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                           (画像は川越城本丸御殿)

超久しぶりの「城とトイレ」のコーナー。とにかく戦国時代のお城のトイレに関係する史料はもう見終わっちゃったので、これからは江戸時代のお城の話がメインになっていきます。

さて、ちょっと変わった史料がありましたので、ご紹介したいと思います。

今回の舞台は、蔵造りの街並みが残る「小江戸」として有名な、埼玉県川越市の川越城です。時は江戸時代後期の秋元氏が城主の頃です。(1740年前後。正確な年代がわからず、そのうちちゃんと調べます)、

さて、この川越城の一郭には、童歌「とおりゃんせ」発祥地として有名な三芳野天神社があります。この神社、城内にあるので普段は参詣することができなかったのですが、年に一回だけ城下町の人々にも参詣できるお祭りの日がありました。

たぶんその時の話だと思うのですが(ご開帳とあるので、また別の時なのかもしれませんが…)、城内に人々が押し寄せるということで、藩側もいろいろと気を使っていて、様々な対策が細かく練られていました。その様子はそのうち「城と信仰・祭礼」のコーナーでも見たいと思いますが、そんな対策のなかに、こんな一文を発見しました。


【史料】国立史料館所蔵秋元家中福井家文書(『川越市史』近世編機■陦苅毅掘


足軽共江申渡覚
(前略)
一、田郭御門番所後三間程之横土手之候陰ニ雪隠壱ヶ所、参詣之小児等大小便之節猥リ無之候様被仰付候様、唯右衛門・理左衛門申立、御普請方より出来申候、


参詣する人々は、川越城の田郭という曲輪の門(今でも現地に石碑が立ってます!)から入っていくようなのですが、その田郭門内に、雪隠(せっちん=トイレ)を一ヶ所設置するよう命令していたようなのです。

で、具体的にどこに設置したのかというと、田郭門の番所から3間(=6m弱)後方の土塁の横あたりがちょうど木陰かなんかになっていて目立たない場所だったようで、そこに設置したことがわかります。

で、どうも設置する理由は、参詣者のなかには当然子供たちもいるので、そいつらが大便小便を撒き散らして汚さないようにするためのようです。で、雪隠を実際に作る御普請方が「ちゃんと完成しました」と報告をしたこともわかります。

川越城下の一大イベントの1つである三芳野神社のお祭り・御開帳の時には、こうやって藩側が雪隠を臨時に設置していたんですねぇ。藩側も大変ですな…。


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                     (写真は、舞台となった足柄城)

「城の社会史」、今回は久しぶりに「城とトイレ」のコーナーです。と言っても、もう戦国時代のお城のトイレネタは、これでおしまい…でしょうね。とにかくほとんど史料がないもんで…考古学的にこういう事例があるのかも知れませんが…。

まぁとにかく、足柄城のトイレの状況を、「足柄当番之事」という「城掟」から見てみましょう。足柄城は、金太郎で有名な神奈川県南足柄市、足柄峠にある戦国期の城郭でして、晴れた日には富士山の、それは素晴らしい景色を見ることが出来るところです。小田原城に近く、戦国大名北条氏のお城だったことがわかっています。


●北条家定書(『戦国遺文』後北条氏編、2336号、神原武勇氏所蔵文書)

一、人馬之糞水、手際を払、在城衆番衆共ニ、結構ニ為致尤候、此一ヶ条をハ、厳御断可然候、縦一日二日番衆延候共、妄ニして不可被請取候、

<現代語訳>
一つ、人や馬の糞尿は、手際よく、足柄城の在城衆や、派遣されてる番衆ともに、ちゃんと処理するべし。この一カ条は、厳しく命じる。たとえ、1日2日、番衆の在番期間が延びたとしても、糞尿の処理をちゃんとしていない場合は、(在番期間が終わった後でも)その持ち場を受け取ってはならない。


これは、天正10年(1582)の史料で、信長が武田氏を滅ばしてすぐの頃に出されたものです。ある種、緊張感溢れる状況の中でのものなんですね。現代語訳、ちょっと微妙なところもありますが…

まぁとにかくですね、ちゃんと糞尿処理はしなさいと言っている訳です(笑)。在城衆と番衆が別のものとして把握されていることも面白いですね。統一的に処理しているんじゃなくて、組織ごとに責任をもってやれと。しかも、この一カ条だけは特に厳しく命じる!としていて、相当北条氏も気になっていた様子がうかがわれます。

前回の浜居場城の事例で見ましたが、やっぱり城内の衛生状態が悪いと、病気がまん延する恐れがあるわけで、それを防ぐのはお城の守備をするうえで、最重要事項の1つだったんですね〜。

実際の処理の仕方は書いていないですけど、たぶん浜居場城と同じように、矢を放って落ちたところより遠く、という感じだったのではないでしょうか。


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「城の社会史」、今回は「城とトイレ」の続きです。もうすでに何人かの方にはネタバレですが…やっていきたいと思います…(写真は全然関係ありません)。

江戸時代はともかく、中世戦国時代のお城とトイレの関係に関する史料は、そんなにありません。そんなこといちいち後世に残さなかったのか何なのか、よくわかりませんが…しかし、戦国大名北条氏はマメなのか、そういう史料が残っているんです!

今回は、神奈川県は南足柄市にあります山城、浜居場城の「城掟」を見てみましょう(北条家掟書写 『戦国遺文』後北条氏編2240号、相州文書所収足柄上郡藤八郎所蔵文書)。

一、人馬之糞水毎日城外へ取出、いかにも綺麗ニ可致、但、城一遠矢之内ニ不可置、遠所へ可捨事、

(現代語訳)一つ、人馬の糞尿は、毎日城外へ取って出して、ちゃんとキレイにすること。ただし、城から矢を放って着地した場所より城内側に捨ててはいけません。それより遠くに捨てること。


浜居場城は、私は行ったことないんですが、小規模なお城で、隣の足柄城と共に、足柄峠をおさえる重要な役割を果たしていたようです。天正9年(1581)6月に、番衆に宛てて出したものです。

これによると、城内で糞尿を溜めておいたんでしょうね。桶かなんかで。それで、毎日それを城外に捨てろと命令されていました。

ところが、捨てる場所が面白いですね。お城から、矢を放つわけです。それで、ヒュ〜っと矢が着地したその場所より外に捨てろと。それより内側に捨てたらダメよと。細かいですね〜!

このことに関しては、既にいろいろなお城関係本で解説されていることなんですが、城内で糞尿を溜め込むと、病気のもとになる訳です。だから捨てなきゃいけない。お城近くに捨てても、それは同じですね。悪臭も漂うだろうし。だから、その処理にはとても気を使っていたんでしょう。

ちなみに、ここからは、糞尿を肥料などに使うことは書かれていません。ただ捨てていただけのようですね。一種の環境破壊とでもいえるのでしょうか…。案外、悪臭を漂わせて敵を撃退する作戦とか(笑)

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画像は、武田信玄が使っていたとされるトイレです。以下のページより拝借しました↓
http://allabout.co.jp/house/toilet/closeup/CU20071127A/

「城の社会史」、御覧の通り、それぞれのネタの書庫をたくさん作ったのですが、どれも確固たる見通しがある訳ではありません…それぞれ取りあえず予告編をアップしていこうと思います。

さて、このコーナーは、「城とトイレ」です。お城にいる時、トイレはどうしていたのか…という至って単純な疑問からスタートします。

戦国時代のお城の場合、軍勢が詰めて、戦争に備えて常に緊張状態で、当番の軍勢が入れ替わったりするから、トイレをキレイにしておかないと、病気が蔓延したりして大変でしょう。そういう問題を、どう対処していたのでしょうか?

江戸時代、戦争が終わって、お城にお殿様や家臣が定住するようになった時、お城のトイレはどのようになったのか。現存する天守や御殿には、よく雪隠があることにお気づきでしょう。ああいうのがどの程度普遍的なのか、実際どういうふうに使われたのか?

とまあこんな感じで、お城とトイレの関係を検討していきます。文献史料のみだと少々キツイので、発掘調査の成果や、絵画史料なども使います。

前近代のトイレの研究は実はた〜くさんあります。貴族の館や寺院、村や町屋のトイレがどのようになっていたのかとかに関しては多いので、それを出発点として参考にしつつ、あくまでお城との関係で深めていけたらなと考えております…

お城とトイレの関係の研究がどこまであるのか、まだ把握しておりません(案外もうたくさんあるのかも…)。何か情報がございましたら、是非ぜひご教示下さい!

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