NAZCO☆中川図画工作所

GHQ憲法を破棄しなければ日本人は今の苦しみを漫然と味わい続けます/日本国憲法は法理論上、無効です

正しい歴史認識

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元寇を忘れるな!
元寇750年イベントにご意見募集
 
1274年から数えて、2024年は、750年目に当たります。
 
ご意見を募集します。
 
 
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元寇七〇〇年平和之碑
 
 
 
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元寇六五〇年 対馬 小茂田神社の鳥居
 
 
 
 
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助國忌
 
 
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壱岐 新城神社 元寇三〇〇年記念植樹碑
 
 
 
 
 
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元寇750周年イベントに対するご意見
※下記のことをして欲しいと思います。
<対馬>
・対馬厳原 元寇上陸地 小茂田神社における元寇750年平和記念碑建立
・       御胴塚 御首塚の整備
 
<壱岐>
・島内各所に散在する千人塚の整備
・少弐の墓の整備
 
<長門>
・元寇上陸地点標識整備
 
<鷹島>
・世界史上最大の海軍が集結した状況の再現
 
 
※ご寄付受入れ先
<対馬>
・小茂田神社、御胴塚、御首塚、対馬市
<壱岐>
・壱岐神社、少弐の墓前、各千人塚
 
 
 
 

転載元転載元: 海洋文化交流のブログ

元寇史料館
 福岡県庁のある東公園の一画にある史料館。ここでは約800年前、北部九州を元軍が襲った「文永の役・弘安の役」の史料を展示している。当時の両国の武具があり、動物の硬い皮で作ったモンゴル型の鎧など、日本の鎧とは違う点で文化の勉強にもなりそう。明治の洋画家・矢田一嘯作が描いた元冦絵や江戸期の刀剣、火縄銃なども展示している。
所在地福岡市博多区東公園
アクセスJR「吉塚駅」下車・徒歩5分
市営地下鉄「馬出九大病院前」下車、徒歩2分
 元寇史料館(げんこうしりょうかん)は福岡市博多区東公園内に存在する博物館である。
日蓮上人銅像護持教会が維持管理している。
 
 
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 明治37年、「元寇記念館」として設立されたが、昭和61年「元寇資料館」として開設された。 展示室は元寇記念室と日蓮宗史、銅像史、武具の歴史、企画展示の二室からなる。 元寇の際、鹵獲したモンゴル帝国軍の武器など貴重な資料が陳列されている。また元寇に関する矢田一嘯画伯の連作の展示もある。

主な展示物

  • モンゴル型鎧
  • モンゴル型兜・短弓
  • 日清戦争における清国軍艦の神符
  • 日蓮上人佐渡流刑の景(小島与一作)
 『高麗史』及び『元史』によれば、高麗の趙彜(官僚)や王世子(のちの忠烈王の)執拗な要請があったため、日本侵攻が決定された。
日本の被害
 現在伝世している日蓮の書簡のうち、建治元年5月8日に佐渡の一谷入道日学の女房に宛てた、いわゆる「一谷入道御書」によると、
《去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫に寄セテ有シニ、対馬の者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人も助かる者なし、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、》
 「百姓」=一般人は「男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ」ている状況とともに「女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」 とある。
 そして、「男」と「女」に懸かるのであろうか、「一人モ助カル者ナシ」と書かれており、壱岐でも、同様の残虐な仕打ちがなされた、とある。
 
 明治中頃に日本内外の蒙古襲来関係の史料を収集した山田安栄 編の『伏敵編』(1891年)には、「按(あんずるに)」として、『高祖遺言録』載録の上記の「一谷入道御書」と室町時代後期に描かれた円明院日澄『日蓮註画讃』(後述)に記述されているこれらの事柄について、編者山田安栄のコメントがある。
 
 山田安栄はまず、『太平記』に「掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ」との記述と比較しつつ、「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。」と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と書かれているものであると文中の意味内容を明確にして説明している。
 
敵は、文永十一年十月五日先ず対馬を襲う。 守護代 宗助国 弟 馬之允、手勢八十騎、外に義勇軍と共 に敵約一千名と激戦し、玉砕した。
 
 
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 さらにここでは、『日本書紀』の天智天皇の時代(662年)について書かれた高麗の前身の国家である「百済」での事例を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)云々のやり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としている。
 まさに、この残虐行為を証拠として高麗人の仕業、と編者は判断している。日蓮は、対馬や壱岐、あるいは九州本土における惨劇を『高祖遺文録」の各個所で言及している(しかしながら、近年の研究によると、
「捕虜の手に穴を開けて連行する」
というショッキングな内容にもかかわらず、「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡には対馬や壱岐などでの住民の連行などに対する蒙古への非難はある。
 室町時代の円明院日澄(1441年 - 1510年)の撰になる『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』には、文永・弘安の役について「一谷入道御書」その他一連の日蓮の書簡類や『八幡愚童訓』の記事に多くを依拠しつつ、
「二島百姓等男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹、舷に結付け。肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し、」
「皆人の当時の壱岐対馬の様にならせ給(たま)はん事思ひやり候へば涙も留まらず。」
とも書かれている。
 
 
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この対馬に上陸した敵兵は、男とみれば惨殺し、婦女は捕え て手に穴をあけ、これに縄を通して船舷に結びつけぶら下げる 等の残虐さをくりかえした。
 
 
 また同じく建治元年8月に出された「乙御前御消息」では、
《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし。》
 
 
 
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 勢いに乗じた敵兵は更に壱岐を攻め、守護代 平景隆は百余 騎と義勇軍で奮戦力及ばず、一門一党残らず自殺、宗三郎に急 を太宰府に報じるよう命じた。
 
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(同右書)とある。なお、対馬→壱岐を侵した後、元艦船隊は鷹島へ向かった。そして、上陸軍を揚げている。
 『八幡愚童訓』の文永の役の件においても「(文永十一年十月)同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。」とある。
 『高麗史』や『高麗史節要』などの文永の役後の記事に童男女が俘虜として高麗国王等へ献じられたという記述が見られるため、「男女」が「捕らる」とあることから対馬や壱岐の住民も捕囚され連行されたものと考えられる。
 その後の日本では、元寇の時、蒙古・高麗軍が日本を襲い虐殺を行ったことを、「蒙古高句麗の鬼が来る」といって怖れたことから、転じて恐ろしいものの代表として子供の躾けなどで、「むくりこくり、鬼が来る」と脅す風習などとなり、妖怪に転じて全国に広がった。
 
 
 
 
 
 モッコの子守唄(青森県木造町)のように
「泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな」
などと、昔の蒙古襲来の怖さを子守唄にしたものなど、上記の残虐行為への恐怖を証明する民間伝承は全国に存在する。
 
 
 
 蒙古襲来においては高麗軍も南宋人とともに尖兵として日本へ攻め込み、壱岐・対馬や博多において九州の御家人を中心とする兵と戦った。
 
 
 
 高麗軍は壱岐・対馬の民の男は殺し、女は手に穴を開けて船の舷に吊るし矢除けにしたと伝えられている。
 
 
 壱岐は1274年・1281年の二度にわたる蒙古軍の襲来によって、ほぼ全滅の状態になる。1281年の弘安の役では、大宰府の命をうけた19歳の少弐資時が、雲霞のごとき蒙古軍をここ瀬戸浦に迎え撃ち、壮烈な最期を遂げた。

元軍は島民にも暴虐の限りを尽くし、芦辺町には千人塚、千人供養、中島塚、八ツ塚、裏町の千人塚、千人堂などが残る。
「かくれ穴」も町内随所にあり、いかに島民が悲惨な目に遭ったかが偲ばれる。
少弐氏はもと武藤姓を名乗る武蔵国出身の武家の名門で、資時の曽祖父、武藤資頼が太宰少弐に任命されて以来、武藤氏が太宰少弐の官職を代々務めることになり、少弐姓を名乗るようになったという。資時はこの名家の三男だった。少弐資時が、何処で討ち死にしたかについては諸説あり、激戦の結果その死骸も確認されていない。元軍の殺戮がいかに激しかったかを物語っているともいえる。
人はその立場・状況に置かれたら年齢などには関係なく努めを果たす。
http://inoues.net/harunotuji/harunotuji4.html
 
 
 
 
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 さらに博多に元軍は、上陸し博多に火を放ち、博多の町は灰塵となった。
 また、女や子供は捕虜にし、高麗軍に連れ去られ献上された。
 
 破竹の勢いの敵は目指す博多に押し寄せ、先ず西部より室見川、 百道原麁原山に迫り、つづいて東部箱崎、博多正面に主力を注ぎ 一日中死闘が続いた。
 
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その日の大将小弐景資は一日中の激戦に疲れ。
 
 夕暮戦場のあとを彷徨い、戦没した夫を恋う妻、父を慕う子の悲惨さなど戦争のむごたらしさを物語るものがあった。
 
 
 
 
 おまけ
 
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 元冠の油絵 本仏寺

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更新日時:2005年3月17日

本仏寺の宝物殿には矢田一嘯画伯による油絵の元寇のパノラマ画(14枚1組)が同寺の寺宝館に納められています。

鎮西身延山本佛寺  所蔵元寇


パノラマ画矢田一嘯画伯文永11年10月 弘安4年5月  百号14枚
安政5年12月19日、横浜に生まれ、はじめ日本画を研究したが、進んで洋画を習得するために渡米。ロスアンゼルスでパノラマの技法を学び帰国。その後九州に至り佐野前励日管上人と出会い、元寇記念碑としての亀山上皇並びに日連聖人両銅像の建設に献身的に協力。その当時に描かれたものが西身延所蔵の歴史画14枚であって、現在文化財に指定されている。絵画史上最も貴重な資料である。他に日蓮聖人銅像台座の銅板画の下絵も画伯の手になったもの。また銅像前の広場に、大パノラマ館が日管上人の手によって建設され、それにも執筆しているが、大正中期大暴風雨にとって倒壊し、当時の絵画は、今日所在がわからなくなっている。 西身延所蔵の作品で知られるように、厳しい写実的な作風と大胆なタッチは、その偉大な天分の所有者であったことを永久に伝えるものであろう。大正2年4月22日56才で死去。墓碑は福岡市妙典寺に建てられている。

 
 
 
 
 
 
 
【蒙古襲来・英霊に感謝】_日本人再生(元寇と、韓国朝鮮の侵略)
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福岡県庁東北隣り
電話して行った方が無難です 092-651-1259
 
 
 

外国による古代日本侵略史

転載元転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る



転載元

櫛田B子さまの『天晴!にっぽん』(Hatenaブログ)より転載させて頂きました。
記事のオリジンは別のブログで、文中に示されています。
 
(以下、転載記事。 ↓のタイトルをクリックして元記事に行けます。)

ぼくらの祖国を甦らせる〜「硫黄島は祖国を甦らせる手がかりだ」【転載】http://d.st-hatena.com/statics/theme/hatena_kimono-koi/star-add.gif

No.856 ぼくらの祖国を甦らせる 国際派日本人養成講座/ウェブリブログ
 2014年7月6日 配信
より転載させていただきます。


【転載】ここから
 
■■ Japan On the Globe(856) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

Common Sense: ぼくらの祖国を甦らせる

「硫黄島は祖国を甦らせる手がかりだ」

■転送歓迎■ H26.07.06 ■ 43,859 Copies ■ 3,868,245 Views■
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■1.「奇跡の島」

日米の最大の激戦が行われた硫黄島(いおうとう)は、アメリカでは「奇跡の島」と呼ばれている。戦後、日米の生き残った戦士やその子、孫、ひ孫が集まって、毎年早春に合同慰霊祭をやっているからだ。

青山繁晴さんは、硫黄島で生き残った一人、金井啓さん(当時82歳)と会った時、この合同慰霊祭について、こう語った。

__________
それなのにそこにやってくるアメリカ軍の生き残りは、自分だけでなくて子や孫、ひ孫に至るまですべてアメリカ国民が支えて、つまりみんなみんな、税金で来ますね。アメリカ国民の支えによって、アメリカの政府とアメリカ軍の支えによってやってくる。

そして亡くなった方々は、ぼくが調べたらケンタッキーに帰った人も、ニューヨークに帰った人も、
カンザスシティーに帰った人も、サンフランシスコに帰った人も、みなヒーローになって、そこで褒め称えられて祖国を守った英雄として扱われています。

ところが日本では生き残った金井さん、あなたは政府が決めた、あんな小さい場所で、そこだけで戦友の遺骨を探し、お金も自分たちで出さなければいけない。そういう扱いを受け、国民からも忘れられ、そして亡くなった方はいまだに滑走路の下や岩の下に閉じ込められたままになっています。[1,p209]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■2.「この違いは何ですか。日米の違いは何ですか」

日本から遺骨収容に行く人々は自費で硫黄島に渡り、政府に許されたごく一部の地域でしか、活動を許されていない。そして、米軍が作り、今は自衛隊が使っている滑走路の下には無数の遺骨が、今も眠っている。およそ2万人の
戦没者のうち、遺骨として収容されたのは、いまだ8千数百柱に過ぎない。

__________
金井さん、この違いは何ですか。日米の違いは何ですか。ほんとうは、日本は戦後教育で日本兵は悪者だったと教えてきたから、英霊は英霊ではなくて悪者だと教えてきたから、悪者だから忘れて良かった、悪者だから放っておいてよかった、悪者だから滑走路の下に閉じ込めて滑走路を便利に使ってよかった、これが戦後日本の本当の真実なんですね。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


金井さんはそのとき突然、大きな声を出した。

「その通りっ。俺たちのどこが悪者なんだ。おまえたちのためにみんな戦ったんだ」

そのたった一言を叫んで、金井さんはまた静まった。


■3.擂り鉢山

 青山さんは金井さんに会う前日、硫黄島に行っていた。硫黄島は東京都の
小笠原村に属する昔からの日本の国土である。青山さんはFNN(フジ・ニュース・ネットワーク)の社有ジェット機に乗せて貰ったのだが、羽田からわずか2時間半、沖縄より近い。

しかし、硫黄島は
海上自衛隊の基地となっており、特別な許可がないかぎり上陸できない。青山さんは防衛庁と半ばケンカ混じりの交渉をして、「行くなら勝手に行け。ただし自衛隊は協力しない」とまで言われて、個人的にFNNのツテを辿って、ようやくやってきたのだった。

ジェット機が島の上空に到達すると、慰霊のためにぐるりと一周して貰った。
南端の擂鉢山は、その名の通り、擂り鉢(すりばち)の形をした火山であるが、その南側の火口が崩れている。アメリカ軍の艦砲射撃と爆撃により、火口が吹き飛んでいるのだ。この山にも張り付いていた日本軍将兵は、山の形が変わるまで砲撃されて、どうやって生きていられただろう。

この擂り鉢山の頂を、激しい戦闘の末に占領した米兵のうちの6人が力を合わせて、星条旗を結んだ一本のポールを立てた。従軍カメラマンの
ローゼンタール記者がその光景を撮った写真は、ピュリツァー賞を受賞し、世界的に有名になった。

 アメリカはその写真を第二次大戦中最大の激戦の勝利を記念するものとして、そのまま立体の巨大な彫刻にして、首都ワシントンDCの広場に据え、自国のヒーローたちを称えている。

わが国の観光客が、ワシントンDCを訪てその像の記念写真をとったりしているが、その陰に2万余もの同胞が犠牲になっていることをどれだけ知っているだろうか。ここでも、硫黄島のアメリカ軍将兵と、日本軍将兵とのそれぞれの国の処遇の違いは残酷なまでに明らかである。


4.滑走路での土下座

1944年12月、米軍は
サイパン島などマリアナ諸島から爆撃機を飛ばして、日本本土の爆撃を開始したが、マリアナ諸島から東京までは往復5千キロもある。戦闘機は航続距離が足りなくて護衛できない。また爆撃機も被弾したり、故障したりすると、途中で海に落ちるしかない。

マリアナ諸島と東京のちょうど中間にあるのが、硫黄島だった。米軍からしてみれば、硫黄島に滑走路を作れば、日本の本土爆撃をより効率的に、より少ない損害でできる。

だから、米軍は硫黄島の戦いが終わる前から、必要な土地を制圧するや滑走路を作り始めたのだ。日本兵の亡骸を収容することもなく、その上からコンクリートを流し込んで、滑走路を作った。


硫黄島が返還された後も、滑走路のごく一部が遺骨収容のために掘り返されたが、大部分は今もその下に日本兵の遺骨を下敷きにしている。

ジョット機が滑走路に着陸し、倉庫の隅に機体を寄せた。小さな飛行機で、滑走路に降り立つステップは3段ほどしかない。しかし、青山さんの両足は凍りついたように動かない。

その理由は青山さんには分かっていた。自分が滑走路に足を下ろしたならば、自分たちのために命を捧げた先人の頭や胸や腰を踏みつけることになるからだ。

しかし、硫黄島に滞在できる時間は限られている。クルーは帰りに備えて機体の点検もしなければならない。青山さんは足を無理に動かして、地面に降りると、そのまま土下座をした。滑走路のコンクリートに手のひらを当て、その下にいるはずの英霊たちに語りかけた。

__________
これから硫黄島の中を見せていただいて、それをぼくが生きている限りは必ず国民のみんなにありのままお伝えしますから、今から島の中を見せてください。どうかお許しください。[1,p180]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■5.「これは実質的な敗戦ではないか」

硫黄島の日本側の
司令官、栗林忠通・陸軍中将は、武官として米国駐在経験もあり、米軍の物量作戦や戦略を見抜いていた。そして本土空襲を一日でも遅らせるために、硫黄島での戦闘を一日でも長く引き延ばすことを決心した。

そのためには波打ち際で華々しく玉砕するのではなく、島内に地下壕陣地を作り、砲撃・
空爆を凌ぎつつゲリラ戦にでる、という戦術をとった。

中将は「自決をしてはならぬ」「万歳突撃をしてはならぬ」と命じた。どうせここで死ぬなら、最後は華々しく散りたいと願うのは人情で、この命令には反発もあったが、中将は各部隊を回って、
自身の考えを説いた。

 結果から見れば、中将の作戦は成功した。2万余の日本将兵のほとんどが戦死したが、米軍も総員7万5千のうち2万6千近くの死傷者を出し、当初、島を5日間で占領する計画だったのが、36日間もかかった。

「これは実質的な敗戦ではないか」という一大論争が米国内に沸き起こった。小さな島一つ取るのにこれほどの被害が出るなら、ルーズベルト大統領の主張する無条件降伏を要求し続けて、日本本土決戦まで行ったら、どれだけの米兵の命が失われるのか、という疑問がつきつけられた。

硫黄島戦の直後、ルーズベルト大統領が急死した事もあって、
ポツダム宣言での有条件降伏に変更され、ようやく日本が降伏を受け入れられる余地が生じた。硫黄島2万余の英霊は、その死闘によって、和平への道を切り開いたとも言えるのである。[a]


■6.地下壕

青山さんは同行した海上自衛官らとともに地下壕の一つに入った。掘った道具は今も、そのまま転がっている。青山さんが見たのは、子どものおもちゃのようなトンカチだけだった。それだけでも手にできた人は幸運で、道具のない人は、生爪をはがしながら手で掘った。しかも、硫黄島は地獄のように暑い。掘っていったら、気温が70度にもなったと、わずかに生き残った兵は証言している。

 青山さんが入った地下壕は、草藪の中に、小さな縦に掘った穴が口を開いていた。両手を広げ、体をこすりながら、ストーンと真っ直ぐに下まで落ちる。底には、毛細血管のような細いトンネルが、横に続いている。灯りで照らすと、壁は全部、焦げている。米軍の
火炎放射器に焼かれたのだ。

 横穴を、両腕を縮めて匍匐(ほふく)前進すると、突然、天井が高くなって、背が立つようになる。さらに進むと、びっくりするくらい広い部屋が突然、現れた。そこはまったく焦げていない。栗林中将は、米軍が火炎放射器を使う事を知っていて、この迷路のようなトンネルを作ったのだ。

日本軍の将兵は、こういう地下壕から出没して、米軍に果敢なゲリラ戦を挑んだ。


■7.英霊の方々が本当に聞きたいこと

青山さんは、我慢できなくなって、後ろについてきた海上自衛官たちに絞り出すような声で語りかけた。

__________
みなさん、これを見ましたか。

生半可な努力でこんなものは掘れないよ。そして一番大事なことは、これを掘った2万1千人の日本の方々のうち、一人でも自分の利益のために、自分が助かりたいとか、自分の利益になるからといって掘った人はいるんですか?

ひとり残らず、ただ人のために、公のために、子々孫々のために、祖国のために、それだけが目的で掘ったんですね。

そしてこの掘った人たちを、私たちは戦後ずっと日本兵というひと固まりで呼んできました。ほんとうは大半が普通の庶民なんです。・・・

ここにいらっしゃる、間違いなくこの部屋にいらっしゃる、この英霊の方々が本当に聞きたいのは戦争は悲惨でしたという話だけではなくて、今、自分たちが助けた女性と子供を手がかりにして甦っていった日本民族が、祖国をどんなよい国にしているのか、その話を聞きたいんだ。

その英霊の方々にぼくたちは、日本はこんな国になりましたと言えるんですか。

経済は繁栄したけれども、いまだ国軍すらないから隣国に国民を拉致されて、されたまま救えず、
憲法はアメリカが原案を英語でつくったまま、そして子が親をあやめ、親が子をあやめ、さらにいじめられた子が自殺する。

 そういう国に成り果ててしまいましたと、この英霊に言えるのか。 ぼくたちの一番の責任はそこでしょう。[1,p204]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■8.「祖国を蘇らせる手がかり」

地下壕を出ると、若い海上自衛官が、青山さんの目をまっすぐに見て、話しかけてきた。

__________
青山さん、私たち昼ご飯を食べていると、帝国海軍の方が横で昼飯を食べているんです。今まではただの幽霊だと思っていました。しかし本当は、おい、おまえたち、祖国はどんなよい国になった、今、話してくれ、祖国はいい国になったんだろうなと、それを聞いていらっしゃるんですね。

初めて今日、わかりましたよ。[1,p206]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

この硫黄島の話をインターネットの動画で視聴した
琉球大学の学生から、青山さんはEメールを貰った。彼は「思春期のころから、夢のない無気力人間」だったが、硫黄島の話に触れて、こう考えるようになったという。

__________
自分の欲求、私利私欲だけを追求し続けて死にたくない。人のために生きたい。人のため、社会のため、公のために、生きたい。人のためになら、たった一度の人生を頑張れる、克己(こっき)できる。そう思いました。[1,p18]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

祖国とは、自分が大切に思う家族、郷里、さらに自分の血肉となっている言語、歴史、文化である。したがって祖国とは自分の心のうちにある。

戦後教育は、その祖国を意識的にわれわれの心の中から忘れさせようとしてきた。しかし、忘れたものは、思い出せばよい。青山さんは、思った。

__________
あぁ、硫黄島は、ぼくらの生きるヒントだ。
生きる手がかり、生き直す手がかり、祖国を蘇らせる手がかりだ。[1,p207]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(191) 
栗林忠道中将〜精根を込め戦ひし人
「せめてお前達だけでも末長く幸福に暮らさせたい」と、中将は36日間の死闘を戦い抜いた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog191.html

b. JOG(.795) ココダの約束 〜 戦友の骨を拾う約束を25年かけて果たした男
「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな」
http://blog.jog-net.jp/201304/article_4.html

c. JOG(661) アルピニスト野口健が聞いた声
洞窟の中の夥しい戦没者の遺骨が、野口さんに語りかけた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h22/jog661.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.青山繁晴『ぼくらの祖国』★★★★、扶桑社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594061834/japanontheg01-22/

2. 青山繁晴 硫黄島の戦いで何があったのか 6〜8/8
https://www.youtube.com/watch?v=F7ul54hmy6U

   ■編集長・伊勢雅臣より



http://d.hatena.ne.jp/images/d_entry.gif



   【転載】ここまで




[京都二十四節気] 小暑





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明日は7月7日、小暑(しょうしょ)です。
「暑中お見舞い申し上げます」

拙ブログにご訪問いただきありがとうごいざいます。
日々美し国に生(せい)をうけたことを先人・先祖に感謝いたしております。
美し国、四季のある国、日本。
桜が咲いてそして散り、梅雨には雨が降り、夏には穀物が成長し、秋には紅葉が散ること、そして冬には雪が降ること。
春夏秋冬、季節折々の表情を見せてくれます。
しかし、時には大自然が牙を剥き災害になります。それでも我々の祖先は災害を恨むことなく神の怒りだと身を律し、自然を崇拝し、ともに生きてきました。

我々日本人は、往古の昔より、その美しい自然の変化を、明治まで、二十四の季節に分けて愛でてきました。

私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵があり、現代の日本人にない潤いのある生活を営んでいたように思います。
それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり長らく愛したのです。

古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものを­みつけだすことと似ています。そしてその不変のものを大事にしなければなりません。時代が変わろうとも日本人の本質は変わってはならないものです。

ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと­、それとともにある大切な文化をつたえていきたいものです。

その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたもの、それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。

新暦の7月7日〜21日頃、梅雨明けが近づき、暑さが本格的になる頃を小暑(しょうしょ)といいます。
鱧(はも)は「梅雨の水を飲んで旨くなる」といわれ、梅雨明け頃に旬を迎えます。
京都では、祇園祭の時期と重なり、祭り料理とされました。祇園祭は別名「鱧まつり」と­呼ばれます。輸送技術が発達していなかった昔、海から遠い京の都へ新鮮な魚を運ぶのは­至難の技でした。生命力が強い鱧は、水揚げしてからも長時間生存するため、生きたまま­持ち込める魚として珍重されたといいます。
鱧は硬い小骨が多く、包丁で細かく切り目を入れる「骨切り」をしなければ食べることが­できません。京の板前たちは技を磨き、厄介な鱧を秀逸な食材に仕立て上げました。

京都の夏を彩る祇園祭りは、平安時代、疫病(えきびょう)退散のために御所(ごしょ)内で祇園御霊会(ごりょうえ)が行われたのが最初で、疫病・災害の原因を怨霊と考え、それを鎮めるために牛頭天王(ごずてんのう)をおまつりしました。
牛頭天王は、インドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神といわれ、疫病封じのご利益があることから、仏教伝来と共に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一視されるようになりました。八坂神社を天王さまと呼ぶところも多いようですが、それはこの名残です。
全国各地の八坂神社も、その地域で疫病が流行(はや)り、それを鎮めるためにおまつりされた例が多いようです。夏に行われる天王祭では、地域によってキュウリをお供えする風習も見られます。
この神さまがなぜキュウリが好物かと言えば、こんな話が伝えられています。その昔、牛頭天王が悪い神さまから逃れるために、キュウリ畑の中に身を隠し難を逃れました。悪い神さまはキュウリのトゲが嫌いだったのでしょう。
それともう一つ、この八坂神社のご神紋は、ちょうどキュウリを切った切り口に似ているからという説もあります。右側の紋がきゅうりの切口に似ているため京都の年配の方は祇園祭の期間(7月中)はキュウリを食しません。飲食店でも出ないとのことです。



八坂神社 御神紋




平安京建都以前より八坂神社のある東山一帯はひらけた場所で、渡来人であった八坂造(やさかのみやつこ)一族が住したところであった。「八坂の塔」で有名な法観寺も平安京以前の創建で、八坂造の氏寺ではなかったかともいわれている。
 
八坂神社一帯には広大な寺域を持ち、「定額寺」という高い格式を誇った観慶寺があり、別名を祇園寺といいました。
その寺域内にあった「天神堂」が八坂神社の前身で、観慶寺はどういう理由かわからないが衰退し、天神堂が多くの崇敬を集めるようになり発展し、祇園社(八坂神社)となりました。
慶応4年(9月8日に1月1日に遡って明治元年に改元)の神仏混交禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改め今日に至っています。





祇園祭


豪壮かつ華麗な祇園祭は、千百年の伝統を有する八坂神社の祭礼です。
古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を 祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。
祇園祭は、7月1日の「吉符入」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越 祭」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。 



蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)


八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔鳴尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。
その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。
また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越 祭」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与されます。
このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。
 


※参考文献 八坂神社HP




神を崇(あが)め、神に祈り、和(なごみ)を尊しとする、わが国は「美(うま)し国」です。
本ブログにお越しいただいている皆様、暑さが厳しくなります。
熱中症等に気をつけられご自愛なされてくださいませ。


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)

転載元転載元: 美し国(うましくに)

東九州戦争遺産慰霊の旅
日向市内の戦争遺産
塩見川から南側 小倉ヶ浜公園辺りまで
日豊本線東側の広大な土地に有った富高海軍航空隊基地
日向市内中心部に散在する戦争遺産を見学した

長江交差点西側にあった掩体壕の残骸
案内板写真のように立派な掩体壕があったようだ
道路拡張のために壊されたらしい…
イメージ 1
破壊するのは易し
再現するのは不可能
あ〜残念至極!
イメージ 2
長江交差点から東、塩見川にかかる大瀛橋(たいえいばし)横にあるしらさぎ公園に
展示されている富士重工業KM-2のプロペラ。
海上自衛隊提供
イメージ 3
ガラスに写った己を見て…あ〜足、短っ。。。。。
イメージ 4

イメージ 5
小倉ヶ浜有料道路料金所脇にあった
【富高海軍航空隊基地跡】の看板
看板以外何もなかった…
イメージ 6
人間様が便利に楽になるために
破壊される先人の足跡

どこまで便利・楽を追及するのだろうと思った、日向市内の戦争遺産でした。


転載元転載元: 反戦愛国民族派【朝倉民族懇話会】


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