猿掛城 城主の変遷猿掛城の縄張りは、山頂部に主郭を置き、そこから北側の尾根に向け六の丸及び太夫丸まで曲輪を連続した連郭式山城です。
主郭の背後は南側へと山塊が連続するが、巨大な堀切で遮断しています。 猿掛城は戦国時代中ごろになると城主の変遷が激しくなります。 守護細川氏との戦いで勢力を減退していた庄氏ですが、やがて勢力を盛り返すと備中国内で大きな勢力として成長します。庄氏は備中の守護所・備中松山城も支配下に治め時の庄氏当主・庄為資は備中松山城に入り、猿掛城は一族の穂田実近を置きました。天文22年、成羽・鶴首城の三村氏が毛利氏の援軍を受け、猿掛城に攻め込みます。講和の末、三村家親の長男・元佑が猿掛城の城主となりました。備中国内は庄氏に代わり三村氏が巨大な勢力を持つようになり、元亀2年再び三村・毛利の連合軍と庄氏は戦います。庄氏の本拠・備中松山城は陥落し庄氏は没落します。その後、猿掛城は三村氏のものとなりますが、天正2年、三村氏と毛利氏が敵対関係となり、戦った備中兵乱で猿掛城は毛利方に攻められ落城、翌、天正3年6月、三村家親は松山城下で自刃し三村氏も没落しました。備中は毛利氏の支配する事となり、毛利時代に猿掛城は大改修を受け、猿掛城の現遺構は毛利時代の遺構のものとなります。 六の段
五の段
四の段
四の段石積み
明日は各曲輪の詳細を見てみたいと思います。
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