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戦国城郭記
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播磨谷城・下巻

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谷城・縄張り図
 
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曲輪6
主郭北のスロープ状の虎口から曲輪6に入りました
北端、及び西端には1m前後の土塁があります。この土塁は北側尾根筋からの敵を迎撃するための施設と思われます。
曲輪6からは下位の曲輪へのルートは無く、下位の曲輪8・9から、この6曲輪を見上げると高い切岸で守られている事がわかります。
 
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曲輪7
来た道を戻り、曲輪1から主郭西側の帯曲輪7に入ります。
この帯曲輪7は城道を兼ねており、北側の曲輪群と連絡しています。
現在はハイキングルートとして歩きやすくする為、若干拡張されているように感じますが、当時はもう少し狭かったようで、大人数が通れないような隘路となっていたようです。戦時には工作物による進路妨害も考えられそうです。
 
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曲輪8
長い帯曲輪7を通過すると西側に張り出した曲輪8に入ります。この曲輪は北側の谷筋の監視と、帯郭への侵入をチェックする機能を持ち合わせた曲輪で、北西への尾根筋上を削平し築かれています。当時は柵で囲まれるか、何らかの構造物が建てられていた可能性があり、兵の駐屯も可能です。
 
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曲輪9
曲輪8と連続した曲輪9に入りました。主郭方向の曲輪6は登坂困難な高い切岸で守られ、直接道が付けられていません。北側から侵入した敵は、帯郭7を介して遠回りしなければ主郭方向に向かえない作りとなっています。
主郭に到達するまで上位の曲輪側面からアウトレンジ戦法で矢・鉄砲・礫らを用いて敵を撃退する仕組みとなっていたようです。
木製階段が付けられハイキングルートが北の尾根に向かい続いています。
 
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曲輪10
曲輪9の北側にある曲輪10です。南北に長い郭で、北側に土塁痕を残します。
建物基壇のようにも見える土塁痕で櫓台が建てられていたかもしれません。
 
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堀切B
曲輪9から木製階段を降り、ハイキングルートを進むと3重堀切Bを見ることができます。一条目は深いものですが、2条目以降は浅く、土塁壁といった感じになっています
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北の尾根道
3重堀切を超えると自然地形となり、北には出曲輪に向かいハイキングルートが伸びます。ハイキングルートの脇には、井戸跡を見学する為の道も付けられています。
 
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出曲輪
出曲輪は、自然地形を僅かに削平したのみの曲輪で、小規模な砦跡、もしくは見張り台として使用されたと考えられます。
今回の谷城の調査では播磨における第一弾として縄張り図の更新ができた他、広瀬系の永良氏の城郭の特徴を掴む事ができました。
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播磨谷城・上巻

中世城郭調査報告

2012年秋より、中世城郭の調査を行っております。2012年秋は播磨を中心に
活動し、2013年秋からは各地へと地域を拡大し調査しております。
調査は今後も継続し、当ブログで随時、成果ご報告をさせて頂きたいと思います。
本日は播磨の谷城となります。
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播磨谷城縄張り図

銀の馬車道と谷城

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播磨谷城・遠望
2012年、11月3日、兵庫県神崎郡市川町谷に所在する谷城に訪れました。
兵庫県神崎郡市川町は明治6年から9年にかけて姫路市飾磨から朝来市生野まで本邦初の高速産業道路が整備された銀の馬車道の沿道で、銀の馬車道は近代化産業遺産として登録されています。銀の馬車道の正式名称は生野鉱山寮馬車道と呼び、鉱山物資輸送の為のルートでした。銀の馬車道は整備が行われてから、百数十年が経ち、馬車道の大部分は幹線道路、播但連絡道路へと変貌を遂げ、その面影は一部を残すのみとなります。銀の馬車道の沿道にはいくつもの史跡が点在し、今回筆者が訪れた谷城もその史跡の一つです。

永良氏

 
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大歳神社
谷城は大歳神社背後の丘陵上に所在し、大歳神社よりハイキングルートが城址まで続きます。播磨守護・赤松家の庶流・永良氏の城で、残要の城と呼ばれます。
同市川町の鶴居稲荷山城は谷城と対をなす城と考えられます。
南北朝時代に赤松円心の孫、則綱が永良荘の地頭職に任じられ、現・市川町鶴居に鶴居稲荷山城を築いたと伝えられます。則綱は永良荘の名を苗字にし永良を名乗ります。永良氏は嘉吉元年、嘉吉の乱で赤松方に味方し幕府の追討軍に敗れます。永良荘は幕府方の山名氏が制圧し、支配する事となります。応仁の乱の後、赤松家が再び播磨を回復し、赤松家庶流の広瀬家が永良荘に入り永良氏を名乗ります。この時、広瀬流・永良氏は谷・稲荷山の両城を再興したとされます。時は下り、永禄3年に谷城は落城したとされますが、如何なる勢力が永良荘に侵攻に及んだのか判然としません。「赤松家播備作城記」「播磨古城記」などの近世史料には別所氏の侵攻が記されています。

残要の城、谷城へ

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城址へのハイキングルート
谷城は大歳神社からのハイキングルートが城址まで続いています。
ハイキングルートを進むと途中、祠を超えた辺りから本格的な山道に変わりました。道はつづら折れとなり一見すると、本来の大手道を踏襲しているかのように感じます。
 
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堀切 A
やがて道は真っ直ぐになり、右手に堀切が見えてきました。
堀切は二重となり、末端は竪堀として斜面へと落ち込んでいます。今まで歩いてきた道より堀切の底の方が高く、後世に作られたハイキングルートであることがわかりました。この堀切は谷城の南側の尾根筋を遮断し、城域を区画する役割を担っていたようです。
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曲輪1
ハイキングルートを歩くと小規模な平坦地・曲輪1に入ります。
この曲輪1からは北側に通路を兼ねた帯曲輪、北東及び東側には主郭群への通路が開かれています。筆者は主郭群への方向に歩いていく事にしました。
主郭群へのルートは、ハイキングコースとして拡張整備されているものの、当時の城道を踏襲しているように感じます。
 
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曲輪2
曲輪2に入りました。眼下には先ほど見た堀切と視点を変えれば市川の町が見渡せます。
 
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曲輪3
上位の曲輪3に移動しました。南側からの敵に対する備えとして、2段に渡り腰曲輪が築かれています。
 
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曲輪4
曲輪4に向かい移動しました。曲輪4は主郭の西側の腰郭で曲輪3とは僅かな段差で仕切られるのみで連結しています。南北に広く主郭への通路も兼ねています。
 
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主郭側切岸の石積み跡
主郭側の切岸には石積み跡が残され、曲輪4の地表面にも崩落した石積みの残石が散逸されます。曲輪4の北側にはスロープ状の坂虎口があり主郭に至ります。
 
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5主郭
曲輪4からスロープ状の虎口を入ると、主郭に入ります。主郭は南北に広く広大な規模で、休憩用ベンチが据えられます。東側は絶壁となり、眼下には市川町を見下ろせ、北東に土塁を設ける腰曲輪へ向けたスロープ状の虎口が開いています。
次回は北側の防御の要、土塁を設けた曲輪から見学を続けたいと思います。
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掛城地形図
(地形図の番号は下記写真の位置です)
 
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⑧横矢掛け土塁
井戸曲輪からつづら折れの城道を通り、上位の曲輪に移動しました。この曲輪は東側に鎌掛城の中では最も高い土塁を持ちます。その土塁の一部は屈曲し、東側斜面から登ってきた敵に対し横矢を掛ける構造となっています。
 
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⑨建物基壇の跡
曲輪内部に目を向けると、中央に一段高くなった建物基壇の跡が残っています。
 
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⑩鎌掛城で最も高い土塁
一行は高さ2m弱の土塁の上を歩き、次の曲輪へと向かいます。
 
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⑪堀切
途中、虎口のような場所を通りました。虎口のようなものは実際は堀切で、この堀切内を通過すると、小さな土塁囲みの空間に入ります。
その空間からは下位の曲輪が見渡せ、土塁囲みの空間は武者隠しで下位の曲輪から侵入する敵を狙撃する為のものであった様です。
 
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⑫主郭からの眺望
鎌掛城の主郭に到達しました。主郭からは鎌掛の町が一望でき、今日の昼食として
配られた、ウッディパル余湖の「賤ヶ岳合戦の七本槍弁当」を食べました。
 
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⑬馬蹄状の曲輪 (赤い波線が土塁)
食後、東側の尾根に広がる遺構を見に、主郭から下っていきました。すると馬蹄状に半月形をした土塁が取り巻いた曲輪に入りました。この様な形状の曲輪は小谷城出丸、鎌刃城にも見られ、講師の長谷川氏によると馬出しの様な機能を持ち合わせた出撃の拠点として使われたのではないかとの事。
この様な形状の曲輪は、丹波の国、京丹波の須知城でも用いられます。
須知城は元は丹波の国人、須知氏の城ですが、明智光秀の丹波侵攻の際に高い石垣
(張り石系の石積み?)や食い違いの虎口を用いた織豊系の城郭に改修されています。須知城が改修された時期は光秀が丹波を制圧した天正7年(1579年)にそう遠くない時期で小谷城出丸や鎌刃城の現遺構の成立は天正7年より随分早いと思われ、筆者は鎌掛城の主郭群も同様の時期として考えました。
近江から丹波への技術的伝播があったのかもしれません。
 
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⑭高い切岸を持つ広大な曲輪
馬蹄状の曲輪から城道を通り下位の曲輪に降りました。西の尾根筋は、馬蹄状の曲輪を含めて大きく分けると、5つの曲輪から形成されます。
 
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⑮長方形の形状の広大な曲輪
尾根自体が大きい為か、東側の尾根と比べると、規模の大きい曲輪が並びます。
 
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⑯山上御殿跡
東尾根の中腹の曲輪に到達しました。鎌掛城は基本的に見学の為の整備はあまりされていません。その為、場所によってはこの曲輪のように立ち枯れになった木が散乱している場所もありますが、地表面には数々の遺構の跡を垣間見る事ができます。この広大な曲輪は講師の長谷川氏によれば山上御殿があった場所と仮定され、登城路や建物基壇の跡など複雑な地表面となっています。
この曲輪には鎌掛城の中でも最も大きく高い櫓台状の遺構が存在します。
 
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⑰巨大な櫓台
櫓台は広大な曲輪の東側に独立した形で築かれ、
現在は堆積物があり今では何とか登れますが、当時は切岸処理され、滑りやすく
簡単には登れなかったと推測されます。櫓台の上部には建物基壇らしきものが
あり、何らかの構造物が建てられていた様です。
石垣があればまさに天守台とも思えるような形状となっています。
 
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⑱南北に長い曲輪
東尾根最南端の曲輪です。南北に長く、長さは講師・長谷川博美氏の縄張り図によると約40間(70m)。地表面は段差や高さの低い土塁や櫓台が散逸されます。
 
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鎌掛城、地形図
鎌掛城の主要部を見学し、一つ疑問が生じました。鎌掛城は逆Uの字形の山容に主要な遺構を残します。その逆Uの字型の東西の尾根部分は低い建物基壇や櫓台、低土塁の遺構が残ります。それと比較し、山頂付近の主郭部は高い土塁や、高さのある馬蹄状の土塁が取り巻く曲輪など、彫の深い構造となり明確な違いが感じられます。鎌掛城は成立を伝承では南北朝期とされ、伝承が多く歴史は確定的なものは数少ないのが現状です。伝承では蒲生氏の他、六角氏、織田信雄などが鎌掛城にあったとも伝えられ、何れの勢力がは断定できませんが、東西尾根の遺構は巨大な勢力が一斉に整備を行ったと筆者は考えました。東西尾根の土塁や櫓台などの普請は計画的にかつ、短期間の工期で完成したかのように高さの低く、中にはよく目を凝らさなければ確認しづらい、極端に言えば陣城のような遺構に感じます。
 
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⑲鎌掛城・東見張り砦麓の巨大な空間
一行は鎌掛城主要部の見学を終え、午前中に登ってきた登城道を降りました。
筆者らは午前中、鎌掛城のある山塊ととなりの山塊の間の谷筋から鎌掛城に登ってきましたが、鎌掛城は西側の山屋敷方面が大手とされ、今回、鎌掛城に登った谷筋の登城路は「搦め手道」という事になります。
この谷筋を監視するように築かれた新たな城郭遺構を本年、長浜市の宮本優子氏が発見しその遺構を講師の長谷川博美氏が確認、測量し縄張り図を製作されています。今回、参加者の半数が新発見の遺構仮称「鎌掛城・東見張り砦」の見学に向
かいました。「鎌掛城・東見張り砦」は鎌掛城のある山塊から派生する支尾根に
所在します。登城路から少し外れ、「鎌掛城・東見張り砦」のある支尾根に向かいました。すると途中大きな空間が現れました。一見すると空堀遺構にも見えますが、兵力を移動する為の通路とも見えなくありません。
この空間は進むとやがて行き止まりとなり、右手には長い竪堀が鎌掛城のある尾根から続きます。播磨や丹波の一部の城郭では竪堀をシューターとして利用したという説もあり、鎌掛城のある尾根から続く竪堀はシューターとして使いわれ、広い空堀形状の空間は迎撃、及び追撃用の城道の一部となっていたかもしれません。
 
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⑳新発見遺構・鎌掛城・東見張り砦
鎌掛城・東見張り砦り砦の主郭部分にあたる場所に到達しました。鎌掛城・東見張り砦は現況で見る限り、自然地形をわずかに削平した平場が尾根上に連なる砦跡ですが、段差や犬走など、筆者も明確にこれが城郭遺構であることを認識できました。砦は全長は160mを超える規模で、収容できる人員も相当な数に上る事が考えられます。搦め手を守る最前線の基地としては申し分ない規模です。
 
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鎌掛城・遠望
一行は次にバスに乗り込み、山屋敷に向かいました。
山屋敷の傍から見る鎌掛城は、それほど高さを感じませんが、極めて急峻で攻め
難い城であり、今回の「南近江の堅城」というシリーズの最後を飾る素晴らしい
城郭遺構でした。
 
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山屋敷跡
山屋敷は鎌掛城の所在する山塊から派生する西の尾根筋先端に築かれた、館跡遺構です。広大な面積に堀跡、虎口跡、土塁跡、屋敷の跡が残ります。山屋敷内の南東には鎌掛城へ向かう登城路が残されていますがやがて消滅します。この山屋敷からも鎌掛城へ取り付く事は可能であり、web上ではよく紹介されますが、最終的には急斜面の直登を余儀なくさせられ、注意が必要です。山屋敷には江戸時代初期の
延宝年間にも蒲生氏家臣の末裔として5軒の屋敷が建てられていました。

 
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山屋敷跡の屋敷跡部
現況の遺構は江戸期、もしくは近世の改変も考えられ、戦国期の蒲生氏時代の遺構がどれだけ残っているかは判別が難しく、江戸期の館跡遺構として楽しむという手も一つなのかもしれません。
 
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音羽城跡
最後に休憩を兼ねて、音羽城に立ち寄りました。音羽城は蒲生定秀により応仁の乱の頃に築かれ、以来、蒲生氏の城として存続しました。1503年、蒲生総本家の継承の内紛で城主・蒲生秀紀は叔父の蒲生高郷に攻められます。高郷は六角氏の救援を受け2万の大軍で音羽城を包囲し、8カ月の包囲戦の後、秀紀は降伏。音羽城は破却され廃城となりました。これが本邦初の城割りであったとされます。音羽城は明治以降の改変で遺構は破壊され、現在は公園として整備されわずかに遺構をとどめています。音羽城を見学後、筆者らはバスに乗り込み帰途に着きました。
今回の鎌掛城見学会は堅城を実感・体感できた見学会となりました。(了)
 
参考文献
ウッディパル余呉 南近江の堅城・鎌掛城見学会レジュメ 長谷川博美
長谷川博美氏 現地談話
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南近江の堅城「鎌掛城見学会」

2014年3月29日ウッディパルの余呉主催の鎌掛城見学会に参加しました。
今回の鎌掛城見学会は「南近江の堅城」というシリーズの最後を飾る見学会で、
講師は城郭研究家・長谷川博美氏です。
朝9時に、滋賀県余呉町のウッディパル余呉に集合し、バス内で講師の講義・解説を受け、鎌掛城に向かう事になりました。いくつかの地点でバスには乗車できますが筆者は何時もの如くスタート地点のウッディパルよりバスに乗車しました。
スタート地点から参加した為、詳細・綿密な図面とレジュメを用いた講師の講義・解説全てを聴講する事ができました。

蒲生氏の堅固な山城 鎌掛城

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鎌掛城は甲賀に程近い、滋賀県蒲生郡日野町、鎌掛に所在します。
鎌掛は伊賀と甲賀を結ぶ主要間道の沿線にあり、伝承では鎌掛城の創築は
南北朝時代にさかのぼるとされます。戦国時代には蒲生氏が間道を抑える為、
音羽城の支城として鎌掛城を修築しました。
鎌掛城は多くの伝承に包まれた城ですが、現遺構は戦国期の文亀年間以降のものと推定されます。
 

蒲生氏

蒲生氏は古くから蒲生郡内の名族で、藤原秀郷を祖とし、その末裔、惟俊が蒲生郡を支配し、蒲生太郎を称しました。源頼朝・足利尊氏らの時の権力者に従い、戦国時代には蒲生定秀が嫡男を足利将軍家・次男を六角氏・三男を細川氏と分かれて出仕させました。

蒲生氏の家督を巡る紛争

永正10年(1513年)、定秀嫡男・蒲生氏嫡流の蒲生秀行が死亡し、蒲生秀紀が跡を継ぎます。秀紀は蒲生氏の本拠、音羽城の城主となりますが、それに六角氏に近い分家の秀紀の叔父、高郷は不満を持ちます。大永2年、高郷は宗家の秀紀を攻撃、六角氏の救援2万の兵力を受け秀紀を音羽城に包囲します。
音羽城の秀紀は500の寡兵で、8カ月のにわたり抗戦するも翌年、秀紀は降伏。音羽城は破却されます。音羽城の破却は本邦初の城割りとなりました。蒲生氏は家督を高郷の子、定秀が継ぐ事になりました。

蒲生秀紀と鎌掛城、そして秀紀の暗殺

伝承では蒲生秀紀は要害堅固な山城・鎌掛城に本拠を移したとされます。
秀紀は大永5年(1525年)5月に高郷に家臣を殺害されるなど、弱体化の一途を辿り、秀紀自身も大永5年10月に高郷の命を受けた正法寺の僧、知全客に毒殺されました。毒を盛られた事を知った秀紀は知全客を斬り、自身も池に身を投げて死んだと言われ、今でも藤兵衛殿ヶ池という名でその池に秀紀は名を残します。
蒲生氏はこの後、信長政権、秀吉政権を経て国替えを交え、蒲生氏郷時代には
会津に92万石の大禄を受けます。

鎌掛城の様々な伝承

鎌掛城に伝わる様々な伝承
1 秀紀死後、鎌掛城は分家の高郷の子、氏春が城主となる。
2 元亀2年(1571年) 織田信長が六角義賢を鎌掛城に押し込める。
3 天正10年(1582年) 織田信雄が鎌掛城に布陣する。
4 天正13年(1585年) 蒲生氏郷が伊勢に国替えの際に豊臣秀次の命で鎌掛城は廃城
など鎌掛城は様々な伝承に鎌掛城は包まれています。これらの伝承は今回、地表面観察からも、筆者は「もしや」と思ったことも少なくはありません。 

堅城・鎌掛城へ

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登城路
今回は搦め手からの登りやすい道を通り鎌掛城に向かいます。
バスは川沿いの道を進み、やがて右手にチェーンで車止めをされた場所に止まりました。バスから降り、少し歩いた所で、準備体操を行い、鎌掛城にアタックしました。登城路の最初、川沿いの部分は左手が崩落しますが、参加者は注意深く登って行きます。webでは鎌掛城は直登しなければ訪城困難な厳しい山城として紹介されますが、城山には、登山用に道がつけられている場合が多く、鎌掛城も秋にはマツタケ山となり、マツタケ採取の為に登らます。ハイカーも多く訪れられている様で、それらの方もこの道を利用されているかもしれません。この道は戦国期には搦め手道であった可能性が高く、搦め手からの登城路には数百年経った今でも昔の城道は残されている部分もありました。
 
イメージ 3掛城地形図
(地形図の番号は下記写真の位置です)
鎌掛城は標高372mの山頂から三方に広がる尾根に遺構を残します。地形図や縄張り図で確認するとその形状は、鎌の形をした江北の鎌刃城に酷似しているともいえなくもありません。ただ残される数々の遺構は鎌刃城とは大きく異なっていたり、似通っている部分も残します。同じ近江の国でかつ六角氏との関係も持った両城なので、その関連も可能性として残りそうです。
 
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① 西の尾根上の曲輪
登りやすい道を経て、西の尾根上の曲輪に入りました。何時もの如く、見学会の参加者は多いのでその進む姿は曲輪を攻略し次の曲輪に向かう兵士のようにも見えます。
 
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② 虎口土塁と建物基壇
左手奥が虎口の土塁で、右手の赤いスパッツを履かれた
方が立たれている場所は建物基壇の上です。筆者が見た鎌掛城の特徴として、主郭近辺以外は多くの遺構の土塁の高さや、建物などの基壇の高さが低いことが感じられます。対して、切岸の高さは極めて高くなっています。
 
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③ 土塁に囲まれた泥田場になっている曲輪
西尾根の曲輪を歩き続けると、やや四角い形状の土塁に囲まれた、泥田場になっている曲輪に入りました。後ろは高い切岸になり、一見すると小谷城の馬洗い池にも見えなくもありませんが、講師の話によると、水抜き用の穴が塞がれ、水がたまっているのではとの事、普段から水が溜まる事となれば、害虫が発生し、衛生上よくありません。左手には土塁の欠落も見受けられ虎口であった可能性も考えらます。
 
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④ 桝形状の虎口
斜面に残る、うっすらとした道を登ると一折れし左手に虎口が開きます。
虎口を入ると桝形のような虎口空間となっています。
 
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⑤ 広い曲輪
二折れした虎口空間を通過すると、広い曲輪に入りました。ここにも建物基壇の跡が残され、鎌掛城は多くの建物が建てられた可能性を感じさせます。
 
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⑥ 犬走
犬走を歩き、次の曲輪に向かいます。
 
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⑦ 井戸
犬走は途中で竪堀を使用し細く隘路となり、
その隘路を超えると、二段で形成された井戸曲輪に入りました。
井戸曲輪には深く、石積みを利用した井戸跡が残り、筆者はこの井戸を見た時、備前の金川城天守の井戸が脳裏に浮かびました。あの井戸を見た時、「この井戸に落ちれば生きて戻れないだろう」と思った事がフラッシュバックしました。石積みはチャート石を用いられ、底部は石積みを用いられない素掘りになっています。この井戸のある曲輪は雨が降れば前面の切岸が効率よく雨水をひたたり落とし、井戸に集めたと考えられます。ただ城の規模に対して井戸がこれだけというのも少なすぎる感がし、埋没するなどして、この曲輪や他にも井戸があった可能性が想定できます。
次回は主郭と東尾根、新たに発見された砦跡を経て山屋敷に向かいます
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本年、当ブログ戦国城郭記に訪れて頂きました皆様
誠にありがとうございました。重ねて厚く御礼申し上げます。
 
本年は見学会及びイベントの告知が多くなり、本来の戦国城郭記の道筋である
お城のご紹介が少なくなってしまいました。
この事に関して、誠に申し訳なく思っております。
 
皆様に来年からの戦国城郭記の方針、及び、筆者・三宅勝の現在の活動
についてのご報告をさせて頂きたいと思います。
 
2012年秋〜2013年春までは兵庫県播磨地方のお城の調査に従事してまいり
ました。
本年2013年秋〜兵庫県丹波地方、2014年1月〜4月までは岡山県の
中世城郭の調査に赴きたいと考えております。
 
2012年秋〜の成果につきましては当ブログにて筆者が現地にて作成した
縄張り図を含めて公開したいと思っております。
 
当ブログでの紹介方法についてもご質問があれば、どんどんコメントで頂ければ幸いです。
 
来年も戦国城郭記をよろしくお願い致します。
皆様よいお年をお迎え下さい。
 
戦国城郭記 
筆者 三宅 勝
 
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