
- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用
■こども 危機!■
[ リスト | 詳細 ]

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用
|
◆ 自己肯定感「低い子供」が減らない日本の危うさ (東洋経済)
「学力低下」や「薬物依存」に陥るリスクが高い 古荘 純一 : 青山学院大学教育人間科学部教授
![]() 『「いい親」をやめるとラクになる』などを著書に持つ医学博士・古荘純一氏によれば、日本では子どもが10歳頃から急激に「自己肯定感」が低下してしまう傾向があり、それは世界的にも珍しいことのようである。なぜ日本の子どもたちは自己肯定感を保てないのか??自己肯定感の低下がもたらす諸問題と合わせて、同氏が解説する。 最近、「自己肯定感」という言葉をよく聞くようになりました。育児に困難を抱える親は、「自己肯定感」の低さが深く関わっているのではないかと私は考えています。つまり、自分に対して否定的な感情が強く、肯定的な感情が持てないということです。 しかし、その言葉の使い方も曖昧ですので、最初に、これから述べる「自己肯定感」という言葉の捉え方についてお話ししましょう。 ◆ 「自己肯定感」と「自尊心」の違い 自分のことを自分で捉えるという概念には、心理学的には「セルフ・エスティーム」という言葉を当てるのが一般的です。その概念は「自己に対する肯定的、または否定的な態度」です。 すなわち、セルフ・エスティームという概念は、「自信を持ち、ゆったり構えること」や「自分に満足する」という、いわゆるポジティブな思考を指すだけでなく、ネガティブな側面も包括した概念に近いと思われます。 セルフ・エスティームという単語は、プラスの価値とマイナスの価値を中立的かつ客観的に表す単語、ということもできます。 セルフ・エスティームは、日本語では「自尊心」「自負心」「自己評価」「自己尊重」「自己価値」「自己肯定感」など、さまざまな用語があります。日本語の「自尊」にも中立的な意味合いがあり、一般に使用するときは自尊感情より「自尊心」という言葉が多く用いられるようです。 一方、「自己肯定感」という表現は、自分自身を肯定するということに重点が置かれています。広義には自尊感情とはほぼ同義で、否定的な側面をそのまま肯定的に受け入れるという意味で用いられていることもあります。 本来、セルフ・エスティームは、高すぎても低すぎてもよくない、というイメージがあります。よい面、悪い面を表す言葉として捉えているからです。 しかし、日本の場合には高すぎることは例外であり、自尊感情については「高めよう」という議論が一般的です。 また、「自尊感情」という日本語は、そのほかの訳語と異なり、少し頑固な人格像を意味する言葉としても捉えられ、必ずしも日本語として受け入れやすいよい響きだけを持つわけではないようです。 本記事では、基本的には「自己肯定感」という言葉を使っていきます。私たちの研究結果を引用する部分のみ「自尊感情」という言葉を使用していきます。 ◆ 10歳から「自尊感情」が急低下する 私たちが研究を進めるうちに、日本の子どものQOL(quality of life/生活の質)に大きく関係する因子が自尊感情ということがわかってきました。 小・中学生を対象にして、学校でQOLについての調査を行いました。学校に通う子どもたちを対象とした調査ですので、在籍する学年別に調査結果を公表しています。 その結果、小学3〜4年生(10歳)頃から自尊感情が低下し、中学生の年齢にかけて低下し続けていることがわかりました。 ![]() 図表:「日本とオランダを比較した自尊感情の年齢変化」 (出典:『「いい親」をやめるとラクになる』より) 私たちはオランダの子どもと比較をしました。 2007年のユニセフの子どもを対象とした幸福度調査で「孤独を感じる」と答えた子どもの割合が最少だったのがオランダだったためです。オランダの子どもでも10歳頃に自尊感情は低下する傾向はあるものの、それほど明確ではなく、思春期以降はあまり低くならないという結果でした。 ほかの国の調査結果をいくつか見ても、学年が上がるごとに自尊感情が低下するのは各国で共通ですが、これほど急激に低下している国はないようです。 QOL全体は学年が上がるにつれてゆるやかに低下していく傾向にありますが、日本の場合、自尊感情が10歳頃から急速に低下していくのが目立ちました。 この調査結果を発表したのが2009年のことです。 それから約10年が経過し、子どもを取り巻く環境は大きく変化しました。何といっても「ケイタイ」の普及が大きいと思います。文科省も、初等中等教育における学習指導でのICT(情報通信技術)活用を推進しています。 一方で、いじめの認知件数や虐待相談対応件数、発達障害の可能性がある子どもの増加などがあります。 はたして子ども自身は、日々の生活に満足しているのでしょうか??単純な比較はできませんが、調査を始めた頃と、最近の調査を比較する必要があるのではないかと考えています。 ◆ 「自己肯定感の低さ」をめぐる問題 〜「自己肯定感が低い」と子どもはどうなるのか? 自分を肯定的に捉える、あるいはありのままの自分を受け入れるということは、さまざまな困難を乗り越えて充実した人生を送るためだけでなく、他人と協調していくためにも必要なことといえます。 自分を否定的に捉えると、他人のことも否定的に捉えたり、他人からの言動を被害的に捉えたりすることで、対人関係がうまく成立しなくなってしまうからです。そうなると、コミュニケーションをとることが難しくなってしまいます。 海外の研究では、低学力、少年犯罪、薬物依存、10代の妊娠、自殺などと、自己肯定感に相関があることが指摘されてきました。 日本においても、居場所がなく不安を抱える子どもたちが増えていることが指摘されています。私の外来で診察している小〜高校生(小児の精神疾患)も、自己肯定感が低い子が多いといえます。 私たちの調査でも、QOLが低いと抑うつ度(気分が落ち込んで、思考、感情、行動に影響が出ている度合い)が高く、QOLの低下と自尊感情の低下が密接に関係している、すなわち抑うつ度が高いと自尊感情が低くなることもわかりました。 私は、自己肯定感が低いと、人間関係の構築およびその後の人生におけるストレスを乗り越えることが困難になると考えています。ささいな体験を延々と引きずり、トラウマとなってしまうのです。 子どもが自己肯定感を保つには、親の影響、とりわけ母親の影響が大きいと考えられてきました。 もちろんそれだけではなく、本人自身の要因や、民族性、環境の影響もありますが、子どもたちは主に愛着の形成時期に、母親もしくは父親が自分をどう見ているかで、自分自身の価値を推し量っていることが多いからです。 母親や周囲の大人が、子どもたちに「悪いところがたくさんあるから直さなければいけない」などと否定的なメッセージを送り続ければ、「できないのは自分が悪いからだ」と思い込んで、自分を受け入れることができず、自己肯定感は低くなります。 私がQOL調査をはじめた2000年頃から気になっているのは、子育てをしているお母さん・お父さんたち自身が自己肯定感が育まれていない、保てていないのではないか、ということです。 QOL調査では、自尊感情は小学生よりは中学生、中学生よりは高校生のほうが低い傾向があります。中高校生ではほかの国と比較しても低さが際立っていると考えています。 ◆ 自己肯定感が低いまま親になると… 子どもだけじゃなく「大人」も自己肯定感が低い? 自分自身の限界を感じれば自己肯定感は低下しますが、「それでいい」と思うことができれば、それ以上低くなりません。 問題は、日本の青年は自分自身が「それでいい」と思えないまま大人になり、社会生活を送っているのではないかということです。 ※『「いい親」をやめるとラクになる』 (書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします) https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/441304567X/toyokeizaia-22/ 私たちが使用しているQOL尺度は高校生までを対象としたものですので、高校卒業後は同じ質問では調査できません。 大人を対象とした自己肯定感の調査はいろいろありますが、広く一般を対象に行うものは仕事や夫婦生活などについても質問がありますので、単純に子ども版と比較することはできません。 推測の域を出ないのですが、自己肯定感が低い状態で社会参加したり、家庭で子育てを行うことになると、自己肯定感は回復しないのではないかと危惧しています。 結果、母親(もしくは父親)が、自分の自己肯定感が低いことを育児をしながら自分の子どもに投影してしまい(自分自身のとくに子どもの頃のネガティブな思いを自分の子どもに見いだしてしまう)、親が子どもを肯定的に評価できないと、子ども自身も自己肯定感が保てなくなるのではないか、と思っています。 『東洋経済』(2019/07/23) https://toyokeizai.net/articles/-/283232 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用
|
ブログを訪問していただき、大変ありがとうございます。
みなさん、世界人権宣言をご存知でしょうか?
国際連合を1945年に創設し、経済社会理事会の下に人権委員会を創設し、この人権委員会が世界人権宣言の起草作業に取り組み1948年12月10日、国連総会で採択しました。
現在、世界人権宣言70周年です。
小学校に入学したこどもたちには、まず「あなたには(こういう)人権が保障されているんですよ」とこどもの権利条約教えなければならないのです。
しかし、日本では、すべてのこども達と市民に、日本国憲法で保障している人類普遍の基本的人権について学校でも、各自治体の社会教育や生涯学習の中でも教えず、無視し続けています。
憲法第98条第2項に基づき、日本が1979年に批准済みの国際人権規約()と子どもの権利条約等でこどもたちに保障している、知る権利も意見表明権もそれどころか、 制服や校則でこどもたちの人権を侵害し続けています。
今度の参議院選挙は、日本政府による人権鎖国政策にピリオドをうち、すべてのこどもたちと市民に保障している人類普遍の基本的人権を保障する政府をつくることができる候補者を当選させることが最重要課題であると考えます。
ご一緒に、日本国憲法と憲法が保障している人類普遍の基本的人権尊重のしくみについて考えてみませんか?
ー・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−
◆ 「ブラック校則」を押し付ける学校の理屈 (プレジデントオンライン)
![]() ※本稿は、苫野一徳『ほんとうの道徳』(トランスビュー)の一部を再編集したものです。 学校以外ではみかけない理不尽なルールは「ブラック校則」と呼ばれている。髪型、スカートの丈、ソックスの長さ、持ち物の規定。茶髪の生徒に「地毛証明」を提出させる学校もある。熊本大学教育学部の苫野一徳准教授は「子どもたちを多かれ少なかれ管理せざるを得ない学校システムにおいては、事あるごとにその管理を強化しなければとする関心が増幅されてしまう」と警鐘を鳴らす――。 ◆ 「校則をなくせば風紀が乱れる」は本当か 学校にはおよそ市民社会とは縁遠いようなルールがたくさんあります(以下は、学校の長らく続いてきた慣習的なシステムを作り直すことを問題提起するものであって、それぞれの学校や先生を十把一絡げにして批判するものではありませんので、その点どうか誤解のないようお願いします)。 一時期、メディアでも「ブラック校則」が話題になりました。 髪型、スカートの丈、ソックスの長さ、持ち物の規定などはかなり一般的なようですが、暑くてもあおいではいけないとか、マフラー禁止とかいった校則もあるそうです。 一部の学校では、茶髪の生徒が生まれつき茶髪であるかどうかを確認するため、「地毛証明」を提出させるなどという人権侵害さえまかり通っている始末です(人権侵害という強い言葉を用いるのは、この行為が、日本人〔人間?〕としてのあるべき髪の毛の色を定める選別的発想に基づくものだからです)。 これらの校則は、一体何のためにあるのでしょうか? 多くの場合、ただ長年の慣習が見直されることなく続いてきたのだと思いますが、同時に、その深層には、子どもたちを統制し、管理しやすくするためというシステムの動機が潜んでいるのではないかとわたしは思います。 いや、それは子どもたちの身を守るためなのだ、なんていう声も時折聞きます。マフラーが自転車などにからまったら危ないからとか、服装や頭髪が乱れれば風紀が乱れるからとかいった理由です。 校則をなくせば風紀が乱れるというよくある意見については、実は真逆の実例がいくつもある(※)のですが、百歩譲って、細かな校則は子どもたちの安全を守るためだという言い分を認めたとしましょう。 ※たとえば、かつては「荒れた学校」で、教師もそれを力で押さえつける指導をしていたという世田谷区立桜丘中学校は、2010年に校長に就任した西郷孝彦校長が、徐々に校則を全廃、「生徒が三年間楽しく過ごせる学校」を目標に学校づくりを行うことで、今ではいじめが激減、校内暴力も消え、学力も区のトップレベルになりました。ご興味のある方は、インターネット等で調べていただければと思います。 https://wind.ap.teacup.com/people/13901.html ◆ 「何も考えない大人」に育ってしまう でも、それにもやはり限度があるはずです。 改めて、そもそも学校は何のためにあるのか、そして、ルールは何のためにあるのかを考えたいと思います。 学校は、子どもたちに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台にして、すべての子どもたちが「自由」になるための力を育むためのものです。 そしてルールは、すべての人たちが、できるだけ「自由」に生きられるようになるためにつくり合うものです。 右に挙げた校則は、この学校およびルールの本質を、ちゃんと満たしていると言えるでしょうか? あれをしろ、これをしろ、あれをするな、これをするな。……そう言われ続けて育った子どもたちは、誰かの命令に従うだけの、自分では何も考えない大人に育ってしまうかもしれません。 危ないから、と言ってさまざまなことを禁止されてばかりいたら、自ら危険を察知し、回避する経験を積むこともできません。 理不尽なルールを与えられた子どもたちは、もちろん反発もするでしょう。 でも、そんな中で長い時間を過ごせば、言葉を選ばず言えば”飼い馴らされ”、とりあえず上から与えられたルールに従っておけば楽、なんていう感性を身につけたりもするかもしれません。 他者に対しても、あれをしろ、これをするなとばかり言って、他者の「自由」を認められない大人になってしまうかもしれません。 ◆ 「管理」のために校則があるのではないか ミシェル・フーコーという20世紀フランスの哲学者は、学校は子どもたちを権力に従順にする装置であると言いました。校則、制服、号令、テスト……。あらゆる仕掛けを使って、学校は子どもたちを権力に都合のいい規律に従うよう訓練しているのだと(『監獄の誕生』)。 わたしは総体的にはフーコーの哲学には批判的なのですが、それでもなお、この告発には一定の説得力があるように思います。多くの学校において、まさに校則とは、子どもたちの「自由」を縛り、教師が集団を「管理」しやすくするためのものになってしまっているのです。 でも、それはやっぱり、子どもたちの「自由」を実質化する学校教育の本来の使命から遠く隔たったことと言わざるをえません。 先にも触れたジョン・デューイは、民主主義にとって最も重要なのは、一人ひとりの自由な関心に基づく探究と、自由なコミュニケーションであると言いました。この二つのない社会は、全体主義の社会です。だから学校もまた、これらを土台にしなければならないのだと(『民主主義と教育』)。 ◆ 「無言清掃」「無言給食」は健全なのか でも、今の多くの学校の現状はどうでしょう? まず自由なコミュニケーションについて言うと、「主体的・対話的で深い学び」が言われるようになった今でさえ、「黙って座って先生の話を聞く」授業は、多くの学校でまだまだ根深く見られます。「無言清掃」や「無言給食」などが行われている学校もたくさんあります。 そんな環境の中で、子どもたちは、コミュニケーションの仕方を十分に学び「相互承認」の感度を育むことができるでしょうか? 何が何でも絶対にダメ、とは言いません。でも、少なくともわたしたちは、たとえば「無言清掃」や「無言給食」が一体何のためになされているのか、子どもたちと共に定期的に問い直す必要があるはずです。 分刻みで動かなければならない学校の先生にとって、子どもたちが掃除や給食の時間にダラダラおしゃべりして過ごしていては、時間がいくらあっても足りないという本音は分かります。でもそんな理由で、わたしたちは子どもたちのコミュニケーションの機会を奪ってしまってもいいのでしょうか。 目的と手段を、取り違えないようにしたいと思います。 学校教育の根本使命は、子どもたちの「自由」とその「相互承認」の感度を育むことです。この目的のために、学校は何をするべきか。何をしないべきか。わたしたちは常にそのように考える必要があるのです。 ◆ 子ども同士の「コミュニケーションの時間」は足りない 時間に余裕がないのであれば、どうすれば余裕をつくれるかを考えたいものです。もしかしたら、掃除をする日を減らしてみてもいいかもしれません。別の余計な時間を見つけて、そちらを削ってみる必要もあるかもしれません。 「無言清掃」は、黙って精神を統一し、自分と向き合う時間、という側面もあるそうです。それはそれでいいでしょう。でも、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの時間を奪ってまで、そのような時間を設ける必要があるのかどうか、わたしたちはやっぱり、定期的に問い直す必要があるのではないかと思います。 「ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーション」。そうわたしは言いました。これについては、「ほんとうかな? 」と思われた方もいるかと思います。確かに、学校をのぞいてみると、いたるところから子どもたちの声が聞こえてきます。一見、豊富なコミュニケーションがなされているように思えます。 ◆ 関わっているのは「仲良しグループ」だけ でも、みなさんもちょっと思い出してみてください。学校に行った時、コミュニケーションをとるのは、クラスの中の実はごく一部の友達だけだったのではないでしょうか? 「黙って、座って、先生の話を聞いて、ノートを取る」のが主流で、「協同的な学び」や「探究(プロジェクト)型の学び」がまだ十分になされていない学校では、こうしたことが起こります。 友達とコミュニケーションができるのは、休み時間や部活の時間などにかぎられます。「仲よしグループ」だけでそのほとんどを過ごすことになるのは、ある意味では当然のことなのです。 ちなみに、給食や清掃を含む「特別活動」の目標について、新学習指導要領には「多様な他者との協働」が挙げられています。 給食については、学校給食法に「明るい社交性及び協同の精神を養う」とあります。 無言清掃・無言給食は、少し大げさに言えば、これらに抵触する可能性があるとも言えるかもしれません。 熊本市教育長の遠藤洋路さんは次のように言っています。 「新指導要領では、学校活動の前提が『同質の集団』ではなく『多様な他者』であることがより明確になった。無言清掃・無言給食に限らず、学校活動全体が、同質集団を前提とした『無言の圧力』を助長するものになっていないか厳しく見直す必要がある」と(熊本日日新聞2018年12月12日夕刊)。 ◆ 「決められたことを、決められた通りに学ぶ」は周回遅れ デューイの言う、一人ひとりの自由な関心に基づく探究についてはどうでしょう? 日本の学校のカリキュラムは、今なお、「決められたことを、決められた通りに、みんなで同じペースで学ぶ」ものとしてつくられています。 多くのヨーロッパの国々が、はっきりと「探究(プロジェクト)型の学び」への方向転換を打ち出しているのに比べると、周回遅れの感があります。 これからの時代に特に重要なのは──ほんとうは何もこれからの時代にかぎった話ではないのですが──自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えを見出していく、そんな豊かな「探究」の経験です(詳細は、拙著『教育の力』講談社現代新書、や『「学校」をつくり直す』河出新書、をご参照いただければ幸いです)。 変化が激しく、かつての正解が正解ではなくなってしまった現代社会において、これは特に大事な経験です。 もはや言われ尽くしたことですが、いい学校に行き、いい大学に行き、いい会社に入れば幸せになれるというストーリーは、今ではほとんど崩壊しています。いつ会社がつぶれるか分からないし、いつリストラされてしまうかも分かりません。幸せになるための、決まった道があるわけではないのです。 社会も、格差問題やエネルギー問題、テロリズム問題等、人類がこれまでに経験したことのない問題にあふれています。 ◆ 「決められたことだけやっていればいい」子どもを育てている そんな時代にあっては、子どもたちは、これまで正解とされてきたことばかり学ぶのではなく、自分たち自身で問いを立て、そしてそれに答えていく経験を、たっぷり保障される必要があるはずです。 でも、日本の子どもたちの多くは、今なお出来合いの問いと答えを中心に勉強させられて、そもそも自分で問いを立てるという経験すら十分に保障されていないのが現状です。そんな経験が不足したまま成長した大人が、この市民社会の成熟した成員になれるものか、わたしはちょっと心もとなく思います。 自分で問いを立て、それに答える力が十分育まれないだけではありません。決められたことだけやっていればいい、社会は誰かエラい人たちが動かしてくれたらいい。そんなふうに考える子どもたちを、わたしたちは育ててしまっているかもしれません。 100年以上も前に、デューイは「協同的な学び」や「探究型の学び」を提言し、先述したデューイ・スクールにおいて自ら実践しました。それは何よりもまず、子どもたちのうちに市民社会の担い手としての精神を育んでいくため、つまり、「自由」とその「相互承認」を実質化するためでした。 自由なコミュニケーションと自由な探究を通して、学校やクラスを自分たちの手でつくり合っていくこと。それは、「協同」や「探究」の最も基本的な経験にほかなりません。 ---------- ※ 苫野 一徳(とまの・いっとく) 熊本大学教育学部准教授 1980年兵庫県生まれ。熊本大学教育学部准教授。哲学者、教育学者。主な著書に、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『教育の力』(講談社現代新書)、『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)がある。幼小中「混在」校、軽井沢風越学園の設立に共同発起人として関わっている。 ---------- 『プレジデントオンライン - Yahoo!ニュース』(2019/6/27) https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190627-00029089-president-soci |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用









