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 終戦時遺棄された毒ガス類は、イペリット缶、ルイサイト缶6トンと青酸若干が習志野学校材料廠に埋められ、銚子沖にも若干投棄されたとなっている。元習志野学校関係者(軍人)の証言では、「昭和20.8.17−20の習志野学校材料廠員、教導隊下士官にてサラシ粉約10屯を使用し開放し消毒の後地下に埋設する。終戦後自衛隊に於て容器一部を発見、米軍化学兵部隊に於いて徹底的完全消毒を行い現在練兵場として使用の筈」という。しかし、それは戦後年月を経た後の聞き取りによる証言であり、実際には別の場所にも遺棄された可能性もある。
また、終戦後起きた銚子沖での遺棄毒ガスによる死亡事故、習志野原での自衛隊員の被災などをみても、今後も同種の事故や健康被害が起きる可能性はある。

過去数度おこなわれた環境省などによる地下水の調査などでは、異常は報告されていない。

たとえば最近、防衛庁が発表した平成17年度の調査結果は、以下のとおりである。


--------------------------------------------------------------------------------

「習志野演習場に係る旧軍毒ガス弾等の環境調査について
平成18年 5月30日

 標記について、本日、環境省が主催する有識者による総合調査検討会において、平成17年度に実施した物理探査の結果及び今後の対応について、報告及び説明を致しました。  その内容について、環境省の公表に併せ、お知らせいたします。

習志野演習場に係る旧軍毒ガス弾等の環境調査について
 陸軍習志野学校跡地(現在は民有地等)の近傍に所在する習志野演習場については、旧軍による毒ガス訓練跡地と思われる場所が所在し、毒ガス成分が無害化されずに、ドラム缶に入れられ埋設された可能性が高いとの旧軍関係者による証言等を踏まえ、地下埋設物(ドラム缶相当)の有無を確認するため、平成17年度に物理探査を実施。  今般、その結果が下記のとおり得られたので、今後、不審物確認調査(掘削確認)及び土壌調査を実施する予定。

1 これまでの調査(地下水調査)
(1)

 平成17年6月、演習場内の4ヵ所について地下水等の調査を実施。その結果、全ての地点から毒ガス成分は検出されず。
(2)

 環境省が演習場周辺の飲用井戸20ヵ所について地下水調査を実施。その結果、全ての地点から毒ガス成分は検出されず。

2 物理探査の概要
(1) 探査期間
 平成17年10月21日〜平成18年3月31日
(2) 探査区域
 約173,000屐別鵤隠ha)
(3) 探査方法

 ア レーダー探査

 埋設物の有無を確認するため、調査区域の全域(約17ha)について、1m間隔の直線上を車輪付きのセンサー(箱型)により探査。(浅い深度及び深い深度の2種類で実施。)
 イ 磁気探査

 金属(主に鉄)の有無を確認するため、調査区域の全域(約17ha)について、1m間隔の直線上をセンサー(棒型)により探査。(深度2m程度まで探査が可能。)
(4) 探査結果

 ア レーダーのみに反応した地点は181ヵ所。

 (このうち、磁気探査による検知が可能な深度2mを超え、レーダーに反応した地点12ヵ所は、寒川町事案など過去の発見事例を踏まえれば注意が必要。)

 イ 磁気のみに反応した地点は61ヵ所。

 ウ レーダーと磁気の両者に反応した地点は16ヵ所。

 [レーダー又は磁気のいずれかに反応した地点は258ヵ所。]


(参考: 環境省が平成16年度に実施した陸軍習志野学校跡地(現在は民有地等)における物理探査では、調査区域約7haで約247ヵ所を検知。)

3 今後の対応
(1)

 レーダー又は磁気のいずれかに反応した地点の258ヵ所については、安全を確保しつつ不審物確認調査(掘削確認)を実施する予定。
(2)

 探査区域(約17ha)の全域について、毒ガス成分の有無を確認するため表層50cmまでの土壌を採取・分析する土壌調査を実施する予定。

 以上の調査については、早急に着手することとし、調査時期等が確定次第、関係自治体等へお知らせする予定。」


--------------------------------------------------------------------------------

防衛庁自身も「レーダーに反応した地点12ヵ所は、寒川町事案など過去の発見事例を踏まえれば注意が必要」としているように、遺棄毒ガスが思わぬ場所に埋設されている可能性もあり、関係機関による今後の詳細な調査と積極的な情報開示が必要である。

「ならしのの森」には、動物実験で犠牲になった動物たちの供養塔がある。この碑には揮毫者である習志野学校の校長名が刻まれていたが、建立後何者かによって削られた(その削った跡は、以下の写真画像の拡大部分にも写されている)。また、建物が跡形もなく破壊されているのは前述の通りで、意図的に隠蔽しようとしている勢力がいることは明らかである。

そもそも、習志野学校では「撒毒地強行突破」というような日本軍独特の人名軽視の考え方に基づいた戦術をとって、各地の部隊から選抜された将兵を訓練した。「実毒訓練」という実際に毒ガスを使用した訓練が行われ、その訓練も基本(各個)訓練と練成(部隊)訓練のニ段階があった。基本訓練は習志野原の一隅に訓練場が設けられ、そこで実施された。部隊訓練は王城寺原、赤城山麓などで行われた。そうした訓練では洗い晒しの防護服を着せられる兵の被害が多く、戦後になっても生涯後遺症で悩まされた人も多いという。しかし、そうしたことも余り表面に取り上げられることもなく、戦争体験の風化とともに歴史の蔭の部分になっていった。

いかに隠蔽しようと、事実はいつか明らかになる。このような、過去の過ちを率直に認め、繰り返さないようにしなければならない。

<「ならしのの森」にある動物慰霊塔>

*当画像は「生まれも育ちも東葛飾」のnonki1945さんより借用しました

<動物慰霊塔は揮毫者の名前が削り取られている>

*上記画像(「生まれも育ちも東葛飾」のnonki1945さんより借用)の一部拡大

習志野学校が設置されるまで、習志野学校が建てられた場所にあった陸軍騎兵第16連隊、あるいはのちにその跡地が習志野学校となった第15連隊であるが、騎兵第13、14連隊、すなわち騎兵第1旅団が機関銃、戦車などの装備を強化して昭和7年(1932)、旧満州へ移動、昭和8年(1933)には、騎兵第13連隊の跡に第16連隊が移り、第14連隊の跡に戦車第2連隊が置かれた。騎兵第15、16連隊、すなわち騎兵第2旅団は順次戦車隊へ改編されていったが、昭和16年(1941)には騎兵第2旅団も旧満州に移転し、習志野の騎兵の歴史は幕を閉じた。旧満州に渡った騎兵たちも、自分達がいた部隊の跡地で毒ガス実験などがおこなわれていることを知らずに戦地での生活を送っていたのであろう。

<陸軍習志野学校の場所にかつてあった騎兵第15,16連隊>

参考文献

・『防衛庁・自衛隊のHP』   防衛庁

・『千葉県の戦争遺跡を歩く』 歴史教育者協議会   (2005) 

・『陸軍習志野学校』 陸軍習志野学校編纂委員会   (1987)

なお、動物慰霊塔の写真を快く貸していただいた、「生まれも育ちも東葛飾」のnonki1945さんのご厚意に感謝いたします。

軍郷習志野

戦前の習志野原

「支那囲壁砲台」

補足説明と留意事項

主頁

千葉県の戦争遺跡HP:別窓
http://www.shimousa.net/narashinogakko.html

陸軍習志野学校

陸軍習志野学校 習志野原に残る標記遺跡を紹介します。
http://www.shimousa.net/narashinogakko.html

陸軍習志野学校とは
陸軍習志野学校とは、現在の習志野市大久保から泉町の西はかつての習志野警察署跡、東邦中学、高校、公営住宅から東は千葉大腐食研究所跡(現:ならしのの森)、大久保保育所、公務員宿舎、電源開発社宅や一戸建ての住宅の建ち並ぶ一帯にあった。ここは昭和8年(1933)に習志野学校が設置されるまでは、陸軍騎兵第16連隊があり、その後陸軍騎兵第15連隊があった西側の一角も習志野学校として使用された。陸軍習志野学校は、ジュネーブ議定書が禁じた毒ガス兵器の研究開発と毒ガス戦の研究訓練のために設立の趣意をあいまいにして設立された。
化学兵器の研究といえば、中国東北部における石井部隊、いわゆる七三一部隊が有名であるが、同種の研究機関は、日本内地においても存在した。その一つが、この陸軍習志野学校である。

最近の報道でも、以下のような毒ガス演習計画の文書が発見されたことが伝えられている。

[asahi.com 2006年05月19日10時16分]

 日中戦争期に、旧陸軍が作成した毒ガス戦に関する資料が多数見つかった。旧満州(現中国東北部)チチハルに駐在した関東軍化学部(満州第516部隊)などのもので、毒ガス散布地域での演習計画書、対人毒ガス効果のデータ表など計38点、1126ページに及ぶ。非人道的な毒ガス戦計画の実態解明や、516部隊などが中国東北部で遺棄したとされる化学兵器の被害を把握する上で、有用な資料と見られている。
 松村高夫・慶応大教授(社会史)らでつくる「太平洋戦争史研究会」が05年、古書店から入手した。1940〜43(昭和15〜18)年の作成とみられ、和文タイプと手書きのガリ版刷り。約3分の1は「極秘」「用済後焼却」などの印が押されていた。資料をとじた厚紙などに「満洲第四六一〇部隊長 河西中尉」と書かれていることなどから、故河西豊秋中尉(当時)の所持品だったと見られる。「文書の書式、紙の材質や劣化具合などから本物の資料だ」と松村教授は説明する。
 関東軍化学部の演習計画書「昭和十七年三月 於 王爺廟附近 将校現地研究計画(極秘 用済後焼却)」からは、516部隊の活動の一端が分かる。同計画によると、王爺廟(おうやびょう)や葛根廟(かっこんびょう)(いずれも現内モンゴル自治区)付近で、旧ソ連と思われる敵軍との交戦を想定。敵陣地を突破し、国境線を確保したと仮定した上で、同年3月25〜30日、佐官から下士官・雇い兵まで総勢348人が参加して散毒想定地域の通過、制毒作業など6課題を解決する訓練を計画した。指揮系統を明確にした態勢で臨み、ガス検知器材、貨車なども配備する予定だった。
 ここでは毒ガスに見立てた発煙筒6500発を使うことになっていたが、別の演習計画書「昭和十七年度第一回 実物演習実施計画表」では、致死性の高いイペリット(きい1号)を使用するという記述もある。
 松村教授は「『陸軍習志野学校』『陸軍技術本部第六研究所』などの作成資料も含まれており、これらが一体となって毒ガス戦研究を進め、態勢を固めていく過程を検証できる」と話している。

戦後間もない頃から、銚子沖では旧軍により遺棄されたと思われる毒ガス・イベリット缶を開いたために死亡したり、失明する事案があり、習志野学校跡でも戦後遺棄した関係者の証言や、習志野原で自衛隊員が被災した事例も報告されている。

元関係者の証言として、「終戦時、イペリット缶とルイサイト缶(合わせて約6t)・青酸ボンベ(若干)を保有しており、これらは学校敷地内において晒粉で中和し埋設し(材料廠付近地下)、青酸は大気に放出した。また、これとは別に各種毒物若干を銚子沖に投棄した」との記録がある。

発見・被災等処理情報についても、

「昭和26年6月28日、千葉県習志野演習場でルイサイト入りのドラム缶3本発見により演習中の自衛隊員14名負傷、米軍が除染した」

「昭和35年2月17日から19日にかけて、千葉県習志野市(演習場)で、ルイサイト入りドラム缶1本が発見、空挺部隊で処理された」

「昭和35年3月4日から11日にかけて、千葉県習志野市(演習場)で催涙剤(固体)10kgが発見され、土地の除染と海洋投棄を行った」       

という事例がある。

いずれにせよ、過去に死亡事故まで起きているにも関わらず、毒ガス兵器や化学兵器が軍関係の研究機関で実使用を前提に研究開発され、戦後遺棄された事実は、政府自治体による詳しい調査もされず、多くの場合積極的に報道もされてこなかったため、あまり知られていない。

       <千葉大腐食研究所跡に残る習志野学校の土台>

陸軍習志野学校の跡地を行く
前述したように、陸軍騎兵第16連隊の跡地、のちには騎兵第15連隊の跡地も含め、現在学校や保育所、集合住宅の立ち並ぶ比較的広い地区が、陸軍習志野学校となった。その詳細な建物、設備等の配置図(戦後関係者がGHQに提出したもの、毒ガス関連施設がほとんど記入されていない)が環境省発行の住民説明会などで配布された資料にあったので、以下に示す。

            <陸軍習志野学校の配置図>
 


習志野演習場周辺住民説明会(第1回) 2005年5月17日(火)18:30〜20:00 場所:八千代市立南高津小学校 <環境省・防衛庁> 配布資料より
 環境省HP http://www.env.go.jp/chemi/gas_inform/local/nara_en/01/index.html

 船橋市役所のHPにも資料一式ありhttp://www.city.funabashi.chiba.jp/kankyohozen/dokugasu/enshujyouseyumeikai.pdf


 その場所を新しい住宅地図でしめすと、以下のようになる。なお、かつての施設や建物の一部が残っている部分を赤く色づけし、説明を加えている。


<現在の習志野学校跡地の地図:水色の線で囲った部分が跡地>


陸軍習志野学校の中心施設は、鉄筋コンクリート製の実験講堂であるが、現在は建物は跡形もなく破壊され、公務員宿舎の建設時に八角形の基礎が見つかったのみである。しかし、この八角形の基礎こそ、中国東北部のハルピン郊外において「関東軍防疫給水部」の名前で細菌兵器の研究をしていた七三一部隊の『八面房』という施設の原型といわれる。その『八面房』では、実際に毒ガスの人体実験がされたといい、罪もない中国人達が非人道的な実験の犠牲にされた。毒ガス戦の訓練は、習志野原の松林や富士山麓、赤城山麓の演習場でおこなわれたほか、特に重大な実験・訓練は、中国東北部で行われた。

現在、習志野学校跡は意図的に重要な建物施設が破壊され、また一帯が学校や住宅地になってしまったために、余り残っていないが、以下に紹介しよう。

まず、裏門と衛兵所が泉町の住宅地のなかにある。裏門の柱は道路脇にあり、境界土居が続いているのが分かる。ただし、衛兵所は、完全に民家敷地内にあり、少し分かり難いかもしれない。

<習志野学校の裏門の柱と衛兵所(柱のかげ)>

<衛兵所が民家の塀の内側にある>

<裏門の東側には境界土居が残る>

さらに裏門の北東側のバス道に近い場所に、「陸軍」と書かれた御影石の境界標石がある。同様な境界標石は、そのバス道沿いの畑の中にも見られる。その境界標石がある場所は、かつて練兵場があった場所である。

<境界標石>


この裏門の近く、西側の住宅地の中に、弾薬庫跡があるが、これはその形のまま、児童公園になっている。実に奇妙な光景であるが、以下の画像のごとく、本当である。


<弾薬庫跡を利用した児童公園>


裏門を南へまっすぐにおりると、バス通りに出るが、その通りと交差するあたりに、かつては表門があった。裏門から表門へ至る道路は、GHQに提出された配置図にものっており、当時からの通路であったことがわかるが、その途中にある大久保保育所の敷地内に、コンクリートでできた車廠の床が残っている。


<保育所の庭に残る車廠の床>

さらに、表門に近づくと、東側に「ならしのの森」があるが、これは千葉大腐食研究所の跡地である。その千葉大腐食研究所は、習志野学校の建屋を利用していた。現在はその近辺にあった重要な実験講堂を含めて、上物については跡形もなく、壊されている。前述したように、「八面房」の前身となった八角形の実験講堂基礎は公務員宿舎建設時に見つかり、この千葉大腐食研究所跡地にも学生舎などの基礎などがある。

その他、兵舎跡があるが、個人のお宅として、現在も利用されているようなので、割愛する。

<森の中にある建物基礎>

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

山内正之(毒ガス島歴史研究所)

習志野学校は日本の毒ガス戦の三大拠点の一つである。大久野島で毒ガスの液を製造し、北九州の曽根で兵器に填実し、毒ガス戦の研究と訓練が習志野で行われた。大久野島の調査・研究を進めるにあたってぜひ訪れてみなければならないところだった。森崎賢司事務局次長と二人で「習志野学校」研究会 川鍋光弘さんの案内で習志野学校跡を見て回った。その時のことを報告させてもらいます。


習志野は大久野島とともに環境省の毒ガス調査の対象となっている地域である。習志野学校は現在の京成電鉄大久保駅下車し北へ歩いて10分くらいの所にあった。現在は東邦大学・日本大学生産工学部・東邦大学付属中高等学校などがある文教地区となっています。近くに自衛隊第一空挺団の駐屯地もあり、北九州の曽根製作所のあった所には北九州大学と陸上自衛隊小倉駐屯地があるのとなぜか環境が似ています。これは、大久野島が国民休暇村となり、環境省の管理下にあり、戦争中、秘密の兵器の研究開発をおこなっていた登戸研究所の跡地が明治大学農学部の生田校舎になっていることと無関係ではないように思われます。いずれも秘密を必要とし。証拠隠滅をはかった施設のあった場所であるなら、その秘密を守るため、個人へは売却せず、公の機関や公共性のあるものへ売却、転換し、そのイメージチェンジをはかったのかもしれない。まして、現在でも大久野島・曽根・習志野の周辺には毒ガスが埋設されている、または埋設・投棄されている可能性が強い。戦後60年経った、現在でも環境省が曽根の近くの苅田港で遺棄毒ガスを回収し処理していることからも解る。




習志野学校正門跡 (写真上)

写真のブロック積みの門は、習志野学校の正門のあった場所である。敗戦後、昭和50年代まで千葉大学医学部腐敗研究所が使用していた。現在は閉鎖されており中に入れない。



習志野の森

森の中にあるコンクリートの塊は習志野学校本館の門柱跡である。当時の建物のコンクリ基礎も残っている。現在敷地の約三分の一が地域住民の運動で残されて「習志野の森」と呼ばれている。雑木林の茂る中には動物慰霊碑や古い建物の土台跡がたくさん残っている。


動物慰霊之塔

裏面に「皇紀二千六百年」と書かれている

削られた名前

動物慰霊之塔と書かれた横に個人の名前が刻んであったのが削り取られている。

習志野学校東外裏門柱 

衛兵所

門柱とすぐそばのブロック塀の中に歩哨が立っていた衛兵所の建物が残っています。近くには民家が密集しています

人の住んでいない元財務局公舎

あちこちに空き地があり、立ち入り禁止のフェンスがありました。中の建物は財務局の公舎だったようですが今は人が住んでいませんでした。

立ち入り禁止の空き地
まだどこかに毒ガスが埋もれていることが疑われる雰囲気を感じました。

市立大久保保育所裏の駐車場       

市立大久保保育所裏の駐車場、中央の線は当時「車輌廠」だったレールの跡。敗戦時、このあたりにも毒ガスを埋めたという証言もある。


児童公園内の広場

児童公園の遊具

近くに児童公園がある。その中にある東屋が子どもの遊び場になっている。

埋もれた弾薬庫入り口

東屋付近に半分埋もれた弾薬庫が埋まっている。入り口がコンクリートで蓋がされていた。このあたりにも毒ガスを埋めたという証言がある。

陸軍の境界を示す石柱

住宅地に「陸軍」と記した石柱がある。ここまでが習志野学校であるという境界石だ。

習志野学校を取り巻いていた杭

学校を取り囲んでいた杭も残っている。同じように毒ガス関連施設の遺跡だが大久野島と違うところは周りが住宅街であり、文教地区になっている点だ。

元騎馬連隊説明文
習志野学校は元騎馬連隊のあった所に建てられた。旅団司令部跡には教育委員会が立派な説明版を建てていた。しかし、習志野学校に関する説明版は見られなかった。

騎馬連隊時代の写真 (写真:中)
15連隊・16連隊のところが習志野学校になった。

八面房があった場所
毒ガスの実験が行われたと思われる八角のガラス張りの部屋、八面房があった。大久野島にもガラス張りの毒ガスチャンバーがあり、兎などの動物実験がおこなわれた。ここ習志野でも動物慰霊の塔があるのだから相当の数の動物が毒ガス実験で殺害されたことだろう。習志野学校では実際に日本人将校を使った人体実験も行われ犠牲者も出ている。また中国のハルピンでは731部隊が外国人を生体実験している。大久野島も習志野学校も731部隊とは密接な関係があり、悪魔の毒ガス部隊が形成されていた


八面房の図 (写真:下)

陸上自衛隊習志野演習場入り口
陸上自衛隊習志野演習場は、かって習志野学校の将校たちが毒ガスの散毒訓練を行っていた場所だ。敗戦時ここにもドラム缶に入った毒ガス缶が埋設されたとされており、自衛隊員も何人か被災していると思われます。環境省は毒ガスの被害が出る可能性のある場所として2005年9月習志野演習場の土壌調査を行うと発表しました。しかし物理探査は行わないようです。大久野島と一緒で毒ガスが出てくる可能性の所は調査をさけているように疑いたくなります。毒ガス缶や毒ガス弾の所在を調査する物理探査を行わないと意味がありません。

陸上自衛隊第一空挺団入り口
2005年7月28日 29日
案内者  川鍋光弘(「習志野学校」研究会)
その2へ

http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou11/kaihou1171.html

近年、帝国陸軍の毒ガスが問題となり、習志野学校跡地にも関心が集まっている。国の調査によれば、習志野学校材料厰地下には、イペリット・ルイサイト・青酸などの化学物質を埋設したという証言があり、2004年(平成16年)〜2005年(平成17年)に国による調査が行われた。その結果、ガス成分・不審物などは発見されなかったが、近隣の自衛隊習志野駐屯地内の調査が引き続き行われている。




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陸軍習志野学校(りくぐんならしのがっこう)は、1933年(昭和8年)から1945年(昭和20年)まで、現千葉県習志野市泉町にあった帝国陸軍の化学兵器に関する教育を行った軍学校の一つである。

目次 [非表示]
1 設立
2 組織
3 施設
4 終焉
5 歴代校長
6 平林巌と習志野原の開拓
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク

設立 [編集]
第一次世界大戦では、数々の新兵器が使用され、その非人間性について非難し軍縮を求める声が広がった。その一方で、列強各国はこの新兵器を開発又は防禦する研究を奨励し、次々に新兵器の開発を進めた。これら新兵器の中には生物兵器・化学兵器も含まれていた。

陸軍省は1932年(昭和7年)12月兵備改善案を発表し、この中で毒ガス防護教育の充実をうたった。翌年、化学戦学校が千葉県の習志野に設置されることが新聞で報じられ、まもなく化学戦学校は「陸軍習志野学校」と正式に命名され、8月1日に開校することとなった。学校名が地名なのは、その教授内容の秘匿のためともいわれる。

学校設置の目的は「陸軍習志野学校令」によると、「軍事ニ関スル化学ノ教育並調査研究等ヲ行フ所」とあり、毒ガスの知識を普及し、その使用法や防禦法を調査研究する機関であるとしている。習志野学校は「毒ガス学校」とも呼ばれ、毒ガス兵器の開発や実戦を行う機関と思われているが、実際は主に毒ガスの防禦法を訓練する学校であり、動物実験は行われていたようだが生体実験が行われたことはないといわれている。

組織 [編集]
学校創立当時は本部・教育部・研究部・練習部からなる簡素な組織であったが、1935年(昭和10年)に材料厰が設置され、1940年(昭和15年)には練習隊が教導隊に翌年には教導連隊に拡充されている。その後、施設・組織の拡充は終戦まで続いた。設立当初215名だった人員も、1945年(昭和20年)には1357名になった。

習志野学校の研究・教育内容も創立時は基礎的なものが中心であったが、日中戦争(支那事変)、太平洋戦争(太東亜戦争)の拡大と共により実戦的なものに変わっていった。それに伴い防禦中心であった教育内容も毒ガス戦の実施訓練が中心となり、訓練中・輸送中の事故も相次ぐようになっていった。

施設 [編集]
習志野学校は騎兵第16連隊の移転後の施設を利用した。その後実験講堂や化学兵器格納庫、ガス訓練室などがつくられていった。1935年(昭和10年)には北・東一帯に敷地が拡張され、後には隣接する騎兵第15連隊後地も習志野学校の敷地となった。この広大な敷地に兵舎や倉庫が建ち並んでいた。

戦後これらの施設は警察署、学校、住宅、保育園などに転用されたが、特に中心施設があった騎兵第16連隊の後地には千葉大学の分院・附属の腐敗研究所などが置かれた。1977年(昭和52年)腐敗研究所が千葉市内に移転した跡は樹木が生い茂る空き地となり、財務省の所管となっている。

近年、帝国陸軍の毒ガスが問題となり、習志野学校跡地にも関心が集まっている。国の調査によれば、習志野学校材料厰地下には、イペリット・ルイサイト・青酸などの化学物質を埋設したという証言があり、2004年(平成16年)〜2005年(平成17年)に国による調査が行われた。その結果、ガス成分・不審物などは発見されなかったが、近隣の自衛隊習志野駐屯地内の調査が引き続き行われている。

終焉 [編集]
1945年(昭和20年)年、終戦を迎えたとき学校施設は空襲も受けず、ほとんど無傷のままだったが、降伏と同時に校内では文書や設備の破壊・焼却が行われた。米軍が学校施設に入った日付は判明していないが、兵器・資材・施設の引き渡しは整然と行われた。この直後に学校幹部は米軍から学校史の作成を命じられ、翌年残った資料とともに米軍に接収された。後に習志野学校関係者の手で『陸軍習志野学校』が編纂されたが、これは関係者の記憶を基に編纂されたものである。

なお、当時の関係者の証言によると、学校に残っていた毒ガス兵器については、太平洋への海洋投棄と米軍の接収によってほとんどが処分されたということである。ただ、一部を学校周辺で処分したという話もある。また、当時、日本が研究していた生物兵器や化学兵器等の研究成果は米軍に引き継がれ、朝鮮戦争などで、活用された。

戦後、銚子沖で漁網にかかった毒ガス兵器により漁民が被害を受けるという事件が発生したが、この毒ガス兵器が習志野学校が海洋投棄したものではないかといわれている。

歴代校長 [編集]
中島今朝吾 少将:1933年8月1日 -
谷口元治郎 少将:1936年3月23日 -
鈴木重康 中将:1937年12月1日 -
西原貫治 少将:1938年12月10日 -
青木重誠 少将:1941年3月1日 - 11月13日
白銀義方 少将:1941年12月1日 -
小池龍二 少将:1944年2月7日 -
山崎武四 大佐:1945年2月20日 -
1945年8月27日閉校

平林巌と習志野原の開拓 [編集]
平林巌は、盛岡高等農林学校(現岩手大学)を出て、終戦時に予備仕官として習志野学校にいた。平林の兄は八ヶ岳山麓を開墾し野辺山農場を経営しており、このことが平林を習志野開拓に駆りたてたと言われている。

終戦直後の昭和20(1945)年 8月17日、横山教導連隊長から習志野学校の職員・生徒に対して、習志野原を開拓し新農村を建設し新生日本の復興に寄与するようにとの話があり、この話に感銘を受けた平林巌は、21日単身新宿三越にあった農地開発営団に乗り込み、習志野原開拓に関する全権を得ることに成功する。

9月11日には鍬入式が行われ、ここに習志野原開拓の歴史の幕が開いた。全国から入植者を募った結果、軍関係者や外地からの引揚者が多く応募した。当初、開拓団の中心は平林巌を中心とした習志野学校関係者で、集団農場方式の開拓を目指したが、やがて米軍による開拓地の接収や農地開発営団の解散などもあり、習志野学校関係者の影響力は失われ、農地は分割して個人所有となった。

開拓団は後に帰農組合となり、これが後に分裂し南北の習志野開拓農業組合となり、1970年(昭和45年)に南の組合が、1972年(昭和47年)には北の組合がそれぞれ解散し、ここに習志野開拓は歴史の幕を閉じた。

参考文献 [編集]
『陸軍習志野学校』(1987年) 陸軍習志野学校史編纂委員会 編
『習志野開拓史』(1954年) 平林巌 著
『習志野市史 第1巻 通史編』(1995年) 習志野市教育委員会 編
関連項目 [編集]
731部隊
陸軍軍医学校
館山海軍砲術学校
千葉県の軍事拠点・軍事史跡
外部リンク [編集]
千葉県の戦争遺跡/陸軍習志野学校

http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou11/kaihou1172.html

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 「史上最大規模の細菌兵器工場」とされる旧日本軍「731部隊」。本部があった中国ハルビン市で、当時を伝える遺構の保存活動が今年、本格化する。活動するメンバーらは、医学や科学が悪用された「負の遺産」として、アウシュビッツ強制収容所(ポーランド)や原爆ドーム(広島)と並ぶ「世界遺産」への登録を目指している。【山田大輔】

 活動を率いるハルビン市社会科学院の金成民731研究所長(当会ブログ記事参照 http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/17965011.html )がこのほど来日し、今年から6年かけて取り組む保護計画を明らかにした。計画によると、同市郊外の本部棟や衛兵所、細菌を拡散させるためのネズミ飼育室、死体焼却炉、凍傷実験室など7地区計37万7000平方メートル(東京ドーム約8個分)を史跡として整備する。旧日本軍戦犯の供述を刻んだ「証言碑」や、日中交流を進める「平和友好の森」も設ける。

 ■荒廃進み開発も

 部隊は第二次大戦の終戦直前、証拠隠滅のため主な施設を破壊。残った施設も戦後、工場や学校として使われたり荒廃が進んだ。81年、作家の森村誠一さんが、部隊の行為を告発したノンフィクション「悪魔の飽食」を出版。それを機に現地で保存の機運が高まり、中央政府は06年、一帯を「重点保護区」に指定した。一方、保護区内にはショッピングセンターやマンションの建設計画が相次ぎ、地中から見つかった毒ガスなどの遺棄兵器による健康被害も問題となった。

 金所長によると、09年から10年にかけて、保存の動きが進展したという。本部棟の一角にあった中学校や民家288戸が移転。1500平方メートルの地下貯水池が見つかり、他の地下施設とともに公開される見通しとなった。だが、解剖室などの重要施設は既に失われ、毒ガス発生室や細菌弾組み立て保管室は工場、市街地にある将校宿舎などは今も店舗や住宅として使われている。史跡として整備するには、今後数年かけてこれらの退去を促すほか、景観を損なうビル6棟の撤去も必要だという。

 ■人類への警告

 金所長は遺構の価値として(1)細菌戦争の発祥の地(2)人類に幸福をもたらす医学と科学がその目的に背いた野蛮な歴史の記録(3)旧日本軍の侵略と証拠隠滅の物証(4)人類に警告を発し、戦争を反省させる最も説得力のある例証−−など6項目を挙げる。「遺構はハルビンにあるが、全世界の所有物。残酷な歴史が人類に残した特殊な資産だ。保存はハルビン市民の責任であり、全世界の平和を愛する人々の問題でもある」と金所長。日本政府への要望として「保存に参加し史跡として利用を進めるなら、世界平和への大きな貢献になる」と述べ、「責任」という言葉を慎重に避けた。

 昨年11月、東京都内で開かれたシンポジウムでは、初来日した犠牲者の遺族、李鳳琴さん(69)が「殺された父は普通の庶民だった。軍国主義が滅び、日本が大きな変化を遂げた今、日本政府にはきちんと謝罪してほしい」と訴えた。

 「悪魔の飽食」を書いた森村さんも「(軍事力を背景に覇権主義を強める)今の中国はかつての日本に似ている。我が国が行った戦争犯罪、人間性の喪失を隣国に繰り返させてはいけない」と、中国で保存活動を進める意義を強調した。

 ■医学界も取り組み

 ヒトラー政権によるユダヤ人迫害が行われたドイツでは88年、ベルリン医師会が医師の責任を認め、行為を謝罪する声明を出した。日本の研究グループ「15年戦争と日本の医学医療研究会」幹事長の刈田(かりた)啓史郎・元東北大教授(生理学)は「日本の医学界はまだ道半ば」と話す。

 しかし、全国の医師らが09年、「戦争と医の倫理の検証を進める会」を設立。今年4月9日、東京都内で開かれる日本医学会総会に合わせ、国際シンポジウムを東京大で開く。刈田さんは「戦後65年以上たってまだ総括ができていないのは残念だが、医学教育の場で731部隊の行為を教える例も出始めており、これからの若い医師に期待している」と話す。

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 ■ことば

 ◇731部隊

 中国東北部(旧満州)を支配した関東軍の細菌戦部隊「防疫給水部」の別称。1933年に前身が活動開始。ハルビン郊外の本部に軍医ら約3000人が勤務したほか、南京などに4支部があった。ペスト菌などの細菌兵器や毒ガスを開発、連行した中国人らに人体実験を行い、犠牲者は3000人以上とされる。感染実験の後に凍傷や銃弾貫通実験を行うなど、死亡するまで「効率的に」次々と実験を重ねるなど残酷で、多くの研究者も参加していた。

毎日新聞2011年1月11日朝刊
http://mainichi.jp/select/science/news/20110111ddm016040002000c.html

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