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『戦国の城の一生』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、重版決定です!

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                        (画像は、小田原城二の丸馬出門)

「城の門限」のコーナー、今回は、江戸時代の小田原城の門限です。

史料集などを見る限りでは、江戸時代の小田原城についての史料は、かなり少ないです。少ないのですが、江戸時代初期の稲葉氏時代の小田原城の様子がわかる史料が少し残っていますので、そこから門限を調べてみましょう。



【史料1】『稲葉永代日記』承応2年6月(『小田原市史』別編城郭、p609)
  
一、御門常ニ出入之儀、朝六ツ過ゟ暮六前迄可為出入候、日暮候而ハ御用之外壱人も出入為仕間敷事、但不叶用所有之ハ、其品当番之衆承届可被相通事、


【史料2】『稲葉永代日記』承応2年7月(『小田原市史』別編城郭、p610)
一、御門出入之者改之儀、御在城之砌ハ夜ニ入候而も、四ツ迄ハくゝりを明置相改可通之候、御留守之刻ハ暮六ツより御門を立、出入之者断承届不審成申分無之候ハヽ可相通事、


【史料3】『稲葉永代日記』寛文2年10月(『小田原市史』別編城郭、p611)
一、毎日晩七ツ過候ハヽ、弥念を入相改可被申候、勿論日暮候ハヽ一切通シ申間敷候、但御城中ニ而急病人又ハ急用有之候ハヽ、夜中ニ而も八郎兵衛・介之進断次第可被相通之事、



これらは、江戸幕府老中だった小田原城主稲葉正則の日記の写しだそうです。【史料1・2】は承応2年(1653)の日記です。


【史料1】の門は、近年復元された二の丸馬出門のことを指すそうです。この馬出門は、朝六つ時(午前6:00頃)から暮六つ時(午後6:00頃)まで人々の出入りを許可していたことがわかります。日が暮れて以降は、御用がある人以外は一人として出入りしてはいけないことになっていました。ただ、どうしても仕方がない用事がある場合は、その用事の内容を当番衆がきちんと聞いて、通しなさい、と言っています。


【史料2】の門は、三の丸の大手門・欄干口門・四ツ門・谷口門に出した掟でして、これら四つの門は、藩主稲葉氏が在城している時は、日が暮れて夜になっても四つ時(午後10:00頃)までは、門の潜り戸を開けておいて、出入りする人をチェックして通すようにとしています。藩主が江戸などに行って留守の時は、六つ時(午後6:00頃)には閉門して、それ以後に出入りしようとする者に対しては、その訳を聞いて不審な点が無ければ通しなさい、としています。


【史料3】は、時代が変わって寛文2年(1662)のものです。まだ城主は稲葉氏で、二の丸の裏門に出された掟です。ここでは、毎日七つ時(午後4:00頃)を過ぎたら、念を入れて出入りする人をチェックせよとしていて、日が暮れたら一切通行は禁止するとあります。ただし、城中で急病人が発生したり、急用の人がいたら、夜中であっても米津八郎兵衛・増嶋介之進の断り次第に通すこと、としています。


相変わらず、この門限というのは面白いですね。小田原城の場合も、他のお城と同じように、基本的には朝6:00頃から夜6:00頃まで開門していたことがわかります。で、藩主がいるかいないかによって、三之丸の場合は門限に違いが出てきています。藩主がいるときは、夜遅くまで開門しているんですね。これも他のお城でも見られることです。


【史料3】だけ年代が下りますが、二の丸裏門も、基本的には日暮れ=午後6:00頃に閉門だったことがわかりますが、午後4:00頃から出入りを制限するかのような動きを見せています。本丸に近いほど、出入りが厳しくなるんでしょうか。


まだまだ、事例は山ほどありますので、これからも飽き足らずにご紹介していこうと思います!

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                          (画像は、広島城)

久しぶりの「城の門限」のコーナー、今回は、福井城の門限が書いてある史料をご紹介しましょう。



【史料】城中諸門開閉等達(『福井市史』資料編6近世四上、56号)

一、御城中所々御門、朝者六ツ時開キ、晩ハ御夜詰次第ニ閉可申候、御用有之節ハ承届其趣、改之可相通、御留守中ハ、明六ツニ 開、暮六ツニ閉可申事、
一、御番帳判形之事、晩ハ六ツ半時、朝ハ六ツ時に印形を取可申、無断して遅参候輩、可為不参事、
  附、若印判失念候ハヽ、次之番ニ印取申へく候、又其節於失念ハ不参同前之事、
一、御番不参之儀、御本丸者瓦御門并太鼓御門・下馬御門・切手御門、何茂頬当御門之外ニ而出会候ハヽ、可為不参、頬当よ り内ハ不参仕間敷事、
  附、惣頭中急用在之申合候儀候ハヽ、下馬御門より太鼓江者可参、内之御門より外之御門江出候ハヽ、可為不参、改中茂御 本丸より段々ニ可相改事、



万治3年(1660)2月に出された掟で、越前藩主4代目松平光通の代のようです。他のお城と同様に、福井城でも城門の門限が決められていました。

まずは第1条目から見てみましょう。朝は6つ時=6:00頃に開門し、夜は「夜詰次第」、ようは夜勤のものが来次第、ということですかね、夜勤の時間になったら閉門しなさいと。

で、何か御用があって門を通る人がいた場合は、きちんとチェックしてから通しなさいと。さらに、お殿様が御留守中は、朝6:00頃に開門し、夜18:00頃に閉門することになっていたようです。お殿様の在城中と留守中で門限が変わるというのも、他の城と同じですね。興味深いです。

次に第2条目。門番にあたる武士はですね、「番帳」という帳面に、ちゃんと出勤しましたよ、ということを証明するために、ハンコを押していたようなんです。出勤簿への押印ですね。で、その時間が、夜は19:00頃、朝は6:00頃と決められていました。さらに、無断で遅刻したものは、不参扱いにするとまでしていますね。

附則として、もし押印を忘れてしまったら、次の出勤日に押印しなさいとしています。チャンスはあったんですね。でも、その時も押印を忘れたら、欠勤扱いになってしまったようです。

最後の第3条目。とはいうものの、遅刻する輩が結構いたみたいで、どういう場合に遅刻=欠勤扱いになってしまうのか、その基準が記されています。ちょっと解釈があっているのか自信がないのですが、福井城本丸の瓦門と太鼓門・下馬門・切手門の門番をする人たちが、出勤時間に頬当門より外にいたならば遅刻となり不参扱い=アウト!、頬当門より内側で見かけた時はセーフとする、ということだと思いまう。この頬当門、ネットでざっと調べる限り、出てこないですね、どこなんだろう・・・ともかく、時間内に頬当門をくぐっていればセーフだったようです。

附則として、何か急用があって申し合わせたいことがあった時は、下馬門から太鼓門へ来なさい、内側=本丸側の門から外の門へ出た場合は不参とする。出勤のチェックも、本丸から外側の曲輪へとチェックするように、とのこと。一度内側に入ってから外へ出たらアウトだったんですね。

門限や出入り制限の掟は、今までも見てきましたが、このように出勤簿のこととか遅刻の基準を記しているのは初めてだと思います。面白いですねぇ。


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                         画像は、金沢城石川門

久しぶりの「城の門限」のコーナー、今回は、先日行ってきたこともあって、金沢城です。

金沢城は近年研究が非常に進んでいるお城の一つですが、昔から史料の編さんがされている城でもあります。その代表例が『金沢城郭史料』という史料集でして、そこに江戸時代の金沢城関係史料がたくさん入っています。

そのなかに「城中出入定」という掟がありまして、その名の通り、城門を通過する際のいろいろな注意事項が書いてあるのですが、門限もしっかり書いてるんですね。どうも江戸時代中期頃に書かれたもののようで、いろいろとメモ書きやその後追加された掟を書き加えていたりもしています。


【史料】「城中出入定」(『金沢城郭史料』日本海文化叢書第3巻、昭和51年、p97)


一、御門々之あけたて朝夕六時たるべき事、
一、御在国之中、河北・石河・橋爪御門、朝者六時ニ開、夜ハ四時にたて往来を留、其以後到通行人々者、交名承届可相通、末々之者ハ焼印札を以相通可申事、但右三御門共御留守居中ハ暮も六時にたて可申事、

というわけで、まず一条目。城内の諸門の開閉は、朝夕ともに六つ時=閉門は午後六時頃(日の出)、開門は午前六時頃(日の入り)だったことがわかります。これは、もう何回も見てきましたが、日本全国ほぼ共通した、当時としては一般的な開閉時間ということになります。

次に、二条目。藩主である前田の殿様が在国中の場合、河北門・石川門・橋爪門の3門は、朝は六つ時=午前六時頃に開門とし、夜は四つ時=午後十時頃に閉門して、門を往来する人を留めなさいとしています。この3つの門だけ特別扱いなんでしょうかね。

で、四つ時以降に通行する人々については、その人の名前を聞いてから通しなさいと。さらに、下々の者共については、焼印を押した札があったようで、それを持参したものについては通しなさいとしています。最後に、前田の殿様が留守中は、いつもと同じように、朝夕六つ時に開閉しなさいとしています。

前田のお殿様が在国しているか、留守にしているかで、城門の門限が異なることがわかりますね。これも各地でみられる現象で、興味深いです。なんでお殿様がいる時といない時で門限を変えなきゃいけないのやら…

もう一つ面白いのが、「焼印札」ですね。他のお城では、「手形」とか「手判」とか「切手」とかを見せると通れる、という事例がありますが、金沢城の場合は、木札に焼印を入れた「焼印札」だったことがわかります。これって現存しているんでしょうか。見てみたいものです。


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お城の門限は何時か、どんな決まりがあったか、なんてことを調べてみるこのコーナー、今回で9回目になります。

今回の舞台は、酒井氏時代の姫路城です。江戸時代中期の寛延2年(1749)9月のもののようです。この年というのは、群馬県の前橋から姫路に酒井氏が転封された年なんですね。

つまり、新しく姫路に入ってから最初に定めた城門掟ということになりそうです。転封してきた新領主は、みんなこんなふうに城門掟を出すもんなんでしょうかね。それに、そもそも前橋時代と同じ内容の掟なのか違うのか、酒井氏オリジナルの内容なのかどうか、なんてことも気になります。

それはいいとして、その城門掟の第一条目に、門限が書いてあります。やっぱり門限は重要なんでしょうね。


【史料】諸門出入り取締り定(『姫路市史』別編姫路城、p748)

一、御門、暮六時〆、くゝり斗明置、五時過ニ至候ハゝ、くゝり共ニ〆、往来之者有之候節、くゝりを開キ通シ可申候、

<書き下し>
一つ、御門は暮れ六つ時に閉め、くぐりばかり明け置き、五つ時過ぎに至り候はば、くぐり共に閉め、往来の者これあり候節は、くぐりを開き通し申すべく候、

姫路城内の中之門から清水門まで9つの門を対象にした掟のようですが、門は暮れ六つ時(午後6:00頃)に大扉を閉めて、潜り戸だけ開けておきなさいとしています。

で、暮れ五つ時(午後8:00頃)を過ぎたら潜り戸も閉めなさいとしています。

そして、どうもこれ以後に往来する人がいたら、その都度潜り戸を開けて通しなさい、としています。

大扉を先に閉めて、2時間後に潜り戸を閉める、ということになります。こういうパターンは、今まで見てきたように、他の城とも割と共通するものですね。

ちなみに、開門時間はやはり明け六つ時(午前6:00頃)と書いてあります。この時間も、基本的には全国共通のものです。

ただ、やっぱり藩主が姫路城に在城中と、そうでない時で若干時間が変わっています。それもそのうちご紹介しましょう。

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                           (画像は、福岡城名島門)

城の門限、今回は、九州は鹿児島城(鶴丸城)の門限を見てみましょう。島津氏の居城です。

今回使う史料は、「諸所御門并辻番所下座并開閉之次第」(『鹿児島県史料』薩摩藩法令集、島津家歴代制度(巻之三十七))というものです。天明・安永年間あたりに出された城門についての法令がいくつか編さんされているものです。

まずは、天明6年(1786)正月の史料。

  
一、御門、朝六ツ時ヨリ開候テ、夜者四ツ時可鎖候事、
  但、大門締候以後ハ小門通融、

どこの門かは書いていませんが、たぶん城内の門全般に当てはまる法令ではないでしょうか。朝はやはり六つ時(およそ午前6:00)に開いて、夜は四つ時(午後10:00)に鎖をして閉門する、というのが、鹿児島城での基本的な門限だったようですね。

あとは、大きい門扉を閉めて後は小さい門扉から出入りすることになってました。櫓門とか大きい門には、脇に小さい門扉がよくあります。これはこの前見た川越城とも同じですね。これもよくある掟です。

で、次は天明8年六月の史料ですが、それにはこう書いてあります。

一、御門、朝六ツ時開之、暮六ツ時閉之、 御在国之節ハ夜四ツ時鎖オロシ、 御在府之節ハ夜五ツ時鎖之(以下略)

これも同じく城内の諸門全般に関わる法令でしょう。先ほどから2年後の天明8年の時には、朝六つ(午前6:00)時に開けて、暮れ六つ時(午後6:00)に閉めることになってます。

しかも注意書きがあって、藩主である島津氏が鹿児島にいる時には夜四つ時(午後10:00)に、江戸にいる時は夜五つ時(午後8:00時)に鎖で門を閉めることになっていたようです。

どうも、ただ門を閉めるのと鎖をするのとは違うようですね。午後6:00の閉門は、あくまで門を閉めるだけで、鎖までかけてしっかりと閉門するのはもっと遅くなってから、ということのようで。

しかも、藩主が鹿児島にいるか江戸にいるかで鎖をかける門限が異なるのも面白いですね。これは他の城でも見られることなのですが、一体なぜこんな違いが出てくるのでしょうか。


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