫所蔵文書)

   尚々はうしゅゐんゟかたひら被下候物とも、いつにてもこんきに御れい申あけ候よく候へく候、
高おかしろぢまつりの事、はやくりからめうおういんへ申つけ、しゅぎやういたし候間、此よしはうしゅいん殿へ被申へく候、かしく、
  五月十七日


高岡城の「ぢまつり」=「地祭」を、倶利伽羅峠にある明王院というお寺さんに命じてやらせた、そのことを、前田利家の奥さん・利長の母親で、当時江戸にいた「はうしゅいん殿」=「芳春院殿」(まつ)に伝えてくれ、という内容です。

築城する前に、地鎮祭を行なっていることがわかります。この時は、倶利伽羅峠にあった明王院というお寺のお坊さんがしたことがわかりますが、これには後日談があるそうです。

どうもこれを聞いた芳春院殿は気に食わなかったようで、地鎮は陰陽師の役目だから、陰陽師にもう一度させろと言って、やり直させているんですね。そんなこともあったんですねぇ。

ただ、「城と信仰・祭礼2」で見た戦国時代の金山城では、長楽寺の松陰というお坊さんが地鎮してましたけどね↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/19791467.html

地鎮一つとっても、いろいろ考えがあるということでしょうか。

この史料、とても有名な史料のようで、ネット上でも詳しく解説されてます。どうも高岡城は比較的史料に恵まれているようで、築城の過程がよくわかるお城のようですね。高岡市立博物館のHPがとても詳しく参考になります↓↓
http://www.e-tmm.info/siro.htm

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                         (画像は、小谷城現地案内図)

「城と信仰・祭礼」のコーナー、今回は、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」にかけて、小谷城が舞台です。

この小谷城、ものすごい山城ですが、どうも城内に計画的に寺院を配置していたようなのです。その様子がわかる史料が、以下のものです。


【史料】浅井久政下知状(『近江国古文書志』第一巻 東浅井郡編、p291、浄信寺文書)

当城搦手ニ、従諸山一坊宛被立置候間、当寺儀も同前ニ可被相立候、尚以急与御馳走簡要候、恐々謹言、
    卯月廿四日   浅井新九郎
                久政(花押)
        
         年行事
          御坊中

差出人は、お江のおじいちゃんである浅井久政で、宛先は破れてしまって「・・・寺」としかわかりませんが、浄信寺というお寺の古文書として残っているので、浄信寺宛てなのでしょうね。小谷城の北方にある木之本にあるお寺のようです。

ここで久政は、当城=小谷城の搦め手=裏口に、領内の諸寺院から一つずつ御坊を立てるので、浄信寺も同じように立ててください、と言っています。

つまり、小谷城の搦め手に、領内のお寺に御坊を建てさせているんですね。御坊ですから、まあ出先機関的な小さいものなのでしょうが、御坊を集中的に城内に配置しているというのが面白いですね。

で、この史料に出てくる御坊があったとされる曲輪が、現在も残っています。今回の画像の右上に「六坊跡」とあるのがわかるでしょうか。どうもここに御坊が建てられていたようなんです。確かに、本丸の裏手にあって「搦手」に当たりますかね。

「参考文献」によると、軍務や政務に関わる寺院が各地に散在していて不便なため、城内の一区画に集住させた、とあります。まあそんな感じの理解でいいんですかねぇ。

ともかく、こういう小谷城のような山城の内部に、御坊が立ち並ぶ区画があったというご紹介まで…。

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参考文献
『史跡 小谷城跡―浅井氏三代の城郭と城下町』(湖北町教育委員会・小谷城址保勝会、1988年)


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「城と信仰・祭礼」のコーナー、今回は江戸城の鬼門除けのお話です。

鬼門とは、陰陽道において邪悪なものが入り込むとされる北東(艮=うしとら)の方角のことで、今でもいろいろと気にされている風習の一つでしょう。江戸城の場合は、この北東の方角に上野寛永寺を建てて城を守るようにした、とよくいわれています。

ところが、寛永寺以外にも、城を守るための鬼門除けがされていました。それが、今も残る北東角の石垣の凹みです。以下の地図の場所ですね↓↓
北東側が不自然な形で内側(中心部側)にへこんでいることがわかります。北東側に角が立たないよう、わざとへこませていると考えられます。城の縄張も、すべてが軍事的な発想によって決定されている訳ではない、という一例ともなるでしょうか。
さらに江戸城の場合、この部分の石垣に、こんなものが彫られていることが知られています↓↓
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以前にも紹介しましたが、
ちょうど地図に示した部分、「東京メトロ・・・」の「東」の字の上の角っこの石垣に、「南無阿弥陀仏」という刻印が彫られています。「南無阿弥」までは今でもはっきりと読めますね。縄張を内側にへこませるだけでなく、石垣の石にお経を刻むことによって、鬼門除けを万全にしたと考えられます。
このへんの石垣は、関東大震災かなんかで崩れたらしく、どうも石垣を積み直したりしているようなのです。ただ、この「南無阿弥陀仏」の石は、移動されたかもしれませんが、場所が場所だけに、基本的にはこの鬼門の部分のどこかしらには昔からあったのではないでしょうか。
こうした鬼門除けの縄張は、鹿児島城など他の城でも見られるようです。が、こういうお経を刻んだ石まで知られているのは、江戸城だけ…かもしれません。
こういうことが、戦国時代のお城でもあったのかどうか、気になるところです。
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「城と信仰・祭礼」のコーナー、今回は、これも有名な話ですが、この時期ならではのエピソードをご紹介しましょう。

早いところだと昨日からもうお盆休みのようですが、戦国時代当時ももちろんお盆はありました。というか今よりもっと重要な年中行事でした。

そんな戦国時代のお盆の様子を、イエズス会宣教師として有名なルイス・フロイスという人が、日本滞在中に見聞きした様々なことを書いた大著『日本史』に書きとめています。フロイスを始めとする宣教師たちは、織田信長とも頻繁に交流していて、安土城に何回も訪れていることも知られていますが、今回の記事は、天正9年(1581)7月のお盆のお話、しかも、舞台は安土城とその城下町なのです。


【史料】フロイス『日本史』第二部第三一章

すでに盆と呼ばれ日本で異教徒が盛大に行なう祭―夜、各家の戸口や窓に多くの火をともし、提灯を掲げるのが習慣である―が近づき…(中略)…例年ならば家臣たちはすべて各自の家の前で火を焚き、信長の城では何も焚かない習わしであったが、同夜はまったく反対のことが行なわれた。すなわち信長は、いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、彼だけが、色とりどりの豪華な美しい提燈で上の天守閣を飾らせた。七階層を取り巻く縁側のこととて、それは高く聳え立ち、無数の提燈の群は、まるで上(空)で燃えているように見え、鮮やかな景観を呈していた。彼は街路に、手に手に松明を持った大群衆を集め、彼らを長い通りの両側に整然と配列させた。多くの位の高い若侍や兵士たちが街路を走って行った。松明は葦でできているので、燃え上がると火が尽きて多くの火花を散らした。これを手に持つ者は、わざと火花を地上に撒き散らした。街路はこれらのこぼれ火でいっぱいとなり、その上を若侍たちが走っていた…

現代語訳されているので、そのままなのですが、信長は、安土城内の家臣の屋敷で火を焚くことを禁じて、天主にたくさんの提燈を吊るしたことがわかります。お盆ですから、ようは「送り火」になるわけでしょうが、信長はそれを利用して安土城の天主のみを「ライトアップ」した訳ですね〜。ここから、信長は、日本でお城のライトアップを初めてした人とも云われているようです。

色とりどりの提燈でライトアップされた安土城天主…本能寺の変の直後に焼失したため、その姿はまさに幻です。今現在に至るまで、いろんな史料を使っていろんな復原図が描かれていますが、安土城を描いた当時の絵画でも出てこない限り、本当の姿はわからないんですね(信長は、安土城を描いた屏風を宣教師に与えて、それはローマにまで渡ったことが当時の史料から確認されるのですが、現在行方不明なのです…出てきたら国宝級でしょう)

ただ、今現在最もよく知られている復元案に基づいて、実寸大で最上層が復元されて、滋賀県近江八幡市安土町の「安土城天主 信長の館」に展示されています↓↓
http://www.zc.ztv.ne.jp/bungei/nobu/index.html

今回の画像は、昔に行った時に撮ってきたものです。これで想像するしかないですね…

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参考文献
ルイス・フロイス、松田毅一・川崎桃太訳『完訳 フロイス日本史3』(織田信長編掘中公文庫、2000年)

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