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戦後最大の人権侵害レッド・パージ

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7月16日の第7回公判で神戸地裁は、原告側が強く求めていた明神勲北海道教育大学名誉教授の証人採用を認めました。

【 第8回公判は、神戸地裁 11月16日(火)午後1:30〜約2時間の予定。
     終了後、神戸市立婦人会館で報告集会を行います。 】


原告団は、この間意見書を提出し、
◆日本政府の積極的な関与
◆それに伴う人権侵害状況の継続
の具体的事実を立証する必要があること。
◆裁判所としてもそれらに関する証拠調べが不可欠であること。
◆そのためには専門家証人としてレッドパージ研究の第1人者、明神証人の審問が必要であることを主張してきました。

裁判報告集会で、佐伯雄三弁護団長は「明神氏の証人採用が決まったことは大きな前進だ。これまで原告の被害は明らかにできた。次は、レッドパージとは歴史的にどういう事実だったのか法廷で明らかにしたい。」と語りました。

岩手や東京などから300通以上の要請書が提出されました。

小牧英夫弁護士は「文書でと言っていたのに証人とし(て採用し)た。裁判長が『裁判が長引くけれども、みなさん元気で頑張ってください』とはなかなか言わない。」

橋本敦弁護士は「明神証人が決まったことは、日本の政治を正すたたかいから見て本当にうれしい」

名波大樹弁護士は「本人尋問が終わったあたりから裁判所の印象が変わってきて明神証人採用になった」と述べました。

  7月の懇談会に是非ご参加を!
  7月30日(金)午後1時から 市立婦人会館(湊川神社西)

≪兵庫レッドパージ反対懇談会ニュース7月20日号より≫

 レッドパージで失職 救済を求める闘い全国で再燃

 ▼ 60年前の汚名 そそぎたい

 一九五〇年前後、連合国軍総司令部(GHQ)の指示などにより共産党員らが失職したレッドパージ。その当事者たちによる名誉回復や補償を求める動きが再燃し、神戸地裁で係争中の唯一の国家賠償訴訟も注目を集めている。彼らは「六十年前の汚名をそそぎたい」と最後の闘いに挑む。(京都支局・芦原千晶)

 ▼ 80歳〜90歳代「最後の機会」
 「レッドパージの人権救済の申し立て、京都でも年内にする方向で検討していきましょう」。猛暑の京都市内で二十日、白髪の男性ら八人が感慨深げにうなずいた。
 この会合を呼びかけてきた元教員の関谷健さん(八六)は四九年、京都市内の高校で授業中に解雇された。「アカというだけで、訳がわからんまま首を切られた」。
 ようやく先月、京都の関係者では初めての会合がもたれ、同様に苦難を背負ってきた企業の元労働者、元女優といった当事者十四人らが半生を共有した。
 レッドパージで職を失った人々は全国で二万人以上とされている。五〇年代までは多くの訴訟が起こされたが、一部の和解を除いて大半は敗訴。その後、歴史に埋もれていったが、半世紀後の二〇〇〇年、再び各地で会合が持たれるなど全国的なうねりが生まれ、「レッド・パージ反対全国連絡センター」(東京都北区)も設けられた。


 その後、同センター代表委員で神戸市在住の大橋豊さん(八〇)ら三人が〇四年、レッドパージの人権救済を*日本弁護士連合会に訴え、同会は○八年に「特定の思想・信条を理由とする差別的取り扱い」と判断し、国や企業に早期の名誉回復や補償などを勧告。東京や熊本など十四都道県の計九十人が同様の救済を申し立て、今年二月に横浜弁護士会が神奈川県内の十八人に勧告を出した。

 ▼ 楽観できない 国家賠償訴訟

 さらに大橋さんらは「レッドパージはGHQの指示に加え、国も積極的に関与した。サンフランシスコ講和条約の発効後は憲法の理念に基づいて被害回復ができたはずだ」と主張。
 昨年三月、神戸地裁に国家賠償訴訟を提訴した。今月十六日の口頭弁論では、専門の研究者が十一月に証人出廷することが決まった。
 ただ、司法判断の行方は楽観はできない。国側は「GHQの指示は超憲法的効力があり、解雇・免職は適法」とした最高裁判例(六○年)などを根拠として、請求の棄却を求めている。
 当事者たちはすでに八十代から九十代。最近でも体調を崩し、亡くなった人もいる。それでも「これが最後の機会」と決意し、名誉回復の闘いに期待を寄せる。
 元郵政職員でレッドパージに遭い、解雇の翌朝に出勤して不法侵入で逮捕された体験を持つ清水千鶴さん(八六)=京都市在住=はこう思いを語る。
 「パージのことは母にも言えませんでした。長い間、若い日の傷として誰にも知られず死んでいくのかと無念に思っていた。救済の申し立てや裁判闘争と命ある限りどんな運動にも参加したい」

 ※レッドパージ
 共産党員や同調者を官公庁や民間の重要産業の職場から一方的に解雇、追放した措置。海外でも実施されたが、イタリアや米国などでは後に救済措置が取られた。

 『東京新聞』(2010/7/23【ニュースの追跡】)

≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
 今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫

  横山 靖子

 (一)戦後喜々として教育復興に専念

 1915年8月15日、焦土と化した東京の街。焼け出され、疲れ果てた人々に、ようやく訪れた終戦。
 それでも、「戦争が終わった!」の安堵感と、生き残った喜びがじわじわと湧いてきたこと、「あヽ今晩からは布団を敷いて寝られる。あかりがつけられる」と思ったことが忘れられません。三鷹の自宅は焼けずじまい。爆風で多少歪んだりはしたものの、住み続けられる幸せもかみしめていました。
 けれど、勤務先の都立第三高女は二度の被災で跡形もなく、麻布の街も焼け野原に、暫くは、さえぎるものも無い炎天下を、汗をふきふき通ったのでした。焼け残った頑丈な土台石を壁にして、壕舎教室を作ることになり、居残っていた生徒が少ないのを幸いに(多くの生徒は縁故先を頼って疎開)、それから二ヶ月ばかり、くる日もくる日も粘土質の土を掘る作業が続きました。受け持ちだった二年生の子ども達には重労働過ぎましたが、それでもどうにか坐れるように掘り進み、明日から授業ができると喜んで帰った夜、豪雨で壕は水浸し、結局一日も使わずに終わりました。
 その後は、真夏の太陽の下、さえぎるものとて一つもない炎天下、居残った子ども達と学習を試みたもの耐えられず、焼け残った小学校の教室などを借りて、分散教育に苦労するなど、忘れられない体験でした。
 この時、私は働きざかりの二五歳でしだ、


 (二)「校舎よこせ」のスローガンかかげて、食糧メーデー参加

 1946年5月19日、戦後の食糧難に空腹に耐えてきた都民が、五月一日のメーデーのあと、重ねて「食糧よこせ」を訴えて食糧メーデーをやると聞いて、このチャンスに「校舎よこせ」を訴えて参加しようと職員会議で、自分のロ下手も忘れて、「子ども達のためにあらゆる努力をするのが教師のつとめではないか」と、涙を流しながら訴えました。他の先生達も、授業のおくれや落ち着かない毎日の学校生活を一日も早く解消したいと、積極的に賛成されたのでした。その後一父兄の抗議があり、再度職員会議を開き、教員は全員、生徒は希望者のみと訂正。
 当日、終始首うなだれて先頭に立たれた校長先生に続いて全教師、すすんで参加した生徒百名近くが続きました。私の受け持ちのクラスは「上級生にあれこれ言われてこわかった」と言いつつも全員参加。後にハージされた先生方のクラスは八割、五割の参加という状態でした。翌日の全朝刊は「名門校、都立第三高女、校舎よこせで食糧メーデー参加」と、二段抜きの記事を一斉にのせました。
 その後、父兄から意見がいろいろ寄せられたのでしょう。校長先生は一人転勤を迫られ、他校へ移られました。私はと言えば、メーデー参加の首謀者として、他の一〜二名の先生と共に、他の教師たちからも声をかけられなくなり、怖い者のように避けられるようになりました。こんな状態のもとでは校長先生を守ることも出来ずじまい。その状態をとり戻すのに二学期中かかりました。
 こうした状態が続く一方で事態はすすみ、新校長の赴任と共に、駒場の元兵舎を急遽改装して新校舎とすることがきまり、三学期から正式に授業が開始されることになり、「都立駒場高校」と正式に名称も決まったのでした。
 兵舎のあとは殺風景でしたが、やがて教室らしく改築され、疎開先から生徒も戻り始め、喜々として授業が進められろようになったのでした。

 (三)少々勇み足の出発

 兵舎だったためか、教室に大小があったのを幸い、戦後アメリカ式の新しい教育を模索していた仲間が中心になり、新しい学級づくりで、学年毎の担当教師はきめるものの、クラス担任は生徒自身にきめさせようというものです。
 生徒は大喜び。好きな先生のクラスを選んで学級編成は出来ました。実は一番希望者が少なかったのが私のクラス。「先生のクラスにいきたかったけど、アカと思われると入試にひびくから止めたの」と、寂しそうに言ってくる子や、わざわざ親が訪ねてきて変更を申し入れるなどもありました。
 そんなわけで、三十人足らずの私のクラスは、「何でも話しあえる、助けあって学習し、いいと思うことは何でもやる、すばらしいクラスにしましょうね」と、子ども達とも心一つに結びあったクラスになりました。
 けれど、都立高校では大学進学希望者もおり、少々ゆき過ぎかもと、私も反省して、この方法は一年で中止したのでした。

 (四)全国を襲ったレッド・ハージの波は駒場高校にも

 1949年に入ると、「行政機関職員定員法」による「行政整理」や民間企業の「首切り・合理化」による企業整備が進められたのでした。
 その背景の下、七月五日に下山事件(下山国鉄総裁が突如行方不明。翌日礫死体で発見される)、七月一五日に三鷹事件(中央線三鷹駅で無人電車暴走)、八月一七日に松川事件(東北線金谷川ー松川間で列車転覆、七名犠牲)など、犯人不明の怪事件が連続発生。原因究明の調査活動もないまま、「共産党がやった!、共産党の仕業だ!」との大宣伝が、どこでも繰り広げられ、労組幹部や共産党員など、国鉄、全逓などを皮切りに、約四万人近い労働者が全国的にパージされたのです。
 当時私は三鷹に住んでいて、たまたまこの日帰宅のため、四谷駅から中央線に乗り三鷹駅の一つ手前の吉祥寺駅に着いた時、「三鷹駅で事故があったようなので停車します」と、一駅だから歩いて見にいってみようと三鷹駅にいってみると、タ暮を迎え街は人影もなくひっそり。駅前で二〜三人の男性がマイクで、「共産党の仕業だ」「共産党が電車を暴走させた!」と声をからしていました。車両が一台、線路を外れ、駅前の交番を押した形で横倒れになっていました。見に来る人もなく、「これは作られた事故だ」と直感したのでした。
 1949年から50年にかけて、米軍総司令部民間情報局顧問イールズが、「赤色教員追放」を演説しつつ全国をまわり、パージの波は、教育の場にも広がり、小・中の教員中心に、二千人が解雇されたのでした。
 1950年、この波は高校としては珍しく、都立第三高女にも及び、二月一三日、私を含む五名の女教師が馘首されたのでした(一名は長期病欠でしたが)。高校で、しかも一校で五名も首切られたのは特別でしたが、結局四年前の食糧メーデー参加をそそのかした責任をとらせる形だったのです。
 私の受持ちクラスの生徒たちが「先生を首にすうなんて許せない!」と、校長先生のところに抗議にいった時、校長先生は「私は言われたままにしたまでだ。マッカーサーの指令なのでさからえない」と。「校長先生は無責任、先生を守ってほしい」と子ども達は怒り、「どうすればいいの?」と次々に校長室に押しかけてくれたもののどうしようもなく、改めて、日本の現実はアメリカ政府の言うがままなのだと知ったのでした。
 こうして私は、子どもの時からの夢でもあり、決意でもあった「教育に生涯をかける」道を絶たれたのでした。

 パージされた私たちのために、学校側はお別れ式を朝礼を兼ねて開いてくれました。今の日本の情勢とパージの意味、そしてパージ後のそれぞれの生活を、同じような繰り返しにならないように分担してと、発言の内容を確認して各自挨拶しました。
 最後をつとめた私は、「パージは不当なものだけれど、今、世界の情勢は大きくかわりつつある。現にこの二月新生中国、社会主義中国が誕生、各国の国民のカで、それぞれの国を発展させていく可能性と責任のある時代を迎えている。パージはロ惜しく不当だけれど、私たちは未来に向かって不屈に頑張るつもりなので、心配しないで!」と、誇り高く結んだのでした。
 あとで子ども達から「先生は、私たちと別れることを悲しいと言ってくれなかった」と、恨まれたりしましたが、当時の私の心境を言えば、"首切りに負けてたまるか"の思いと、新しい社会づくりに思いのたけ頑張りたいの気持ちが強かったのです。
 その一方で、五年間受持ち、戦中・戦後を共に体験してきた生徒たちが、学校制度の変更で、新制高校三年生として進級し、もう一年在学する春、自分だけ首切られて去らねばならないことに、言い尽くせない心残りとロ借しさを感じていたのも事実です。
 五名のうち長期病欠だった一人は間もなく亡くなり、他の一名は「自分は首謀者にそそのかされ、行動を共にしたこともあったけれど、共産党員でもなければ支持者というほどでもない。一生教職を続けたいと頑張ってきた」と申し開きをし、一〜二年後再就職され、最後は校長まで勤められた由数年後聞き、それはそれで良し、各自が自覚してそれぞれの人生を生きることだと、余り怒りも感じませんでした。
 1949年から続いた全産業での赤狩りのあと、日本の国民を襲ったのは朝鮮戦争でした。レッド・パージはまさに、国民を戦争にまきこむための反戦勢力の職場からの一掃、国民の口封じだったのです。
 それにしても、私一人今も生き続けているものの、他はみな他界され、駒場高校パージの思い出を話し合ったこともなく、昔の歴史の一コマとなってしまいました。

 (五)パージ後、反戦・平和願って運動

 パージ後「かわってほしい」と言われ、教職に戻れるならと喜んで就職した、神奈川朝鮮中高学園での三年ばかりの教員生活を除いては、私は一貫して、反戦・平和・母親運動などにはまりこんできました。
 日本では、全国的な共産党員追放は進められたものの、この時期世界の情勢は大きく変わっていきました。
 1953年秋、第三回世界大会開催の報が伝わってきました。代表派遣は無理でも、このチャンスに女性を組織してと、当時神奈川県に移り、県平和委員会の仕事を手伝いはじめていた私の任務がきめられ、私は夢中で県内をまわりました。
 1954年1月、第一回県婦人大会を成功させ、神奈川での私の活動は根付いていったのでした。
 54年3月1日の、マーシャル諸島ビキニ島での、アメリカの水爆実験によるマグロ漁船第五福竜丸の被爆をきっかけに、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニと三度被曝した日本の人々の、「核実験反対!平和を!」の願いはもりあがりました。こうして、私も必然的に反核・平和の運動に全力投球することになったのでした。
 今年(2008年)、88歳を迎え、紆余曲折はあったものの半世紀余り、反戦・平和と女性の解放をめざして、運動の一端を担ってきたと、感概深く思い起こしているところです。

 『私にとっての戦後ーそして都高教運動』(都高教退職者会 2010/5/15発行)より

 ▼ 60周年をむかえる教員のレッド・パージ〜都立高校の場合(3)

 歴史書は「米よこせ」で立ち上がった労働者・市民を書いていますが、第三高女の先生・生徒にとっては、まさに「校舎よこせ」だったのです。
 翌日の新聞は、女学生の参加も取り上げました。ところがこんな書き方でした。
 朝日は「飢える帝都に食糧メーデー」の見出しで、「…都立四中、都立三高女生等50名ぐらいの一団が教師の指揮棒でメーデー歌を絶叫する姿…」
 毎日は「…都立第三高女生の一団がソプラノで『勉強出来るだけたべさせろ』『人民政府をつくれ』と叫ぶ…」
 読売は「…都立第三の女学生100名も参加していた…みんな都の指令で“メーデー参加許可せず”をけって、先生にお願いしてはせ参じたものだ」
 事実と全く異なる報道です。先生も含めメーデー歌も知らない時代、「人民政府をつくれ」と叫ぶなどと笑い話のような記事です。「校舎よこせ」のプラカードもあったはずなのに、何の取材もせずに書いています。当時第三の女学生がこういう場に数多く参加したのは目を見張るものだったはずです(生徒の参加数は不明)。第三の思いをきちんと書いてほしかったと思いますが、こんな歪んだ記事は反動勢力の思う壷になりかねませんでした。


 25万人も集まった食糧メーデーの衝撃で吉田茂は一度組閣を断念しました。ところがGHQが介入してきて、翌日「暴民デモを許さず声明」をだしました。これに助けられて二日後第一次吉田内閣はようやく成立しました。
 しかし第三の要求は通りました。まもなく「大橋の兵舎」(現駒場高校の敷地)に移ることになりました。夏休み中に突貫工事、二学期のはじめに竣工式が行われました。
 なお食糧メーデーに参加した校長は心労から6月末に倒れ、9月から新校長が赴任しています。
 いずれにしても「校舎よこせ」の要求は、「食糧メーデー」に参加という衝撃的な事件をバックに、父兄、東京都さらには、GHQも動かして実現したわけです(兵舎は占領軍の管理下にありました)。

 第三高女の先生たちは、未だ日本国憲法も公布(1946年11月3日)されていないときに、生徒たちの教育を受ける権利を保障させるために立ち上がりました(日本国憲法草案一帝国憲法改正案が帝国議会に提出されたのは6月20日)。しかも職員会議で議論して全員一致で参加を決めています。要求実現のために行動に立ち上がる。これこそ与えられたものではなく、民主主義を実践するものであったわけです。
 このような状況のとき生徒も参加したのは自然の流れだったでしょう。1950年代から今日まで、沖縄で高校生が(ときには中学生も)集会やデモに参加していますが、まさにその先駆的なものといえると思います。そういう意味では、「食糧メーデー」は、単に「米よこせ」だけでなく、校舎はじめ数多くの要求実現のために立ち上がった労働者、市民などの「厚みのある」闘いだったと評価できるのではないでしょうか。
 アメリカが与えようとしていた秩序ある民主主義とは異なる下からの運動が盛り上がってきました。だからこそ、マッカーサーは、集会参加者を「暴民」とののしり、対日理事会(5月29日)でもアメリカ代表は、「少数分子の扇動排撃」と演説したわけです。第三高女の先生も生徒も「暴民」扱いされ、だれかの扇動で動かされているとされ、「排撃」の対象になってくるわけです。
 この点では吉田内閣もその成り立ちから見て、同類でしょう。主権者としての国民が「校舎よこせ」を要求するという「主権の行使」、このような民主主義運動が広がっていく?これこそ戦後民主主義の発展なのですが?これを押さえつける。ここに吉田内閣の役割があったのでしょう。3年後(1949年)には、世界の情勢も大きく変化して、「扇動した少数分子」を本格的に排除することになっていきました。

 ▼ レッド・パージの強行
 都立高校でただ一つ、社会の注目を浴びるような運動をした「あの学校」の「あの先生たち」にねらいをつけ排除する。都立高校でのレッド・パージの核心はここにあったと考えたらどうでしょうか。ロ実づくりの「刷新基準要綱」を強行採決して、高校では*駒場に無理矢理はめ込んだのではないでしょうか。
 横山さんと教え子4人で話したところにもどります。
 担任の先生がパージされたことを知った生徒の代表6、7人は翌朝校長室に乗り込みました。
 「昨日のHRで聞いた、納得できません。」といいますと、校長は立ち上がってうろたえて、「私は学校をあずかっている。皆さんにいちいち説明できない。時間がない。早く朝礼に行きなさい。私の立場もある。生徒のあなた方が考えることではない」と言い放って、「去られることに納得できません」という叫びを尻目に校長室から先に出ていってしまいました。
 さらにこのときの教え子たちの発言を三つ載せます。
 △私たちの理解していた民主主義が足元から崩れ去ったと思いました。
 △レッド・パージの後、他の先生たちが尻尾をまるめているような、無力感に襲われたような印象、沈鬱な感じの職員室でした。
 △ある先生がこの1年で印象に残ったことを書きなさい、といわれましたのでレッド・パージのことを書いたら、「皆さんも辛かったんでしょう、理不尽なこともあります。大人になったら理解できるようになるでしょう」と言われました。

 また、創立100周年記念誌には卒業生(当時高二)の文章が寄せられていますので、一部引用します。旧制から新制への切り替え時でしだので、彼女たちは1945年4月の入学で、1951年3月卒業していきました。6年間通った学年です。
 「…駒場高校は焼け跡からようやく安住の地を得て3年半、古い兵舎の暗い教室での授業ではあったが、勉強がようやく軌道に乗り始め、生徒たちの気分も落ち着いて来た頃であったから、この事件は当時を知る者にとって、言い知れぬ暗い事件として心に刻まれている……抑圧されていた時代が長く厳しかった分、解放は一気に進み、デモクラシーを語らねば人でないかの如き風潮が世の中に蔓延していたのは事実だ。ホーム・ルームの時間をはじめとして、先生方が各自の信じて止まぬ思想を生徒に熱く語られる機会が多く、……私たちが戸惑いながらも、その新鮮さに惹かれたのは確かだった。(パージのニュースを聞いて)生徒委員会も即時開かれ、生徒会として反対運動をすべきかどうか討議されたが、結局20対21で否決され、有志による嘆願署名などが行われた。この時他の先生方は殆どが事件から一歩退かれ、生徒たちのまじめな質問、深い悩み、迷いに真摯に対して下さった方は殆ど無かったように思う。ただ穏便に事を収めたいだけ『何事も神の思し召し』と言われた先生もあった……」

 THE HIMEMATU 1950年3月13日第12号(駒場高校校友会誌)によりますと、職員異動と題して
 真見三江先生(社会)乾須美先生(国語)奥野君子先生(理科)長谷川靖子先生(理科)の4先生は2月中旬御退職になった。
 つづけて、2名の先生の名が書かれ、2月中旬御着任になった、とコメントなしに掲載しています。

 ▼ おわりに

 1949年の夏には三鷹事件、松川事件などがおき、いずれも共産党員の仕業であるかのようにいわれ、レッド・バージがはじまりました。ある日突然の出来事ではなく、仕組まれたものです。日教組は声明をだしています「……民主主義社会の鉄則を無視して教職員を馘首するような暴挙を強行するならば、……単に特定政党員または思想の持主であるがゆえに、あるいは長年組合活動に従ったのみのゆえをもって具体的な事由を示さず一方的に整理することに対して反対……」(1949年10月6日)

 しかし、各職場で闘いを展開していくことは困難でした。都高教でも「不当解雇」に対する闘いも、被処分者を中心にした闘争も組むことはありませんでした。
 なお、都教組関係では、都教育委員会(現在は人事委員会)に審査請求した88人は全員却下、75人が地裁に提訴しましたが、勝訴したのは1名にすぎませんでした。

 レッド・パ一ジ30年を迎え、冊子が発行されました。
 教職員レッドパ一ジ三十周年記念刊行会編『三十年の星霜を生きて』の最後に載せられている名簿には、高校では、駒場高校の4名しか掲載されていません。この冊子の題字を書かれたのは乾先生です。コピーしておきます。

 駒場でのレッド・ハージを知り始めたとき、ちょうど創立百周年の記念誌づくりが始まったところでした。係りの先生と共に職員会議議事録、校友会誌、同窓会関係のニュース文集なども見て、「記念誌」に必要と思われる資料(乾、横山先生の文章の多く)を載せることができました。ここにようやく、「食糧メーデー」と「レッド・ハージ」が記録されました。

 最後に、横山さんのパージ後今日まで60年に及ぶ「闘いの人生」をここに書きます。

 横山さんは、2006年に自伝『わたしを押してくれたもの〜怒りと愛と連帯と』を出版されました。横浜での出版記念会にかけつけました。高校からは私だけで、29歳で解雇されてからの諸活動と集まってきた皆さんの熱気に圧倒されました。

 60年のうち5年間、新婦人の会神奈川県本部事務局長、16年間同代表委員、12年間神奈川県母親連絡会事務局長などの活動をされました。

 印象的だったのは、反戦平和の運動の先頭に立ってこられたこと(第一回原水爆禁止世界大会から参加)、1977年に米軍ジェット機が横浜で墜落し「母も子も焼かれた」事件のとき先頭に立ち、「平和の母子像」をつくりました。2005年には世界の人と「核兵器をなくそう」ニューヨーク行進!に参加されています。

 2006年9月21日には東京地裁で歴史的な難波判決が出されました。横山さんは何をおいてもと地裁にかけつけ、共に喜びあいました。
 横山さんは「御挨拶」の中で、戦後教育の出発点を見事にまとめて書いていますが、「日の丸・君が代の強制」などはもう絶対に許せない。一歩も引けないものと受けとめました。わたしたちはレッドパ一ジを想起し、その教訓をしっかりと踏まえて、この闘いの勝利を誓いました。
 (完)

 『私にとっての戦後ーそして都高教運動』(都高教退職者会 2010/5/15発行)より

≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
 今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫

 ▼ 米軍の空襲で学び舎を失った第三高女(現駒場高校)
 第三高等女学校は麻布にありました。1945年5月24日午前1時30分からの焼夷弾攻撃によって体育館などを残して校舎は焼け落ちました(5月25〜26日に再度の空襲で麻布一帯は壊滅)。
 焼け跡のあちこちでの青空教室、体育館の2階更衣室を畳敷きにして授業をはじめました。つづいて養生館(有栖川公園内の高松宮記念館)と東洋永和女学校(敗戦後英和にもどす)と南山国民学校を間借りして分散授業をしています。生徒の苦しみは、当時の先生の文章でよく分かります。
 『…空襲警報も勤労動顔も女生徒たちにとっては、必ずしも激しい苦痛の対象ではなく、むしろ若さで健気に乗り切っていた。しかし、それも学校あればこそである。よりどころとなるべき教室のないつらきは筆舌に尽くしがたく、第三それ自体の存亡にも関わる危機に立たされていた。…教師は今はやりのウォーキングよろしく、次の授業に遅れないようにせっせと歩く、途中で反対コースの先生にお会いして…』
 生徒は、「トイレの絶対数の不足によるとんでもない状況」「国語で乾先生が樋ロー葉日記を朗読され皆は筆記して教科書にした」などと書いていますが、彼女たちは、放課後、体育館に行きコーラスに時を過ごし、音楽祭も開いています。


 ところが、1946年度の入学式を養生館で行ってまもなく(4月末)、GHQは養生館を接収すると通告(中華民国が使用)してきました。生徒たちは机と椅子をもって、体育館への長い行列をつくりましたが、しばらく休校にせざるをなくなりました。
 5月8日からは、近所の笄(こうが)国民学校を借りて授業を再開しましたが、このまま校舎がないと廃校の懸念ありとの噂も流れてきました。

 ▼ 分会を作り食糧メーデーに参加
 教職員レッド・パージ30周年記念刊行会編『三十余年の星霜を生きて』に寄せた乾先生の文章から長くなりますが、分会づくり、食糧メーデー参加などよく分かりますので、引用します。

教え子を再び戦場に送るな
乾 須美

 戦火に学校(職場)を焼かれ、家を焼かれ、自分の生徒・同輩を空襲で失って、敗戦をむかえた。
 その焼けあとにたって、とめどなく涙が流れた。戦争は、一体だれがはじめたのか、何故おこるのか、多くの若人の生命を戦場の露と消えさせ、数え切れない人の財産を無条件に焼きつくしてしまって何の保証もない。こんなことが許されていいものか。怒りが胸をつき上げてきた。
 生徒と顔を合わすのも、つらかった。洗礼を受けてキリスト教の学校へでもゆこうかとも思った。しかし、生徒も辛いのだ。やっはり生徒とともに学んでゆこうと決心した。この焼けあとに聖書の一節を説くだけの牧師の言葉には魅力を感じなかった。
 組合作りの会合に誘われたのは、そんな時であった。翌年の1月のある日、麻布の小学校の先生がたから、南山小学校で組合の話がありますからと誘われた。教務主任が先にたって、ききにゆこうということで出かけた。
 会場の教室の後ろの方から入って、低い椅子に腰を下ろした。前の入りロの方に何人か座っていた。小学校の先生と我々女学校の教師、それにちょっとタイプのちがう何人かの人がいた。ところが、この人たちは皆だまったままで座りこんでいた。これでは話し合いにならないと思い、つい手を挙げてしまった。
 「大学の先生でも、幼稚園の保母さんでも、小学校の先生でも、女学校の教師でも、たべるのに困っているという点では、同じではありませんか」
 これがきっかけとなって話し合いはすすんだ。
 2・3日すると、占領軍の司令部の教育課から呼び出しがあって、とうとう組合作りに引っぱり出されてしまった。
 神田駅で降りて、神田の神竜小学校へいった。その頃、東京は銀座線の地下鉄と国電だけが動いていた。あとは歩かなければならなかった。
 世田谷の工藤先生、南多摩の大熊先生、それに私の三人が、内幸町の教育課のあるNHKへゆく事になった。
 ウィードという恰福のいい女の中尉さんがその担当であった。中尉さんは、「あなたを校長とします。私を平教員とします。二人の意見が違います。意見のちがった人があって、はじめて正しい教育が行われます。そのために、あなたがたは教員組合をお作りなさい。その第一段階として、女の先生がたに組合を作る必要を語る放送をしなさい」というのであった。
 神竜小学校にもどり、ローソクの光をたよりに三人で文をねり、分担を決め、期日に録音をとった。1946年2月4日に放送された。
 麻布では麻布の教員組合を作り、婦人部も結成して、南山の窪田みつ先生が、先輩ということで挨拶をされた。
 組合作りに神竜小学校へいくようになってから、色々な事情を知った。小学校の先生の給料が、中等学校の先生の半分であり、配給を受けるのがやっとで、三日も食事をせずに寝ている人もいた。「自分はがまんするが、子供がなくのにはたえられない」。私達はその日、職場にかえって、お米をすこしずつ集め、困っている先生がたにおくった。だが、それは焼け石に水だ。生活を守るために、そして、教室に先生をおくるために、組合作りをしなければならないと、心に固くきめるのだった。
 学校では、有志が集まって、学校の民主化と組合作りを話し合った。御前先生と私が、校長さんを説得する事になり、御前さんは理論面から、私は具体的な例をあげて説明した。戦争協力の校長さんに、民主化の先頭にたつように誘った。この時、全職員が組合に参加した。
 5月1日、はじめてメーデーに参加した。数名の有志だけであった。所は皇居前広場である。30万の人が、自分の意志で行進する姿をはじめて見た。号令によって動かされるのはない、私は感激した。
 その頃の東京は、完全な焼け野原である。人ロは少ない。校舎のない学校は廃校になる。そんなうわさが耳に入った。私どもにはショックだった。校長は、都がすべきものだという。
 折も折、東京は戦後の混乱で、食料は少なく、配給も滞りがちである。あっても大豆のしぼりかす。やみ米の買えない人はどん底である。5月19日を期して食糧メーデーが計画された。その日に、戦災学校に校舎をよこせというプラカードを掲げてゆこうということに、職員会全会一致できまった。
 その日、生徒を出す出さないは教師のロからは、すすめない事にした。だが、当日(5月19日)、「『われらに校舎をよこせ』とはだれが掲げるプラカードですか」とセーラー服姿の45名が参加してしまった。
 朝日新聞に報道され、赤旗の歌も知らない私が、赤旗をうたう彼女とされてしまった。間もなく、保証人会がひらかれた。先生がお困りなら足代は保証人会で出す。デモに出てくれるな、との意見である。私は、自分で自分に必要なものを当局に要求できなくて自立した人間といえるか、という意味の発言をした。保証人会の会長が、今、この先生がたを追放したら、第三は右むきの学校ということになるがどうか、との言葉で、すべてをおさめてくださった。その人は三条武雄氏であった。
 こうしたことがあって、都は、すぐ、駒場の今の場所を提供してくれた。校長の努力もあり、父兄の働きかけもあったと同時に、あのデモもきいたにちがいない。

 乾先生はパージ後、書家として活動し、主婦の友から本を出し、映画も製作しました。2008年、私は秋田県大館市に花岡事件のあとを訪ねました。大戦末期に419人もの中国人労働者が無残に殺された中心地に、日中両民族不再戦友好を誓う碑が建てられていました(1980年)。案内して下さった方をはじめ多くの人々のカで市教委の勘所をはずした案を、きちんと修正させたものですが、この碑文は、乾須美書となっていました。彼女の想いに心を打たれました。

 食糧メーデー前後の第三高女については、横山さんのお話を聞きましたが、彼女の文章を引用します。

長谷川靖子

 戦後のひどい食糧難の中で、食糧メーデーが行われる事を知ったのはこんな時でした。再建されたばかりの教員組合も参加の方向でした。
 「校舎よこせを訴えよう。必ず何らか道が開けるだろう」と確信して、職員会議で提案しました。日頃話べたを自認している私が、この時は「子どもたちのためにこそ、教師はあらゆる機会をとらえて訴えるべきではないか。校長先生にだけ任せていてよいのだろうか」と涙をうかべて訴えました。
 列席の先生がたも仮住まいの不便さや学業の遅れを訴え涙を流すなど、感動的な職員会議でした。
 そして全校生徒、全職員の参加がきまりました。その夜、このことを聞いたPTA幹部が校長の下へかけつけて来、翌日緊急職員会議が開かれました。生徒は有志、職員は全員参加と訂正されました。
 5月19日食糧メーデー当日、終始首うなだれてデモの先頭に立った校長先生の姿を忘れることは出来ません。生徒たちといえば、当時女学校2年だった私のクラスの子どもたちは、上級生から詰問されてこわかったと訴えながらも全員参加。「名門都立第三高女、校舎よこせで参加」の記事が翌日の新聞をにぎわしました。

『30余年の星霜を生きて』よりの引用

 (続)

 『私にとっての戦後ーそして都高教運動』(都高教退職者会 2010/5/15発行)より

≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
 今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫

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