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キティとミッキーの相違!
さて、ソニーの元CEOの出井さんが 面白いたとえを言われている。 雑誌ゲーテの記事です。 是非、本文で確認してみてください。 「ミッキーは米国的、
キティーは日本的だ。」 キティーの条件は次のとおり。
1、まず「くち」がない。 2、ずんぐりむっくり。 3、いつも笑顔である。 4、かわいい 5、だれからも嫌われない。 などなど。
さて、出井さんがおっしゃるには、
日本人はまさに、キティーであると。 目指す日本人像は、 キティーであれと。 英語が堪能で国際派ビジネスのCEOで あった出井さんの台詞である。 英語がしゃべれることよりも、
スマードであることよりも、 雄弁で他者を負かしてしまうよりも、 討論や批判が得意でなくても いいのだと言われているようだ。 日本人が目指すのは平和の象徴である キティー像であるべきだと。 世界中から親しまれ、求められる像 それがキティである。 雄弁よりも、笑顔と思いやりを 堪能よりも、朴訥と真心を 大切しようと。 人を負かすより人を助ける存在であれ 口から生まれた雄弁家より気高き心を 持つ普通の人になろう。 本当の日本人の心がキティーに込めら れているのではにかと。 なる程、考えさせられますね。 小学校で英語を学ぶことよりも もっと大切なことが見えますね。 平成23年5月28日 川越芋太郎 |
私はこんな番組を見た
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最近、「正義」が注目されている。 それは、ハーバード白熱教室のサンデル教授の 授業に一つの理由がある。 NHKの教育でも放送されていたので、見た方も 多いと思う。 実は正義というと、私芋太郎は、サンデル教授 よりも先達となるある人物の著書を思い出す。 ジョン・ロールズ教授の「正義論」である。 では、サンデル教授とロールズ教授の違いは いかなる点にあるのだろうか。 双方主張を理解して事、正義の理解に一歩前進 するのではなかろうか。 まず、現在の日本人に馴染みのあるサンデル教授 の掲げる正義 コミュニタリアンともいわれる考え方であり、 個人は善い生き方を共同体から学び取る存在で あるという。 正義は道徳という問題に関与するとも言える。 日本人に馴染みがあるというのは、時間的に近い というだけではない。 共同体という概念は、歴史的にもアジアの民族性 と合い通じるものがあると思われる。 さらに、最近の経済的事象や社会的事象から憂慮 する人々が多い。 例えば、
先の米国金融危機に一例をあげる。 金融資本主義の行き着くところは、勝ち組ならぬ
勝利者のみ繁栄主義。 低所得者層への無謀なローン付け、それをCDS という魔法で債権化し、世界中にばら撒き一人儲け のわが世の春を満喫した。 これは、かれらの正義であった。 日本は戦後の占領軍の政策に影響された、自由と 機会均等を是とした社会を構築した。 そして、自由市場主義という名の無比なる世界が 生まれている。 伝統的な日本観と相対する考え方が並存する世界が 今の日本である。 さて、話は正義に戻るが、サンデル教授のコミュニ タリアン的考え方が浸透する土壌が生まれていると いえるのかもしれない。 一方、戦後の日本の占領政策を支えた、もう一つの 正義がある。 ロールズ教授のリベラリズムの世界観だ。 基本的人権を万人に平等に与えられる。 同時に、均等な機会の元で生じた不平等は一定の わかり易くいえば、基本的人権に元ずく競争の結果 もたらされた富は、自分で独り占めできる。 慈善活動をすれば、それで許される。 ロールズ教授が掲げた正義こそが、歴史上の欧米の エリート像に結びつく。 そう思えないだろうか。 話を現在に戻すが、近頃欧米の方向転換が感じられる。 それは、ポールソンの自叙伝が語る。 あの金融資本主義の権化であるゴールドマンサックス 出のポールソンの一言であるが故に。 時代は、ロールズ教授のリベラリズムからサンデル教授 コミュニタリアンへの変化を示唆するのか。 では、コミュニタリアン主義は本当に「最終的正義」と なり得るのか。 川越芋太郎には、どちらの「正義」にも危惧を覚える。 正解はないのかもしれない。 コミュニタリアン主義が極限まで行けば、共同体の正義 が独り歩きする。 それは、いつか来た道であり、戦中の言論統制を齎す 可能性がある。 共同体の正義のためには、個人を犠牲にする。 それも正義であると。 また、ロールズの正義にも限界があった。 それは、ロールズ的リベラリズムを基礎に発展を求めた 戦後の日本の社会と精神の退廃を考えてしまう。 どちらが正しいというものではないような気がする。 どちらも、多くの汗と涙と血を投じた結果、もたらされ た正義なのだから。 私たちはどちらの正義も未完成であり、ともに長所と 短所があることを覚えておく必要があるのではないか。 平成23年1月9日 川越芋太郎 |
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プロフェッショナルと市川海老蔵
昨晩、NHKのプロフェッショナルという番組を観た。
今回で最終回だそうだ。
無論、秋から新に始まることを示唆していたが。
プロフェッショナルな人物とは、
最終回はあの歌舞伎の市川海老蔵氏であった。
以下市川海老蔵氏のことを本文では、愛着を持って
海老蔵と記載させていただく。
ご容赦をお願いします。
初端からであるが、海老蔵の言葉を記載する。
プロフェッショナルとは貴方にとってはどういう意味ですか?
「昨日の自分を超えることを継続して、しつづける。」
海老蔵にとり、上記の文章は飾りではない事が分かる。
「昨日の自分を超える」とは、不断の修練と意思が不可欠である。
海老蔵は、生まれたときから歌舞伎の跡目として期待され、
育てられた。 それは、幸運であるか我慢ならないことであるか。
海老蔵は「海老蔵」襲名後、その名前の重さから、
一次歌舞伎を止めることも考えたと言う。
今、私達の目前で演技する歌舞伎役者はいなかったかもしれない。
だが、海老蔵は伝統・文化・家族・自由・やりがい・自分の技量など
と葛藤した。 そして、自らの道を選択した。
選択とは大仰なことではなく、人生の一場面で突然に訪れる
のかもしれない。
海老蔵のように。
こんな海老蔵が今、目指すものは、何か。
当然に過去の海老蔵を越えること。
さらに、團十郎を超えること。
目線を目前に戻せば、自らの限界を超えることだという。
その一言がある。
「満足したら油断となる。
油断となれば、失敗の可能性がます。」 舞台に全霊を傾ける海老蔵だから納得できる。
一日4演目、年間500を超えると言う。
まさに、歌舞伎漬けの時間である。
千班は、「伊達の十役」に挑んだと言う。
独りで10人の役柄をこなす。
男女を問わず、年齢を問わず。
まさに、自らに課する激務と試練。
悩みもあろうが、練る暇も惜しんで練習をすれば、
運命は切り開かれる。
演技終了後の感想
「困難な時こそ、攻めろ。」
型が基本の歌舞伎の世界
しかし、型を超えることに今チャレンジしたい。
ここで、型について、こんな表現があった。
見得を切る瞬間には何を考えているのか。
海老蔵は無心の時が一番いい演技となるという。
型を考えているとき、やはり美味く出来ていない。
型を自分の物にして初めて型を超える。
歌舞伎も武道も同じですね。
人と同じ努力では足らない。
幼少からこの道に入り鍛錬を続ける海老蔵が言うから
面白い。
同じ努力では、超えられない。
超えたい相手は父であり、過去の團十郎や海老蔵であろう。
そのために、今は生活をすべて歌舞伎に捧げている。
そんな海老蔵にも、楽しみがあるという。
それは家族の団欒。
いま、結婚して、それを味わっているという。
酒もタバコも芸の道の為に断った。
皆様へ海老蔵から2つの言葉を!
「人生は運と勘と縁です。私は直感を信じています。」
「1つのことを心におく。」
⇒一所懸命に生きる
いい言葉ですね。
歌舞伎という日本文化、大衆文化の継承を是非とも
お願いしたいです。
私たちも、歌舞伎を少しでも理解したいものです。
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ハーバード白熱教室を拝聴して(NHK教育)
毎週日曜日、NHK教育テレビの18時からの番組であるが、
これが非常に興味深い。
ハーバード大ということも含めて、日本の文系大学教育と
大いに異なる授業風景ぜひ、一度目のあたりにして欲しい。 日本の多くの文系大学教育では、昔も今も大して変わらない
と聞く。
芋太郎の大学時代でも、討論形式の授業は非常に稀であった。
現在、娘の通う大学でも大中講義室での高校風授業風景が
当たり前のようだ。
大学教授が語り、ノートを取る大学生のスタイルである。
記憶中心の授業風景は、大学進学と併せて、
将来の日本の指導者層となるべき大学生の応用力の低さと
基本的姿勢のブレとあいまって、悩みの種である。 このように教え込まれた大学生が企業と即戦力として
活躍することは稀である。
即戦略といえば、営業の足ぐらい。
企画・戦略立案を初め、多くの職場で思考方法や論理思考
を再度研修する状況である。 これは、大学生に非があるわけではなく、授業そのものに
問題がある。
あくまでも知識習得の場であるとしか見ない日本の授業。
しかし、海外の多くに授業は、自分で考え自分の意見を
主張することに重きを置く。 無論、内容的な問題もさることながら、上記の考え述べる
行為そのものが試される。 このような授業であるから、日本人の留学生はなかなか
ハーバードをはじめ海外大学の授業に馴染めない。
それは、自分の意見がない日本人として勘違いをされる。
無論、論理が全てではない。
しかし、論理と論理を重ねあうことも技術として習得すべき
である。
本日のハーバード白熱教室は、「愛国心と正義」が課題で
あった。
行き成り「正義」を今回の中で理解するのは難しい。 ギリシャ哲学を理解しないと彼等の「正義」は理解できない。 しかし、授業としては、なかなか、面白い。
こうして、鍛え上げた生徒が将来の米国の指導層となると
思うと、日本の政治家の論理武装が軽武装であると心配される。
我が家の娘に言わせれば、こちらのハーバード白熱教室の方が
面白い。「居眠りする事もないわ。」との弁である。 日本の文系大学授業の教え方も少し変更してはいかがだろうか。
おそらく、授業風景を工夫している教授はまだまだ少数では
なかろうか想像する。
国の未来は「教育」にあり。
将来を担う若者への教育に「これでいい」はない。
大いに「海外授業」も参考にして欲しいものだ。
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日本vs韓国 韓国に0−2で苦杯!(ゼロでは勝てない!前編)
本日、今しがた放映が終了したキリン・チャレンジカップは日本の
無得点で幕を閉じた。
ここで重要なことは、無得点のゼロでは、勝てないという事実。
これは全員で共有化すべき問題です。
サーカーの話は、専門ではないので、これ以上コメントは
避けます。
日本代表全員の「頑張り」に今後も期待したい。
話は、経済に戻します。
ゼロに象徴されたことは、守りのサーカーであり、攻めの組み立て
が出来ていない。
これは、実は経済や政治と同じ現象が日本では今や進んでいる。
財政再建は必要だ。
だから、いずれは消費税を上げるべし。
消費税を上げて、国債の増発を押さえる。
健全財政に持ち込む。
そしてどうするの?が語られていない(笑) これが、巷の通説です。
(正確に言うならある種の宣伝です。)
これは、サーカーで言うところの守りの体制です。
絶対に勝てない。
なぜなら、ゴールしなければ、得点は入らないのだから。
責めとは、経済ではお金を使うことです。
経済での攻めはお金を流通させることです。
500兆円の消費に対し、5%の消費税で25兆円の税収とします。
10%に消費税を上げたとして、50兆円の税収がはいりますか?
答えは、否です。
人間は感情の生き物です。
消費税を上げることで、世帯全体、日本全体が間違いなく
守りの体制に入ります。 即ち、「節約」です。
消費が10%減少して450兆円となり、税収は10%で45兆円
消費が20%減少して400兆円となり、税収は10%で40兆円 これが毎年スパイラル的に減少してゆきます。 複利での減少です。
想像しただけでも、日本経済の沈没です。
日本のGDPが世界第四位などと妄想の世界に突入です。
今の日本を支えているのは、実は個人消費です。
すでに、企業の設備投資は大きく後退し、
国の投資も財政負担増大のために、大きく後退し、
消費税でさらに個人消費が絶滅すれば、
日本経済は奈落の底です。
財政健全化などの問題ではありません。
健全化する対象自体がなくなるかもしれない。
いまは、攻めるときです。
1400兆円の個人資産は、このままでは欧米や発展途上の
国々に毟り取られる。 世界は、虎視眈々と日本の国富を狙っています。
どうせ、策略により取られるなら、いっそ未来のために
全部使いましょうか?
消費が経済を潤すかを説明したいい文章がありました。
後編で紹介します。
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