今 言論・表現の自由があぶない!

弾圧と戦争が手をつないでやってきた! 即時閣議決定すべきは個人通報制度批准!! ピース9 国連経済社会理事会正式協議資格NGO

戦争責任 近現代史 日本・アジア

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全21ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


  《澤藤統一郎の憲法日記から》
 ◆ 徴用工訴訟・韓国大法院判決に真摯で正確な理解を(その2)


 10月30日韓国大法院(最高裁に相当する)の徴用工判決。原告である元徴用工の、被告新日鉄住金に対する「強制動員慰謝料請求」を認容した。
 この判決に対する日本社会の世論が条件反射的に反発しあるいは動揺している事態をたいへん危ういものと思わざるを得ない。政権や右派勢力がことさらに騒ぎ立てるのは異とするに足りないが、日本社会の少なからぬ部分が対韓世論硬化の動きに乗じられていることには警戒を要する。
 まずは、同判決を正確に理解することが必要だと思う。それが、「真摯な理解を」というタイトルの所以である。判決は、けっして奇矯でも、反日世論迎合でもない。法論理として、筋が通っており、条理にかなっていることも理解しなけばならない。


 昨日のブログは、時間の足りないなか急いで書いた。文章が練れていない生硬な読みにくさがあるし、判決の全体像を語ってもいない。あらためて、大法院広報官室の本判決に関する「報道資料」(日本語)にもとづいて、紹介記事の続編を書き足したい。

 同事件において、被告側は「原告の請求権は日韓請求権協定(1965年)の締結によってすべて消滅した」と抗弁した。
 この抗弁の成否、つまり、「日韓請求権協定で原告らの損害賠償請求権が消滅したと見ることができるか否か(上告理由第3)」を判決は核心的争点と位置づけている。

 この核心的争点における原告の抗弁の根拠は、同請求権協定2条第1項「両締約国及びその国民間の請求権に関する問題が…完全かつ最終的に解決されたことになるということを確認する」、及び同条3項「一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対する全ての請求権として同日以前に発生した事由に起因するものに関しては、如何なる主張もできないことにする」との文言が、原告ら元徴用工の被告企業に対する一切の請求権を含むものであって、「解決済み」で、「如何なる主張もできないことになっている」ということにある。

 しかし、この被告の抗弁を大法院は斥けた。
 その理由を、多数意見は「協定交渉の経過に鑑みて、原告の被告会社に対する『強制動員慰謝料請求権』は、協定2条1項の『両締約国の国民間の請求権』には含まれない」とし、だから同条約締結によって原告の請求権は消滅していない、との判断を示した。
 これは、論理としては分かり易いもので、昨日のブログで詳細に紹介したとおりである。
http://article9.jp/wordpress/?p=11369

 この多数意見とは反対に、請求権協定における「両締約国の国民間の請求権」には、本件の「強制動員慰謝料請求権」も含まれる、とする5名の個別意見がある。
 そのうちの2人は、「だから、協定締結の効果として、韓国国内で強制動員による損害賠償請求権を訴として行使することも制限される」「結論として、原判決を破棄して原審に差し戻す」という意見。要するに、原告敗訴の意見。いま、日本政府や産経などが主張しているとおりの判断。
 残る3人の意見は、違ったものである。
 結論から言えば、「強制動員慰謝料請求権」も、「解決済み」ではあるが、解決の済みの意味は、国家間の問題としてだけのことで、国の国に対する権利は放棄されているものの、「個々の個人が持つ請求権は、この放棄の限りにあらず」ということなのだ。
 実は、この見解、日本政府の見解と同じなのだ。多数意見と理由を異にするが、上告棄却で原告徴用工勝訴の結論は同じものとなる。日本政府も反対しようがないのだ。

 「報道資料」は、この3裁判官意見をこう紹介している。
 「原告らの損害賠償請求権は請求権協定の対象に含まれると解するべきである。ただし原告ら個人の請求権自体が請求権協定によって当然消滅すると解することはできず、請求権協定により、その請求権に関する大韓民国の外交的保護権のみが放棄されたに過ぎない。したがって原告らは依然として大韓民国において被告に対して訴によって権利を行使することができる。」
 この3裁判官見解では、「請求権協定の締結によって『外交的保護権』は放棄された」が、「原告ら個人の被告企業に対する『請求権自体』は、請求権協定によって消滅していない」ということになっている。だから、韓国内での裁判による権利行使は可能という結論なのだ。

 『請求権自体』とは異なる、『外交的保護権』という、一般にはなじみの薄い概念がキーワードとなっている。
 『外交的保護権』(あるいは、「外交保護権」)とは、大法院の広報部の「報道資料」の表現によれば、
 「自国民が外国で違法・不当な扱いを受けた場合、その国籍国が外交手続きなどを通じて、外国政府を相手に自国民の保護や救済を求めることができる国際法上の権利」と解説されている。

 法律学小辞典(有斐閣)を引用すれば、
 「自国民が他国によってその身体や財産を侵害され損害を被った場合に、その者の本国が加害国に対して適切な救済を与えるよう要求すること。国家がもつこのような権利を外交保護権という。」

 この裁判官3人の意見は、
 「原告らの個人請求権自体は請求権協定だけでは当然消滅すると見ることができず、ただ請求権協定によってその請求権に関する大韓民国の外交的保護権が放棄されることにより、日本の国内措置により当該請求権が日本国内で消滅しても大韓民国がこれを外交的に保護する手段を失うことになるだけである。」ということ。
 つまり、国家は自国民の特定の権利については、国民に代わって相手国に対して救済を求める国家自身としての権利をもつ。まさしく、徴用工の日本企業に対する請求権はそのようなもので、韓国が日本に対して「自国民である徴用工の権利について適切な救済を与えるよう」要求する国家としての権利をもっていた。この権利が外交保護権。
 しかし、65年請求権協定によってその「国家(韓国)の国家(日本)に対する権利」は消滅したのだ。しかし、「この国家間の協定によって、個人の権利が消滅させられたわけではない」というわけだ。

 「報道資料」には、その理由としてこんな説明が付されている。
 「請求権協定には、外交的保護権の放棄にとどまらず「個人請求権」の消滅について日韓両国政府の意思の合致があったと見るだけの十分かつ明確な根拠がない。」
 「国家と個人が別個の法的主体であるという近代法の原理は、国際法上も受け入れられているが、権利の『放棄』は、その権利者の意思を厳格に解釈しなければならないという法律行為の解釈の一般原則によるとき、個人の権利を国家が代わりに放棄する場合には、これをさらに厳格に解釈すべきである。」
 「請求権協定では『放棄(waive)』という用語が使用されていない。」

 さらに重要なのは、以下の日本側の意思についての指摘である。
 「当時の日本は請求権協定により個人請求権が消滅するのではなく国の外交的保護権のみ放棄されると解する立場であったことが明らかである。」
 「日本は請求権協定直後、日本国内で大韓民国国民の日本国及びその国民に対する権利を消滅させる内容の財産権措置法を制定・施行した。このような措置は、請求権協定だけでは大韓民国国民個人の請求権が消滅していないことを前提とするとき、初めて理解できる。」

 実はこの点は、日本政府がこれまで国会答弁などで公式に繰り返し表明してきたことなのだ。よく引用されるのは、1991年8月27日参院予算委員会における、当時の柳井俊二外務省条約局長答弁
 大事なところだ。正確に引用しておこう。清水澄子委員の質問に対する、政府委員谷野作太郎アジア局長と柳井俊二外務省条約局長の各答弁。
 ○清水澄子 そこで、今おっしゃいましたように、政府間(日韓間)は円滑である、それでは民間の間でも円滑でなければならないと思いますが、これまで請求権は解決済みとされてまいりましたが、今後も民間の請求権は一切認めない方針を貫くおつもりでございますか
 ○政府委員(谷野作太郎君) 先ほど申し上げたことの繰り返しになりますが、政府と政府との間におきましてはこの問題は決着済みという立場でございます。
 ○政府委員(柳井俊二君) ただいまアジア局長から御答弁申し上げたことに尽きると思いますけれども、あえて私の方から若干補足させていただきますと、先生御承知のとおり、いわゆる日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。
 その意味するところでございますが、日韓両国間において存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます。
 極めて明瞭に、日韓請求権協定によって「最終かつ完全に解決し」「消滅した」のは、国家が有する外交保護権であって、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではないことが述べられている。だから、個人が国内法に基づいて訴訟提起することは、当然に可能ということになる。
 1992年2月26日 衆議院外務委員会での柳井俊二外務省条約局長答弁は、さらに踏み込んでいる。質問者は土井たか子。さすがに切り込んだ質問をしている。
 ○柳井政府委員 … …
 しからばその個人のいわゆる請求権というものをどう処理したかということになりますが、この協定におきましてはいわゆる外交保護権を放棄したということでございまして、韓国の方々について申し上げれば、韓国の方々が我が国に対して個人としてそのような請求を提起するということまでは妨げていない。しかし、日韓両国間で外交的にこれを取り上げるということは、外交保護権を放棄しておりますからそれはできない、こういうことでございます。
 ○土井委員 (あなたは、)るるわかりにくい御説明をなさるのが得意なんですが、これは簡単に言えば、請求権放棄というのは、政府自身が持つ請求権を放棄する。政府が国民の持つ請求権のために発動できる外交保護権の行使を放棄する。このことであって、個人の持つ請求権について政府が勝手に処分することはできないということも片や言わなきやいけないでしょう、これは。今ここ(日韓請求権協定)で請求権として放棄しているのは、政府白身か持つ請求権、政府が国民の持つ請求権に取ってかわって外交保護権を発動するというその権利、これでしょう。だから、個々の個人が持つ請求権というのは生きている。個々の個人の持つ請求権というのはこの放棄の限りにあらず、これははっきり認められると思いますが、いかがですか。
 ○柳井政府委員 ただいま土井先生が言われましたこと、基本的に私、正確であると思います。この条約上は、国の請求権、国自身か持っている請求権を放棄した。そして個人については、その国民については国の権利として持っている外交保護権を放棄した。したかって、この条約上は個人の請求権を直接消滅させたものではないということでございます。
 ただ、先ほど若干長く答弁させていただきましたのは、もう緩り返しませんけれども、日韓の条約の場合には、それを受けて、国内法によって、国内法上の根拠のある請求権というものはそれは消滅させたということが若干ほかの条約の場合と違うということでございます。したがいまして、その国内法によって消滅させていない請求権はしからば何かということになりますが、これはその個人が請求を提起する権利と言ってもいいと思いますが、日本の国内裁判所に韓国の関係者の方々が訴えて出るというようなことまでは妨げていないということでございます。
 同様の問題は、ソ連との間でも、中国との間でも起きている。
 1991年3月26日参議院内閣委員会での、シベリア抑留者に対する質疑では、「条約上、国が放棄をしても個々人がソ連政府に対して請求する権利はある、こういうふうに考えられますが、本人または遺族の人が個々に賃金を請求する権利はある、こういうことでいいですか」という質問に対して、高島有終外務大臣官房審議官が、こう述べている。
 私ども繰り返し申し上げております点は、日ソ共同宣言第六項におきます請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということでございます。したがいまして、我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないというふうに考えております。

 国家間で請求権の問題が解決されたとしても、個人の請求権を消滅させることにはならない。このことは、韓国・ソ連・中国との関係において、日本政府自身が繰り返し言明してきたことなのだ。

 徴用工訴訟・韓国大法院判決を法的に批判することは、少なくも日本政府のなし得るところではない
 22万人と言われる強制動員された徴用工。過去の日本がいかに大規模に、苛酷で非人道的な振る舞いを隣国の人々にしたのか。まず、その訴えに真摯に耳を傾けることを行わない限り、公正な解決はあり得ない。
 また、政府も企業も肝に銘じなければならない。戦争も植民地支配も、けっしてペイしないものであることを。ツケは必ず回ってくる。それは、けっして安いものではあり得ないのだ。
(2018年11月2日)

http://article9.jp/wordpress/?p=11376

東京から江戸へ−「明治150年」を考える③

 1868年9月(慶応4年7月)に、江戸が東京に改称された。だから2018年は「東京150年」でもある。今や「トーキョー」は世界に冠たる大都市で、東京都民の中にも違和感を持っている人はほとんどいないだろう。しかし、僕は「伝統を残す」という意味では、もうそろそろ「江戸」に戻してはどうだろうと思っている。まあ現実性はないと思うけど、そういう提起である。

 1868年4月に、新政府軍が江戸城に無血入城した。その後も旧幕臣等の彰義隊が上野に立てこもり、5月15日に総攻撃された。その後、新政府軍は東北地方から北海道へと攻撃を続けてゆく。そのような戦争のさなかに、事実上の「占領軍」が「東京」に改称したわけである。僕が思い出すのは、1975年の北ベトナム軍のベトナム統一によって、「サイゴン」が「ホーチミン」に改称された事例だ。またソ連時代に「サンクトペテルブルク」が「レニングラード」とされた事例だ。

 もともと「東京」という言葉はおかしい。「西京」はどこなのか。「京」というのは「都」のことだから、日本に一つじゃないとおかしい。「京都」が日本の首都、あるいは天皇の居住地という意味だとするなら、明治以後は「江戸」を「京都」と呼ばなければおかしい。京都の方を「西京」または「旧京」に改名しなければおかしい。そうは言っても、京都、つまり「平安京」は何もないところに建設されたから、旧地名がない。もう世界に「KYOTO」で通っているから、それでいいだろう。

 世界的にも地名を元に戻すのは珍しくない。インドでは植民地時代の名前である「カルカッタ」を「コルカタ」へ、「マドラス」を「チェンナイ」に変更した。また「ボンベイ」も「ムンバイ」に変えた。これは現地のマラーティー語の表記だということだ。インドの東にあるミャンマーも以前は「ビルマ」と呼んだ。当時の首都「ラングーン」も「ヤンゴン」と改名された。軍事政権が改名したので批判も多かったが、英語風の表記を変更したということで次第に定着したと言えるだろう。

 ロシアでも、ソ連崩壊後に多くの都市の地名が変更された。「レニングラード」は帝政時代の「サンクトペテルブルク」に戻された。これなどは「聖ピョートル大帝市」をドイツ語で表記しているわけだから、「ペトログラード」で良かったんじゃないかと思ってしまうが。他にも「ゴーリキー」が「ニジニ・ノブゴルド」、「スヴェルドロフスク」が「エカテリンブルク」など、ソ連時代の都市名はおおよそ旧称に戻されている。(全部ではない。)都市名に党の指導者名を付けていた方が変だった。

 こうして見ると、世界的にも伝統的な地名に戻す動きが多い。「占領下の憲法」をあれだけ敵視する現在の政権ならば、やはり薩長官軍の占領下に変更された「江戸」を復権させることに異議はないだろう。(まあ自分が勝った側、変えた側にいる場合は別なのかもしれないが。)かつて大正時代に書かれた作家矢田捜雲の「江戸から東京へ」という何巻もある歴史シリーズがあったが(中公文庫から出ていたけど、未読)、これからは「東京から江戸へ」を目指すべきだと思う。

 ついでに書いておくと、戦前の「宮城」、現在の「皇居」という言葉もおかしい。天皇が居住しているのに間違いはないけど、それでは「首相公邸」みたいなものである。あそこは「江戸城」である。江戸城を徳川氏から取り上げて天皇が住むようになった。それは歴史の流れではあるだろうが、場所の名前としては江戸城と呼ぶべきではないか。
 (江戸城)
 また、単に「東京」を「江戸」に名前を戻すだけでなく、多くの人に不便を与えている「東京都」制度も解体するべきだろう。東京23区はいくつかの「政令指定都市」に分割するのがいいと思う。「江戸中央市」「東江戸市」「北江戸市」「南江戸市」などだけど、世田谷区など一区で人口が政令指定都市の基準を突破している区では、そのまま市に昇格するのもいいかもしれない。「東京都」は「江戸府」にする方が住民には利便性が高い。

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

https://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/d9c1be21abd6a4739b5b3caf165566f6

 ◆ Nスペ『ノモンハン 責任なき戦い』、良かったですが…

 皆さま こんにちは。増田です。これはBCCでお知らせしています。重複・長文、ご容赦を。
 昨日は、いわゆる「終戦記念日」で…正確には「大日本帝国敗戦、公表記念日」、略せば「敗戦記念日」だと思いますが…世間的にはいろいろなイベントがありました。件名番組は、きちんと現地取材したうえで、残っている音声記録を使い、エビデンスのしっかりしたいろいろと考えさせる好番組でした。
 そこで、以下のように感想意見を先ずTwitter投稿しましたら、醍醐聡先生からご意見がありましたので、それに対する私の返信もつけます。現在のように正論を説くものが干される時代には、やっぱり迷いますねぇ…

 *************************
 昨夜のNHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」。良い報道だった。敵も知らず己も知らず、辻正信の立てたノモンハンでの越境対ソ攻撃。当然、大失敗し2万人もの戦死者。その責任は部下に取らせ、自決を強要。


 この朝日新聞の8.15テレビ番組紹介欄(添付、本MLは添付できないので無し)通り…しかし、この紹介者もそうだが軍隊組織図…分かりやすく良かった…の最高位に大元帥天皇を置きながら「天皇の叱責をも軽んじる」で済ませてしまい、一番の問題点を避けた。逃げた、といっていい。

 昭和天皇は2.26の時だけでなく、自分が必要だと思った時は輔弼者の進言など聞かず「可,不可」を明示し命令を出した(『昭和天皇は戦争を選んだ!』社会批評社、参照)。
 大元帥天皇の許可なく軍を動かすことは陸軍刑法では「死刑又は無期若しくは7年以上の禁固」の大罪
 そもそもの中国侵略の初めだった満州事変の時も、昭和天皇は許可なく越境した林銑十郎将軍を軽度の叱責…つまり、口先処分…で済ませた
 成功したら関東軍をほめた。そして関東軍は増長した。

 このノモンハンもそうだった。
 もちろん、関東軍参謀・大本営参謀も大量の将兵を、無謀な戦争計画によって戦死に追いやり、責任は部下にとらせた卑怯・卑劣さは、どんなに強調しても良いが、その最終責任は大元帥昭和天皇にある
 「叱責」とは「誰に責任を取らせるか」という形で関東軍司令官植田謙吉に責任を取るよう暗示…結果責任が生じるので明示はしない…したことをいうが、それをしなかった大本営参謀たちに昭和天皇は責任を取らせなかった

 ノモンハンでも、もし、2・26の時のような強い態度で参謀たちに臨んでいたら、後の歴史は大幅に変わっていた可能性はある。この都築和人氏も、この優れたドキュメンタリー制作者も、大元帥の責任については思考停止してしまうのだろうか。

 それとも、右翼どもの「反日」攻撃を避けるには、ここまでが限界と忖度したのだろうか…確かに大元帥昭和天皇の責任にまで言及すると予想される攻撃は凄まじいものになって、今後はこういうドキュメンタリーを作成することはできなくなることは目に見えているので、あまり責められないかもしれない…

***********************
 〇醍醐先生から
 「あまり責められないかもしれない」と番組制作者を思いやって済ませるのですか? それなら萎縮・自己規制やむなしでお開きになるのでは? みやさんらしくない? その手前の一連の書き込みと繋がらないように思いますが。

 〇増田の返信
 迷いがあります。もし、大元帥昭和天皇の責任を正面切って取り上げて報道すると彼らは、真っ当な「慰安婦」報道番組を作ったためにアベらの介入を受けてNHKを追われた人々の二の舞になる事が99.99%の確率でありそうで…そうなって、こういうドキュメンタリー番組そのものが無くなってしまったら、と…


パワー・トゥ・ザ・ピープル!! パート2
  今、東京の教育と民主主義が危ない!!
  東京都の元「藤田先生を応援する会」有志による、教育と民主主義を守るブログです。

 
 ◆ 外務省(日本政府)の「竹島」主張はフェイク(嘘)だらけ!? (『さようなら!福沢諭吉』)
増田都子

http://wind.ap.teacup.com/people/timg/middle_1529026256.jpg
「改正日本輿地路程全図」(1846年)(明治大学図書館所蔵):外務省HP

 1、はじめに
 私は東京都の公立中学校の社会科教員でした。教員歴33年目の2006年3月31日、石原慎太郎配下の都教委によって「公務員不適格」として分限免職されました。それは、ノ・ムヒョン大統領の05年3・1演説を教材にして、侵略と植民地支配の過去を持つ日本が本当に韓国と和解するためにはどうしたらいいか、授業で生徒に考えさせたからです。
 その中で関連して、都教委や右翼都議が大好きな扶桑社教科書(後継が育鵬社教科書)は「日本の侵略戦争を自衛の戦争と書く『歴史偽造』の教科書です。」と事実を教えたのです。


 それをもって「検定済教科書と都議に対する誹謗を生徒に教えた。」と「東京都教職員研修センター」と称する教員ラーゲリに隔離収容・軟禁され、6ヵ月の間、四六時中「反省」を強要されました。
 で、「反省すべきは私ではなく、歴史偽造の扶桑社教科書を教師や市民の反対を無視して採択した都教委である。」と主張したので「反省しないため、改善の見込み無し。公務員不適格」というのです。詳細は、ぜひ『たたかう! 社会科教師』(社会批評社)のご購読を!

 国内では産経新聞が「やっと偏向教師が首になった」という報道をしてくれた以外は、ほとんど報道されなかったのですが「ノ大統領演説を紹介し、扶桑社教科書を批判した教師が免職された」ということで、韓国では大きく報道され、たくさんの励ましをいただきました。
 中でもノ大統領の同志だった方が主宰される釜山の市民団体とは現在でも交流が続き「この夏、ぜひ『日本の竹島教育』の現状について話してほしい」というリクエストをいただきました。

 2、外務省(日本政府)HPにある竹島(韓国名:独島)についてのフェイク主張!?
 そこで、ネットなどで「竹島授業」について指導案などを検索してみました。ヒット数は少ないのですが、やはり、日本政府の主張そのままを教えている(教え込んでいる)のです。
 教員たちが、授業で資料として生徒たちに配布しているのは、ほとんどが外務省HP http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/g_kinshi.htmlに掲載されている「日本の領土をめぐる情勢『竹島』」からとったものでした。

 一例を挙げますと「竹島の認知」として「経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水(ながくぼせきすい)の『改正日本輿地路程(よちろてい)全図』(1779年初版)のほか,鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在します。」とし、明治大学図書館所蔵の弘化3年(1846年)の地図を載せています。
 確かに、これには竹嶋(現:鬱陵島)・松嶋(現:竹島=独島)を隠岐と同じ黄色で着色してあり、経緯線もあります。で、教員たちは生徒たちに「ね、江戸時代から、竹島は日本の領土だったんだよ」と教えるわけです。

 そこで、私は明大図書館に行って、原図を確認しようと思い立ちました。ところが「卒業生でもない一般市民には、その近くの図書館の紹介状が無いと図書館に入れない」というのです。
 で、何か、簡単に入れるテはないか? 「そうだ、安川寿之輔さんは大学の先生だから何かツテがあるかも」と思い相談しましたら、彼の大ファンの明大卒業生を紹介してくれました。
 そこで、卒業生の方の後ろに隠れて入れるかな(笑)と思いましたが、そんなに甘くなく、やはり、私の居住地の市民図書館に紹介状を書いてもらいました。発行まで1週間くらい…心細いので明大卒業生の方にも一緒に行っていただき助けてもらいました。お二人には感謝!

 そして、調べてビックリ! 明大図書館蔵の「改正日本輿地路程全圖」は全部で17枚もあったのです。
 そのうちの2枚だけが外務省HPに載せてある弘化3(1846)年のもので、あとの15枚のうち、全体着色なしのもの、つまり、竹島・松嶋の所属は不明の2枚を除くと、残りの13枚は竹嶋(現:鬱陵島)・松嶋(現:竹島=独島)の部分には緯度経度を入れず、朝鮮と同じ白色にしており、しかも、そのうち4枚には「官許」という文字が記載されていました。

 つまり、同HPに載っている赤水地図は「官許=江戸幕府の許可」の無いもので、海賊版なわけです。

 どちらを採用するべきか、常識的判断力があればすぐわかるのですけど、普通の人=普通の教員は「外務省HPに載っている」ということで信用してしまいます。
 それで、教員はこの海賊版「改正日本輿地路程全圖」を生徒に見せて「ほらね、江戸時代から日本のものだったんだよ。なのに、今は韓国が不法占拠してるんだよ。」と教えるのです。
 当然、生徒は「韓国って悪い国だ」「江戸時代から日本のものなんだから、日本に返してもらいたい」「韓国が嫌いになった」となるのです…。

 同HPに記載の「長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』(1779年初版)」については、弘化3(1846)年のものと同じく現在の鬱陵島・竹島を隠岐と同じ黄色で着色してあり、経緯線もありますが、実は赤水は1791(寛政3)年に第2版を出しており(これが赤水による完成版)これは、両島を朝鮮と同じ白色にし、経緯線もありません

 外務省=日本政府は「竹島は江戸時代から日本の領土だった」という主張に反するものは、有るものを無かったことにするのです。
 現在のアベ政権の公文書改竄・隠ぺいは「日本政府の伝統文化」でしょうか…。

 3、外務省の名乗らずの担当者(職員たち)はシャーシャーとフェイク(嘘)を述べる!?
 さらに私は外務省に電話しました。実は5〜6回、電話したのですが、「竹島」担当者は席を常に外していて、ついに出てきませんでした。
 電話に応対した、その都度、違う人物に名前を聞いても「名前は名乗らないことになっている」とヌカシました(笑)。

 ラチがあかないので、途中から「さあ、私の質問をメモしてください。そして、必ず担当者に答えを聞いてメモしておいて、増田から電話がかかってきたら誰が出てもそれを読んでくれるようにしといてくださいね。」と念を押しました。
 結局、電話をかけ始めてから2週間くらいたった本年4月11日、やっとこさ、以下のQ&A が成立(笑)。
 Q:外務省ホームページに「竹島の領有」において「我が国は,遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには,竹島の領有権を確立しました。」とあるが、どこの藩の領地だったのか? 天領だったのか?

 Aどこの藩(の領地)というわけではなく、ウルルン島への渡海権をもって竹島を利用していた経緯があり、日常的に(渡海が)行われていたことを踏まえて17世紀半ばには領有権を確立していたと考えられる
 ()内は増田
 江戸時代、竹島=独島は「どこの藩(の領地)というわけではな」いし、天領=幕府直轄地でもないけど、漁師たちが「日常的に」行ってたので(これも真赤な嘘!?)日本の領土と「確立していたと考えられる」から、「日本固有の領土なんだ」!? と、日本外務省=日本政府は主張するのです。
 江戸時代に、どこの藩の領地でもなく天領でもなければ、日本の領土なわけない、です。普通に判断力があれば、誰だって理解できると思うんですが…。

 実は『竹島(独島)・ウルルン島(鬱陵島)』については江戸時代に朝鮮政府と「領土紛争」が起き、江戸幕府は「元禄竹嶋一件」「天保竹嶋一件」と2度にわたり「日本の領土ではない」と宣言している事実があります(この「竹嶋」は現:鬱陵島)。

 「元禄」については、漁に行っていたのは鳥取藩米子の商人たちだったので、幕府は鳥取藩の領地だと思って同藩に質問し、その回答が残っています(鳥取県立博物館蔵)。
※1695年12月24日付質問書(御尋の御書付))
「 一 因州伯州に付けている竹嶋(鬱陵島)は,いつから両国に附属することになったのか。
  一 竹嶋の外に因伯両州に附属する島はあるか。」

 鳥取藩の翌12月25日付回答書
「一 竹嶋(鬱陵島)は因幡・伯耆の附属ではありません。
 一 竹嶋 松嶋(現:竹島=独島)外 両国(因幡・伯耆)の附属の島はありません。」
 日本政府=外務省は、この文書を知っていますが、国民には隠しています
 「竹嶋(現:鬱陵島)と松嶋(現:竹島=独島)が鳥取藩(因幡・伯耆の二国を領地とする)の領地ではない」ということは、日本の領土ではない! ということです。封建社会にあっては土地はどこかの大名のものか天領です。念のため幕府は松江藩にも聞いていますが、松江藩も関係ないという返事でした

 そこで幕府は外務省HPの記載にあるように「『鬱陵島を日本領にしたわけではないので,ただ渡海を禁じればよい』と朝鮮との友好関係を尊重して,日本人の鬱陵島への渡海を禁止することを決定」します。
 同HPはその後に「その一方で,竹島への渡海は禁止されませんでした。」と記載します。
 確かに、この時の幕府の渡海禁止文書には「竹嶋(鬱陵島)」という文言しかありません。しかし、鳥取藩が「竹嶋(鬱陵島)も松嶋(竹島=独島)も自国領地ではない」という回答をした上での幕府決定なのですから「日本人の鬱陵島への渡海を禁止することを決定」には、当然「竹島への渡海」禁止も含んでいたのです。

 現に池内敏氏の「国境未満」(『日本史研究』15年2月号)には、幕府と米子商人のやり取りについて、以下のような一級史料が紹介されています。
 「次ニ御尋之趣、竹嶋・松嶋 両嶋 渡海禁制ニ 被為仰出候 以後ハ」(元文5(1740)年の文書)、
 「私共儀、元禄年中 竹嶋・松嶋 両嶋之渡海禁制ニ 被仰出候以後ハ」(翌年の文書)
 現在の日本政府(外務省)の言い草ときたら「『廊下を走るな』と書いてあるけど『下駄箱の所で走るな』とは書いてないから、下駄箱の所で走ることは禁じられていない」と言って走り回る悪ガキと同レベル!? 

 しかし、こうした「竹島に関する真実と日本政府(外務省)のフェイク(嘘)主張」について、日本のマスメディアは絶対に取り上げません
 なんとか、国民が正しい判断を下せるように真実の情報を広く知らせたいですが…

『さようなら! 福沢諭吉 第5号』(2018年)




東京新聞2018年5月28日

 「焼夷弾が落ちるザーザーという大雨のような音に体が震えた」−。太平洋戦争末期、いまの品川区西部を襲った「城南空襲」の体験を聞く会が二十七日、同区のスクエア荏原で開かれた。参加した約三十人は体験者の生々しい証言に熱心に耳を傾けていた。

 一九四五年五月二十四日の城南空襲は、米軍B29爆撃機五百二十機が旧荏原区に襲来。まちの約七割が焼失した。約三百六十人が亡くなったとされる。

 登壇したのは、十六歳のときにこの空襲を体験した石井悌次郎さん(89)。自宅から百五十メートルの場所に焼夷(しょうい)弾が落ち、警防団員だった父がポンプで水をかけるのを必死で手伝ったという。空襲を体験すると「体が硬直して動けなくなる」と語り、「いつ空襲が来るか、毎晩おびえていた」と今も残る鮮明な記憶を口にした。最後に「戦争なんかするもんじゃない」と会場に語りかけた。

 この日は、武蔵小山商店街が満蒙(まんもう)開拓団として組織された歴史を紹介する区制作のDVDも上映された。戦争末期の四五年春に、「食糧増産」をめざして商店主とその家族ら千九十三人が開拓団として海を渡った。戦後、帰国できたのは五十三人のみという。

 映像を見た広瀬文江さん(89)は「自分も、知人のクリーニング店のお兄さんが『おいしいお野菜を送ってあげるからね』といって旅立ったが、帰ってこなかった」と話した。

 地元の有志らで作る「城南空襲を語り継ぐ会」は毎年、この時期に体験を聞く会と空襲の絵の展示などを開催している。同会の西條明子さん(72)は「年々体験者が減っていく中、証言を多くの人に伝え、記録に残していかないといけない」と話していた。 (原尚子)

全21ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事