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職場で仕事中ふと思い出し、ネットで試合結果を調べた。 |
沖縄
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かねてから計画していた帰郷 いろいろ悩んだが。。。。。 この時期、高いんだよねー。 (ANAのバースデー割が無くなって痛いっす。大人往復26000円が60,000円に!) しかも追い討ちかけるように保険会社の業務停止などあり、かなり微妙でした。。。 一年4ヶ月ぶりの実家だ。 夏は久々だなー。 沖縄の海を忘れちまったよ〜。 でもって、もう「るるぶ」買ってもうた!(気が早えー) それまでやる事、多いけど、すっきり行けるようにがんばろー! 数日留守してもいいように仕事片付けるのもいい。 溜まってる雑用が、片付いて、ちょっとした「仕事の棚卸し」ってとこだね。 あと、こういうときに限って熱だすからな〜(去年も下の子が39度
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今日は慰霊の日だった。(正確には昨日) 運よく事務所に居たため、正午の黙祷はテレビと一緒にできた。 今日は、沖縄では小中高の学校は確か休みなはず。 終戦記念日の8月15日でも休日じゃないのに、それだけ重みのある日なんだよね。 前日の授業では、必ず1時間が戦争についてにあてられる。(今もかな? 「今年は戦争が終わって33年です」 というのが、はっきり覚えている一番古い戦争についての授業の記憶だ。 だから、ん〜、1978年だから4年生か。。。 もっと、低学年から受けて気はするけどね。 その中で、教えられるのは実体験のある先生のヤンバルへの逃げる途中の悲惨な話し、集団自決、日本兵からの虐待。。。。 戦争だから、米軍にやられるのは、ある意味仕方ないかもしれない。 数は少ないかもしれないが、味方にスパイ呼ばわりされて、殺された人がいるという事実は、強烈に頭に残る。(昔は方言も強いから何言ってるか、分からなかっただけで。。。。 その部分が誇張された、そういう話しを毎年、聞かされて育てば、どうなるか。。。 自分達のほうから、内地に対して壁をつくることになりはしないか。。。 夜の「筑紫哲也のニュース23」を見た。 毎年、沖縄から生中継をやっている。 最後に歌手のCOCCOが出た。 私はテレビでしゃべっている彼女を見るのは初めてだ。 「筑紫哲也、わじわじ〜してた」と、はっきり言ってた。 正直なところあそこまではっきり口にはしないが、同じ気持ちはあった。 「わかったつもりか!」みたいな反発心のような気がした。 でも、単に沖縄の人の反発心を煽るだけでなく、毎年(ことあるごとに)とりあげて、日本人全体の意識を寄せる行動であるように思え、悪い事ではないと、最近はある程度、素直に見れるようになった。 そのあたりは、COCCOさんと同じだなと感じた。 しかし、ウチナー口ばりばりだったな〜。 こっちが、恥ずかしい位。 なんか、面白い人だ。というか、変わった人かも。 でも昔の彼女の曲、特に聴いてなかったけど、興味が出てきた。 ※ウチナー口ミニ知識 わじわじーする ⇒ ムカつく、むかむかする だーるねー ⇒ であるねー (そうだねー) PS おばちゃんラッパーズはすごいね! パワーを感じたよ! 「シカマチ、カンパチ、栄町」てかっ!(懐かしいぜ! ウチナンチュ、コバでした! |
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沖縄にいた中高生のころよく聴いていたラジオ深夜番組があった。 当時、沖縄の若者はみんな聴いていた。(ローカルですみません) そのDJをやっていたのが 独特のうちなーやまとぐち(標準語と沖縄方言のちゃんぷるー)で一世を風靡した。 実際、普段自分たちが良く使う、言葉がラジオからでて来るから、とても親近感があり、また内容も非常にローカルであったが、面白かった。 仙台でいうとテレビ、ラジオで活躍中の「本間ちゃん」的、兄貴的存在。(またまたローカルですみません) 方言織り交ぜ、パートナーの子とのやり取りの面白さなどとても似ている。 たまに帰郷すると、地元紙でその名前を番組欄などで発見し、とても安心感を覚えていた。 私が上京後もラジオに留まらずテレビなどでも活躍してたらしい。 まだ、46歳。まだ、早すぎる!腎不全だったそうだ。(昨日、地元紙のサイトで知りました) 間違いなく自分の青春の1ページに残ってる人だ。 多分、そういう人多いんじゃないかな〜。 あの当時、よく聴いていたラジオ番組(まだAM放送全盛期でした)では、 川島なおみの「オールジャパントップ20」(川島なおみは、実はひそかに好きでした) 超有名なオールナイトニッポン(中島みゆき、とんねるず、ビートたけし、鶴光?・・・) が、あるけど超有名人で、身近ではなかった。 皆さんにもいます? 思い出に残ってるラジオのDJって。
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6月23日は沖縄戦、終結の日、慰霊の日だ。 昭和20年4月に米軍が上陸し、約2ヶ月半だがあんな小さな島で地上戦が繰り広げられた。 沖縄の日本軍司令官・牛島中将が最後、自決した日をもって、事実上t戦いは終わり占領された。 そして、その場所が今の摩文仁の平和記念公園になった。 全犠牲者は20万人に上るという。 今でも毎年、遺骨が県内で発見され、碑に名前が刻まれている。 その中には、日本軍、民間人をはじめ、朝鮮半島から連れてこられた人なども数多くいるという。 そんな沖縄戦が始まってまもなく、「天1号作戦」別名「菊水作戦」によって、あの戦艦大和が沖縄に向かったのだ。片道の燃料のみで、まさに海上特攻隊として。。。。 しかしご存知の通り、大和は九州の沖合いで間もなく米軍の猛攻撃を受け、沈没。。。。 もし、大和が撃沈されず沖縄までたどり着いていたら、どうなっていたか? 沖縄でいったいどんな戦いをしようとしていたのか? 米軍の圧倒的戦力の前に多少の打撃は与えたかもしれないが、焼け石に水であったろう。 たどり着いた、兵士達を待っているのは、悲惨な地上戦だ。 結果的にどっちが良かったのかは、分からないが、無念であったろう。 大和はその名のとおり、日本を象徴するものであったろうし、それが沖縄にたどり着けなかった。 ウチナーに差し出された、日本人の手が切り落とされてしまったように思える。 来週、沖縄は慰霊の日を向かえ、梅雨が明け、本格的夏が訪れる。 以下、世界日報より 沖縄で聞く「軍艦マーチ」 沖縄の人にとって、六月は「沖縄戦」に思いをはせる月である。昭和二十年四月一日、米軍が沖縄本土に上陸。二カ月半余りの攻防の末、同年六月二十三日未明、沖縄防衛・第三十二軍司令官の牛島満中将(のち大将)が糸満の摩文仁の丘の洞窟(どうくつ)に移り、戦況不利にして自決を遂げた。沖縄県では、この日を沖縄戦が終結した日として、同四十九年「慰霊の日」に制定。毎年この日、沖縄戦での約二十万人の犠牲者や戦没者の冥福と世界平和を祈願する「沖縄全戦没者追悼式」が摩文仁の平和祈念公園で行われる。 この沖縄戦を支援するために、本土から出港したのが戦艦大和である。同二十年四月五日に「天1号作戦」が発令され、徳山沖に待機中の戦艦大和は翌六日午後四時、「一億特攻のさきがけ」として片道分の燃料だけを積んで出撃した。 四月七日早朝、大和を察知した米軍は、新鋭空母十二隻、艦載機およそ八百機の空母部隊に迎撃命令を出す。当時、大和の護衛機はなかった。同日午後十二時すぎから米軍は大和攻撃を開始。魚雷が大和の左舷ばかりを狙った。数発の魚雷が命中した。 午後二時二十二分、ついに大和は、大爆発を起こして沈没した。犠牲となった乗組員は三千人以上。日本海軍の栄光の象徴だった戦艦大和は、今もなお九州沖合の海底に沈んだままだ。 今月三日、沖縄駐屯の海上自衛隊第五航空群創立三十四周年記念行事として「音楽の夕べ」が那覇市内で行われた。第五航空群エイサー部によるエイサーに始まり、沖縄の女性ユニット「御花米」(みはなぐみ)の沖縄音楽、海上自衛隊八戸基地女性隊員による「八戸華炎太鼓」の華麗なバチさばき、海上自衛隊呉音楽隊の見事なジャズ音楽で締めくくった。会場からアンコールの拍手。最後に「軍艦行進曲(マーチ)」が鳴り響いた。会場から手拍子が起き、会場いっぱいに広がった。 沖縄を目指しながらも、無念にも九州沖合で散っていった戦艦大和の乗組員たちは、沖縄を守りたかったに違いない。沖縄での「軍艦マーチ」を英霊たちにささげたい。 「男たちの大和」みたいなぁ〜。 おっと、昔作った、1/200の模型(全長120センチ)思い出してしまった。 以上、昔プラ吉小僧のコバでした |



