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まなびやの学生たち――― 標題 「教壇から学んだこと」
若い頃の私は、長く教壇に立ち続ければ、それなりに経験を積んで、恥ずかしくない授業ができるようになると思い込んでいた。実際に授業を担当するようになった当座は、毎回の準備に苦労を強いられたが、それも数年すれば解消すると楽観していた。しかし、やがて、こうした期待が錯覚ではないかと考えるようになってきた。
大教室での講義では、学生数が数百人に上り、教員と学生との間にも相当の距離がある。このために、学生の反応も間接的で、教壇からは自分と学生との関係がわかりにくい。何度か自主的に行った授業評価アンケートでは、学生の最大の要望は、いつでも、わかりやすい授業であった。
そこで、授業では、ともかくわかりやすく説明することに専念した。しかし、どんなにわかりやすい授業でも、学生にとって90分もの間集中力を維持して聞き続けるのは容易ではないであろうと察せられた。
そこで私は、学生たちの集中力を維持するために、授業の途中でなるべく学生に質問し、意見を求めることに努めた。毎回配布するプリントにはあらかじめ数個の設問を用意しておいたが、それ以外にも、授業の進行に合わせて適宜問題を投げかけるように心がけた。
しかし近年、こうしたやり方に次第に疑問を感じるようになってきた。
私の授業に対する学生たちの関心は、教壇からはわかりにくいが、期末試験の答案を注意して読んでみるとだいたいわかってくる。もちろん答案に出来不出来はあるが、概して言えば、学生たちは私が説明したこと以上の事柄には、ほとんど疑問も感心も示していない。私は授業のなかで、社会科学の諸分野では、どんな問題にも異説があること、私の勉強や理解力には限界があり、説明には思わざる誤りがある可能性があること、したがって、講義は批判的に聞き、少しでも腑に落ちなければ質問するか、自分で調べてみること、また、期末試験では私の説明どおりに解答する必要はないこと、独自に考えた解答でも筋が通っていれば良い評価を与えることなどを、繰り返し説明したつもりである。
しかし、採点してみて、自分で独自に勉強し、考えたと思われる答案に出会うことはほとんど皆無である。
また、授業では教科書は使用せず、毎回プリントを配布しているが、適宜参考書を挙げて自習を促してきた。
しかし、授業中に薦めた参考書を実際に買って読んだ形跡のある答案を見つけるのは稀である。
私はかねてから、自分の講義の教育効果を評価する第一の基準は、履修した学生が講義から何を学んだかよりも、講義で取り上げた諸問題に、以前よりも積極的な興味・関心をもつようになったか否かという点にあると考えてきた。このような基準に照らして見ると、よく準備をして分かりやすい講義をするだけでは、自分が求める教育効果を挙げることは難しいと認めざるを得なかった。
しかし、改めて考えてみると、これは当たり前のことでもあった。もともと、中学・高校で厳しい受験勉強を強いられてきた学生たちが、大学でも最小の努力で期末試験に合格し、卒業に必要な単位を取得することを優先しても不思議ではない。授業に熱心でよい成績をとる学生も、多くは、心底授業内容に関心をそそられてのことではなく、良い成績が将来の就職活動を有利にすると信じているためであるように思われる。
かれらは、教壇からの教員の説明が期末試験の唯一の正解であると信じ、それ以外の議論には関心を持とうとしない。多くの学生にとって、授業への出席は単位をとるためのコストであり、それ以上ではない。
近年では、新学期開始早々の授業時間に、期末試験の出題や評価基準についてたずねる学生が珍しくないが、これなども学生の最大の関心がどこにあるかを示している。念のためにいえば、私は成績にしか感心が無く、試験では先生の説明をなぞることしかできない学生を、ダメな学生だと言いたいのではない。長期間の受験勉強で、さまざまな受験マニュアルに習熟した学生の多くがこのような思考傾向を示したとしても、それは学生だけの責任とは言えない。
私が心配しているのは、大学が、4 年間の教育を通じて、学生たちに染み付いたこのような思考法に疑問を提起し、期末試験と就職以外の知的・社会的課題に関心を向けさせることができているかどうかである。と言うのは、私の考えでは、人間は、自分の生活と自分を取り巻く人間関係をふくむさまざまな環境の中に自ら考えるべき課題を見出し、それを引き受けて、その解決や克服のために知的な努力を続けるというプロセスなしに、成長することは困難だと思われるからである。
このプロセスにおいて学生が引き受ける課題と努力の中身は、もちろん一人一人異なっているだろう。ここでの課題は、必ずしも高邁な社会的使命や偉業である必要はないし、努力は単に本を読んで知識・教養を蓄えることに限られるものでもない。
しかし、その内容がどのようなものであれ、一人一人の学生が、4 年間の学生生活を通じて、自らにふさわしい課題を見出し、その達成をめざす志をいだき、卒業後には、矜持をもって努力を重ねるということを抜きには、人間的成長は望めないであろう。
30 年余りの経験を振り返って見ると、私のゼミで 2 年間を過ごし、その間に目に見えて成長した学生には共通性がある。
かれらは、ゼミの開始時に、自ら望んでゼミ長とよばれる世話役あるいはゼミ長をサポートする役割を引き受けてくれた。当然の成り行きとして、かれらは、ゼミの2 年間を通じ、ゼミ員にさまざまな提案をし、その実行の段取りを考え、先頭にたっていろいろな活動に取り組んだ。
人間関係を築くのが不得手な中間達を相手に、時にはカラ回りをしながら、自分で引き受けた役割りをなんとか果たしているうちに、かれらは何時しかゼミのなかで一頭ぬきんでた人間に成長してゆくのである。
このような学生の多くは、就職活動でも自分の希望する企業から早々と内定をもらっている。かれらが、私のゼミに参加したのは、いわば偶然である。かれらの多くは、他のゼミを落とされ、2次募集、3次募集でようやく私のゼミに入ってきた学生であった。しかし、かれらがすすんでゼミ長を引受け、2 年間苦労をしたのは自分の意志であり、選択である。
一人の若者が成長する過程には、人や書物との出会い、特別な経験や出来事との遭遇など、数多くの偶然が作用する。しかし、もちろん人生は単なる偶然の積み重ねではない。たまたま出会った人や書物、遭遇した出来事から自分の心に響く何かを見出し、それを自らの持続的な努力に結びつけるのは、偶然ではなく、本人の価値観と能力である。
私は、大学教育の第一の使命は、専門分野の違いを超えて、一人でも多くの学生がこのようの意味での価値観や能力を培って卒業できるように支援することではないかと考えている。
これは私が教壇から学んだ結論である。
香川県出身。大阪市立大学経済学研究科終了。趣味は、山歩き、やきもの鑑賞など。
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