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戦国城郭記
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猿掛城 六の段〜四の段

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六の段
六の段です。猿掛城は規模の大きな曲輪が連なりますが、
庄氏、三村氏時代の城郭は、毛利時代に大きく改修を受けます。
備中兵乱で三村氏が没落後
猿掛城には毛利元清が入ります。天正年間中頃、毛利氏は宇喜多氏と戦い、
毛利家当主・毛利輝元は猿掛城を本陣としました。
毛利氏が猿掛城の改修を行っている文献が毛利家文書に見られます。
その為、庄・三村時代の縄張りとは大きく変化を受けたと思われます。
 
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五の段
五の段です。六の段、五の壇は低い切岸で仕切られています。
 
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四の段
四の段です。四の段高い切岸とその切岸に石積みの跡が残されます。
 
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四の段切岸の石積み
明日は主郭に向かっていきたいと思います。
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猿掛城 城主の変遷

猿掛城 城主の変遷

猿掛城の縄張りは、山頂部に主郭を置き、そこから北側の尾根に向け六の丸及び太夫丸まで曲輪を連続した連郭式山城です。
主郭の背後は南側へと山塊が連続するが、巨大な堀切で遮断しています。
猿掛城は戦国時代中ごろになると城主の変遷が激しくなります。
守護細川氏との戦いで勢力を減退していた庄氏ですが、やがて勢力を盛り返すと備中国内で大きな勢力として成長します。庄氏は備中の守護所・備中松山城も支配下に治め時の庄氏当主・庄為資は備中松山城に入り、猿掛城は一族の穂田実近を置きました。天文22年、成羽・鶴首城の三村氏が毛利氏の援軍を受け、猿掛城に攻め込みます。講和の末、三村家親の長男・元佑が猿掛城の城主となりました。備中国内は庄氏に代わり三村氏が巨大な勢力を持つようになり、元亀2年再び三村・毛利の連合軍と庄氏は戦います。庄氏の本拠・備中松山城は陥落し庄氏は没落します。その後、猿掛城は三村氏のものとなりますが、天正2年、三村氏と毛利氏が敵対関係となり、戦った備中兵乱で猿掛城は毛利方に攻められ落城、翌、天正3年6月、三村家親は松山城下で自刃し三村氏も没落しました。備中は毛利氏の支配する事となり、毛利時代に猿掛城は大改修を受け、猿掛城の現遺構は毛利時代の遺構のものとなります。
 
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六の段
 
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五の段
 
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四の段
 
 
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四の段石積み
明日は各曲輪の詳細を見てみたいと思います。
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猿掛城・太夫丸

太夫

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猿掛城略図
猿掛城山麓及登城口及び、山上主郭には簡単な猿掛城の略図があります。
現状との食い違いもありますが、城址を巡る際には参考になりそうです。
 
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 太夫丸
寺丸を出て、山上主要部に向かいます。
すると削平面が荒い曲輪に入りました。ここは太夫丸と呼ばれます。
天文2年(1533年)守護細川氏に攻められ勢力を減退した庄氏でしたが、
やがて勢力を盛り返し、当主・庄為資は守護所である備中松山城に入ります。猿掛城には一族の庄実近を城代として置きますが、天文22年(1553)年、毛利の援軍を受けた三村氏と戦います。戦いは調停で講和となりますが、
翌23年に三村家親の長男、三村元佑が庄為資の養子となり猿掛城に入城しました。城代の実近はこの曲輪に退去しここを太夫丸と称したと伝わります。
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 太夫丸に残る石積み跡
不自然な地表面の太夫丸は後世、炭焼き窯などが作られ現状を逸しています。寺丸と同じく、出曲輪的な存在として用いられたと考えられます。
明日は猿掛城の中心部に迫ります。
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猿掛城 寺丸

猿掛城 寺

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寺丸
山麓から登り始めて20分広い削平地に出ました。ここは寺丸と呼ばれます。
戦国時代、備中守護は細川官領家一族の細川勝久が務め、普段は京で室町幕府の政務に携わり、所領の備中では庄氏が、その下で守護代を務めていました。延徳三年(1491年)10月21日、守護と守護代の間で戦いが起こります。
守護代・庄元資が守護・細川勝久に反抗し、備中の細川勝久の一族や家臣を
急襲、勝久の一族24人と家臣500人が討死します。
勝久は当時、将軍・足利義植に従い、近江に出陣中でしたが、義植の許しをもらい11月の終わりにようやく、所領の備中に庄氏討伐の為、向かいました。翌 延徳4年3月、細川勝久は庄元資の猿掛城を急襲します。
元資はかろうじて城を抜け出しますが、庄氏を支援する香西五郎右衛門とその一族は孤軍奮闘し、城中で自刃しました。庄氏は一時的に勢力を大きく失いますが、後に守護・細川氏に代わり備中で勢力を大きく広げます。猿掛城を再び取り戻した庄元資は香西五郎右衛門とその一族の菩提を弔う為、寺丸を築き、位牌堂を建てました。永正5年(1508)庄氏は山麓の椿原に見性寺を建立し、寺丸位牌堂の位牌を移し供養を続けたと伝わります。現在でも柱の礎石や、石積みの跡が残されています。明日は猿掛城の中枢部へと向かいたいと思います。
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備中・猿掛城 序章

庄氏 備中支配の拠点 猿掛城

2014年1月12日、岡山県倉敷市と真備町にまたがる備中猿掛城に訪れました。猿掛城は高梁川の支流、小田川の南岸、猿掛山(標高232m・比高200m)の山上に所在する中世城郭です。
 
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猿掛城遠望
小田川に沿って続く県道480号線からは猿掛城の山容がまさに山城というように見えます。猿掛城は庄氏により鎌倉時代に築かれたと伝わります。
備中・庄氏は元は武蔵国児玉郡の武士団で、寿永3年(1183年)源氏に従い、
一の谷の合戦で、平 重衡を生け捕りにした功により備中国草壁荘を与えられた事に始まります。庄家長は当初、幸山城(岡山県総社市)に入りますが、
防御的に不利な為、元久2年(1205年)に猿掛山に城を築き移ります。
以降庄氏は戦国時代まで366年間、猿掛城を備中支配の拠点としました。
 
では猿掛城に登ってみたいと思います。
 
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登山道案内図
猿掛城へは大手道、搦め手道、真備町登山口の三か所の登り口があります。
筆者は今回、大手道を選択し登っていく事になりました。
 
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大手道
なだらかな道を進むとやがて、次第に道は急となりますが、丸太の階段が
組まれており登りやすいです。
 
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大手道からの眺望
麓から15分程、眺望の良い場所に出ました。山麓の小田川と真備の町が
良く見えます。明日は猿掛城の城域に突入してみようと思います。
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