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『戦国の城の一生』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、発売です!

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     (画像は現在の立花山。「日々雑感」さんから拝借しました http://blogs.yahoo.co.jp/tachibanayama)

戦国時代や江戸時代のお城にはどのようなモノがあったのか、そんなことを調べてみるこのコーナー、前回は、九州を代表する城である、立花山城の備品の一部をご紹介しましたので、今回はその続きです。前回の記事はこちら↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/26790650.html

この史料は、有名な立花道雪という武将が、娘の訐藺紂覆んちよ)に家督を譲った際に与えた「譲状」という、一種の財産目録みたいなもんですかね、そういうものです。


【史料】戸次道雪譲状写(『編年大友史料』333号、立花家文書)

 御城置物之事
(中略)
一、置米千斛  奉行人(省略)
一、塩倉 弐間参間 奉行人(省略)
一、水甕 五十并大樽等事、
 右置米置塩之事、年々勘定、自然於未断奉行人以領地直務、堅固可遂城調者也、
一、?舂板之事、東西総勢籠倉之壇水之手、同取出至松風両丸、広サ壱尺弐間木板以勘定七百五十枚有之、
 但、半横板半ハ間木ノ勘渡也、 奉行人(省略)
(中略)
一、置薪置縄続松等之事、


これによると、まず「置米」が1000石。塩を貯蔵する蔵があって、2間3間とありますが、これは蔵の建物の大きさのことを指すのでしょうかね…。

次に、水甕(みずがめ)が50個と、他にも大樽などがあると書いてあります。甕だけでなく樽などにも水を貯えておいたようです。お城って、井戸だけじゃなくて、こうして水も容器に入れて貯めておいたんですね。

で、注意書きが書いてあります。やや解釈がわかりにくいのですが、どうも上記の米や塩については毎年勘定していた、つまりはちゃんと貯蔵されているか、保存状況は大丈夫なのか、などのチェックをしていたようで、もし不備があったならば、それぞれの担当の奉行人自らが負担して、城に入れなさい、ということのようです。食料の貯蔵・交換がどのように行なわれていたのか、垣間見える面白い事例です。

続いて、今度は道具類です。「1尺2間」ってのは、1尺×2間の大きさってこと??ずいぶん細長くなってしまいますが…。ともかく、その大きさの?舂板(とうばん?)という板が750枚あって、城内のいろんな曲輪に配備されていたようです。次の「半横板半」ってのはよくわかりませんが、板と板を接ぎ合わせるのに使う小さい板なのでしょうか。

最後に、薪や縄、松明などと書いてあります。薪や松明は照明や燃料に使ったのでしょう。縄もいろいろと使う場面が多かったことでしょう。

実に様々な備品があったことがよくわかりました。貴重な史料です。


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    (画像は現在の立花山。「日々雑感」さんから拝借しました http://blogs.yahoo.co.jp/tachibanayama)

すごく久しぶりの「城の備品」のコーナー、近世城郭の備品がわかる史料は山ほどあるんですが、戦国時代というとなかなかなく、はてどうしたものか…と思っていたら、こんなのがあるじゃないですか。

訳アリで、女城主として有名な立花訐藺(ぎんちよ)のことを調べていたら、彼女が城主となった九州の立花山城(福岡市)の備品が書かれた史料に出くわしました。有名な史料のようですね。

訐藺紊蓮⊃長の野望などでもめちゃくちゃ強い武将として知られる、立花道雪の娘で、天正3年(1575)5月、7歳の時に道雪から家督を譲られ、正真正銘の「女城主」となります。その後、これまためっぽう強い立花宗茂を婿に迎えるのですが、この史料は、道雪から家督を継承した時に渡された「譲状」(ゆずりじょう)になります。そのなかに、立花山城の備品が書いてあるんです。


【史料】戸次道雪譲状写(『編年大友史料』333号、立花家文書)

    御城置物之事
一、具足三十領 懸威、但、此内二領尾張ぐそく
一、同甲三十 内十一ヲハリ甲、十一桃なり、八小泉
  立物 圓月
右不断召置為無足人調置候也、
一、大鉄砲十五張  小筒 壱張、
 依拝領多年令秘蔵候、則御判有之、
一、対鑓五十本黒柄鵜くび漆薄
一、塩砂  千斤  壺二十
一、鉛   千斤  十四包
一、銀子十貫目  箱紋くり
       右奉行人(省略)


道雪は、訐藺紊法△海譴蕕糧品も譲り渡しているわけです。具足が30領、甲も30領、立物もあったりしました。「尾張」や「ヲハリ」は、「尾張物」と呼ばれる尾張国産の武具のことのようですね。それと、大鉄砲15張に小筒1張。これらはどうも主家である大友氏から拝領して秘蔵しているもののようです。

続いて、鑓が50本。黒色の柄だったようですね。「鵜くび」というのは「鵜首造り」いって、刀などの断面の形状の名前のようです。

「塩砂」は焔硝(えんしょう)のことでしょう。鉄砲の火薬の材料ですね。それが1000斤で、壺20個分ということでしょうか。鉛も1000斤で、14個に分けられて包まれていたのかな。

最後に、銀が10貫。これは貨幣としての銀ですかね。当時の九州は、銀が貨幣として幅広く流通していたといわれます。

この史料は、まだ続きがあります。それは「その2」で。

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「城の備品」のコーナー、今回は、慶長16年(1611)に、茨城県の下妻城にあった備品を見てみましょう…。

下妻城は、戦国時代以来、多賀谷氏という領主の城でした。多賀谷氏は、いちおう独立した領主なのですが、後には佐竹氏の家臣となる、このへんの有力領主です。その多賀谷氏も、慶長5年の関ヶ原の戦いで反徳川方となったために改易されます。その後は、慶長11年に徳川頼房が城主になるも、同14年に水戸に移ったため、慶長16年時点では、幕府の直轄領になっていたようです。

とても面白い内容の史料なのですが、背景知識がないので、ちょっと難しいですが、どうも下妻城内にあったと思われるものがちょっとだけ書いてあるので、抜き出してみましょう。

【史料】下妻内百姓等連署訴状(『茨城県史料』中世掘■横隠苅陝

(前略)
一、下妻の城ニ、多賀谷兵具・弓・てつほう・たまくす・船板・さいもく・たしミいけ、かきりなく吉右衛門さい所え、とりはこひ申事、
(後略)

地元の有力百姓かなんかである吉右衛門という人が、ナニヤラいろいろ悪さをしていて、それを百姓たちが御奉行様に訴えている史料のようですが、どうも下妻城内にあった物を自分のところに勝手に持ち出したようです。

兵具と、弓、てつほう=鉄砲、たまくす=玉薬、船板、さいもく=材木、とここまではわかりますが、「たしミいけ」はよくわかりませんね…。たたみ=畳か何かでしょうか??

武具・武器だけでなく、船板と材木もあったことがわかります。特に船板ってのはなんなんでしょうかね…

一番わからないのが、「多賀谷」兵具と書いてあること。もうこの頃は多賀谷氏はとっくに秋田に行って、徳川頼房が城主になって、さらに直轄領になっている時です。多賀谷氏が持っていたものが、そのまま下妻城にあったのでしょうかね…。

実は、次の条文にも、下妻城内にある、昔に多賀谷氏の隠居が住んでいたと思われる家などを、吉右衛門がぶっ壊した、と書いてあります。下妻城は、多賀谷氏がいなくなってから、どういう状態になっていたのか…そもそも慶長16年ではないのかもしれませんが、内容的には合っているような…

ちょっと調べないとわからないことが多くて申し訳ありませんが、備品が書いてある史料は珍しいので、アップしてみました。論文ではないので、厳しい突っ込みはご遠慮下さい(笑)

<追加>
どうも前城主の備品は、新城主に引き継がれて、そのまま「誰々のもの」というふうにして城に残っていることがあるようですので、この「多賀谷兵具」というのも、そういうものだと思われます。
また、船板については、下妻城が沼地に立地しているため、おそらく船での移動を日常的に行なっていたことが推測されますので、そのためのものだろうと思われます。

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                     (写真は新府城。記事とは無関係です)

久しぶりの「城の備品」のコーナー、今回は前回の続きを見てみましょう…

戦国時代のお城の備品がわかる貴重な事例として、上野(群馬県)の権現山城の史料を前回見ました。今回は、残り後半部分です。

●権現山城物書立写(『戦国遺文』後北条氏編、3380号、諸州古文書十二武州)
(前略)
     新左衛門尉(吉田真重)嗜、
拾五丁  鉄砲
千五百放 合薬
一箱   ゑんせう(焔硝)
三千仁百 玉
廿本   数鑓、但、木ゑ(柄)、
拾本   竹ゑ(柄)
仁本   物鑓
仁本   物旗
拾仁本  かち小旗
百    矢
三丁   弓
壹保   うつほ(靭)
廿    大玉、但、切玉、
仁丁   やけん(薬研)
百まい  こんたね
拾俵   兵粮
  以上、
 子之拾月十三日        江坂又兵衛(花押)
(天正十六年)         松本二平 (花押)

前回は、おそらく北条氏側が用意した備品で、今回のは、新左衛門尉こと吉田真重という北条氏の家臣が自分で用意したもの、ということのようです。

弓矢は少なく、鉄砲関係が多いですねぇ。「大玉、ただし切玉」の「切玉」って何なんでしょうか…。前回と同じように、小さい玉を合わせて大玉にするのでしょうか…。

「数鑓」というのは足軽が使う鑓、「物鑓」は「枝物鑓」というやつか?槍にもいろいろ種類があるようですね(そのうちちゃんと調べます…)。槍も、木製の柄のものと、竹製の柄のものがあったようです。

靭(うつぼ)は、矢を収納する筒のようなもの。薬研(やげん)は、薬を粉末にする時に用いるV字型の金属器具。お城の堀の形の種類として有名な「薬研堀」のあの薬研ですね。

「こんたね」は一体なんなのか…わかる人、教えてください(これもそのうち調べます…)。「まい」という数え方も気になります。兵粮も10俵あったようです。

と、これで以上なのですが、まぁ実に様々なものがあったことがわかります。この権現山城は、北条氏と真田氏の境目に位置する城ですので、備品も軍事関係のものが多かったのでしょうか。しかし、これだけの備品で、実際どれくらいの人数で城を守備していたのかですかねぇ…
  
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             (写真は、群馬県高崎市根小屋城。記事とはなんら関係ありません)

城の社会史、お初である「城の備品」のコーナーです。このコーナーでは、いったいお城にはどんなものが備えられていたのかを、文献史料から読み解いていくことによって、当時のお城の具体的な姿を復元していこう、というものです。

さて、とは言うものの、江戸時代のお城はたくさん史料がありますが、中世・戦国期のお城の備品が書いてある史料は、まぁまずないですね。そんな中、奇跡的に残っている、上野国(群馬県)権現山城の備品を書き出した史料をご紹介することから、始めて行こうと思います。

ということで、早速史料を見てみましょう…

●権現山城物書立写(『戦国遺文』後北条氏編、3380号、諸州古文書十二武州)

  権現山有之城物之事、
壱張     大鉄砲
五十     小鉄砲
六十九    大鉄砲玉、但、小玉二ツつゝ帋ニくるみ、大玉ニこしらい申候、
千仁百放   合薬、
千三百五十  くろ金玉、
九百     同玉、従鉢形御越被成候御使江坂又兵衛、
六十八    大玉同改、
拾四放    同薬同改、
九斤     合薬同改、
千五百    矢、此内五百金様同改、
拾張     数鑓、但、自中山来、
  以上、(以下略、次回に…)

これは、天正16年(1588)10月13日付の史料で、どうも鉢形城主北条氏邦の家臣が書きたてたものです。当時、権現山城は、真田昌幸の領土に対する「境目の城」だったようで、北条軍が城番を勤めていました。

本文はまだ続くのですが、「城物」とされるものはここに書いた通りです。全部武器ですね…まず、鉄砲の種類が、大鉄砲と小鉄砲の2種類あるのも面白いですね。しかも、大鉄砲の玉は、おそらく小鉄砲用の玉を2つ紙に包んで作ると書いてあるところは、当時の様子が生々しく伝わってきていいですね。これで将来、この城や他の城でもいいですけど、そういう鉄砲玉が発掘調査なんかで見つかったら、史料と考古学が合致する貴重な事例となるでしょう…

大鉄砲用の玉は69発しかないんですねぇ。くろ金(黒金)玉は、おそらく普通の鉄砲(小鉄砲)の玉なんでしょう。

さらに、鉢形城からやってきた北条氏邦の家臣と思われる、江坂又兵衛さんが、さらに差し入れをしたようですね。900発の鉄砲玉に、68発の大鉄砲玉に、それ用の火薬14放、普通の火薬9斤、最後に矢1500本(そのうち500本は金具?)に、鑓10本(これは近くの中山城からの差し入れ)。ずいぶんと大量にあるもんですね…

でもでも、この権現山城、たいして大きい城ではないんです。それでもこれだけあるんですから、もっと拠点城郭とかだったら一体どれほどの備品があったのでしょうかね…

次回は、この史料の続きを見てみたいと思います。

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