今 言論・表現の自由があぶない!

弾圧と戦争が手をつないでやってきた! 即時閣議決定すべきは個人通報制度批准!! ピース9 国連経済社会理事会正式協議資格NGO

■こども 危機!■

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全164ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


  =小6社会科教科書=
 ◆ 「天皇への敬愛の念」教化を続ける文科省
 (紙の爆弾)
取材・文 . 永野厚男

クリックすると元のサイズで表示します
「れる」「陛下」―と、二重敬語の日文教科書

 ◆ 右派勢力と文科省が癒着し右傾化進む
 学校が教育課程を編成したり、教科書会社や執筆者が小中高校等の教科書を執筆・編集・発行したりする際、文科省が「大綱的基準として法的拘束力あり」とする学習指導要領(以下、指導要領)。
 渡海紀三朗(とかいきさぶろう)文部科学大臣(当時。以下同)が二〇〇八年三月二十八日に告示した現行指導要領の、原案が公表された同年二月十五日、現首相・安倍晋三氏側近の衛藤晟一(せいいち)・自民党参院議員が文科省を訪れた。面会相手は、当時同省教育課程課長だった高橋道和(みちやす)氏と、同氏の部下で教育課程企画室長だった合田(ごうだ)哲雄氏(現財務課長)。


 この〇八年指導要領は、
 ①改定教育基本法の〝国を愛する態度〟育成を「第1章・総則」(全学年の全教科・領域を拘束)に盛り、
 ②小学校音楽の〝君が代〟を「いずれの学年においても」(即ち1年生=六〜七歳児から)と「指導する」の間に「歌えるよう」と加筆する等、政治色の濃い内容だ(以下、傍点は筆者)。
 ①は〇六年の第一次安倍内閣が改定を強行した教育基本法が響き、原案時点から盛り込まれていた。だが、②は原案にはなかったものだ。

 小学校指導要領の「音楽」における〝君が代〟の変遷を振り返る。
 一九八九年三月十五日、西岡武夫文部大臣が官報告示した時は、「国歌『君が代」は、各学年を通じ、児童の発達段階に即して指導すること」と、成長・発達段階を配慮する文言が、一応は入っていた(ただし卒業式等、学校行事での”君が代”の強制は格段に強化)。
 九八年十二月十四日、有馬朗人(あきと)文部大臣告示時から「いずれの学年においても指導すること」とし、成長・発達段階を配慮する文言が消えてしまった。

 だが○八年指導要領の原案は、この九八年の文言を踏襲していた。
 ところが衛藤氏は、その「いずれの学年においても指導すること」との文言にも飽き足らず、「これでは抜け道だらけだ。改正された教育基本法が空文化する」と高橋氏らに迫った。この「抜け道」について、衛藤氏は「児童が『君が代』を歌えるようにならなくても教員は『指導はした』といえば済まされてしまう。『歌えるよう』指導するといった『到達目標』を明記しなければ、教育現場は変わらないのではないか」と指摘したと、産経新聞(○八年二月二十三日付)は報じている。

 衛藤氏の所属する日本会議系の団体である日本教育再生機構(八木秀次(ひでつぐ)・理事長)は、「改定教育基本法・改定学校教育法の教育目標」(当然ながら”国を愛する態度”を念頭に置く言い方)「音楽共通教材の文部省唱歌」「大日本帝国憲法制定の積極的意義」「近現代史教育の自虐史観」「自衛隊」等で雛型の”参照用コメント”まで作り、組織的なパブリックコメント工作を行なった(宛先の文科省教育課程企画室のメールアドレス・ファックス番号を明記)。

 ○八年五月〜六月、筆者は研究者・元教職員・保護者らと文科省に延べ十五時間足を運び、『広辞苑』ほどの厚さのファイルニ十冊に無造作に綴じた(もちろん目次も頁数も何もなく、読みづらい)パブコメの束を閲覧したところ、”君が代・天皇・神話教育・自衛隊”等で政府・自民党や前出政治団体の施策・見解・主張に沿う記述を求める、同一筆跡や改行箇所が(中には誤字まで)同じパブコメが百通・二百通規模で見つかった。

 ところで、指導要領の原案公表から告示までの一カ月ちょっとの期間は、これまで、テニヲハやデータ的な修正はあっても、”君が代”を「歌えるよう」と加筆する、日本国憲法第一九条・二十条・二一条の「思想・良心・信教・表現の自由」の侵害に直結する根幹的な変更を、文科省が強行することはなかった。
 だが高橋氏・合田氏らは、やってしまった。

 合田氏が教育課程課長となり二年経った一七年三月三十一日改訂の新指導要領は、全校種(”国”の概念や天皇の憲法上の位置付けの理解が困難な年齢の幼稚園教育要領に至るまで)、「総則」の直前に新設した前文にまで、前出①の”国を愛する態度”を盛った。
 ②も”君が代”に「親しむ」という文言を幼稚園でも明記してしまった。
 ”君が代”は新指導要領より遥か前から、小1〜小6の音楽教科書全てに楽譜入りで、小6の社会科教科書全てに五輪絡みで登場し、次の世代、さらに若い世代へと教え込まれ続けている。

 文科省官僚と保守系政治家・政治勢力との癒着(パブコメエ作を含む)が、学校教育の政治的中立性を歪(ゆが)めているのは明白だ。
 ちなみに、道徳教育強化を目玉にした○八年指導要領策定の実質的責任者だった高橋氏はその後、出世街道を歩んだが、民間企業から高額飲食接待を受けた国家公務員倫理法違反で懲戒処分を受け、一八年九月二十一日に初等中等教育局長を辞任し退職している。

 ◆ “天皇への敬意”の強制教化は?

 教科書編集・執筆で大綱的に基準となる小学校学習指導要領は、一九六八年七月十一日の灘尾弘吉(ひろきち)文部大臣告示時から、小学校の6年社会はずっと「天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすることが必要である」という文言で拘束。”神話教育”強制も入れ続けている(これらは五八年十月一日告示の指導要領にはない。【注】参照)。
 だが、一五年三月まで使用されていた社会科教科書の天皇の記述は、筆者が調べた限り、つくる会系の中学校社会科”教科書”を除き、執筆者の良識が働き、他の人々と平等に、特に敬語(尊敬語)を使わず記述していた。

 しかし、一五年四月使用開始の小学校社会科教科書から、文科省が検定意見を付けた形跡はないのに、教科書会社(当時は四社)のうち、教育出版(以下、教出)・日本文教出版(日文)・光村図書の三社が「れる・られる」「陛下」という敬語を”自主的”に重複使用するよう変節してしまった(詳細は『マスコミ市民』一五年十一月号拙稿)。
 こういう状況下、東京書籍(東書)は天皇の”公的行為”として被災地訪問の写真一枚の掲載に留め、「天皇は、国事行為のほかにも、こうした公的な仕事を行います」と敬語なしで記述している。

 ◆ 来年度使用開始教科書天皇に三社とも敬語使用

 二〇年四月使用開始(今夏、全国の教委が採択)の小6社会科教科書は、天皇については三社(光村図書が撤退)全て、政治編と歴史編との両方で記述している。今回は政治編に絞り、その記述を分析する。
 「陛」宮殿の階段の意で、「陛下」は「階下にいる近臣を通じて奏上する」意からできた敬語である。今回は東書までこの敬語を用い、三社とも横並びになってしまった。
 教出と日文がさらに「れる・られる」と敬語を二重使用した意図を、ベテラン教員は「自治体の長が任免する教育委員は、(沖縄県等を除き)保守系議員が多数を占める議会の同意を要するので、全国的に保守的な人の方が多い。そういう委員たちに採択してもらえるよう、天皇への敬語を重ねているのではないか」と分析している。

 ◆ 東京書籍

 東書は大きく二回に分け、天皇に言及している。一箇所目は、憲法の「国民主権」を記述した後に続く。
 一七頁でまず、「日本国憲法では、天皇は、日本の国や国民のまとまりの象徴(しるし)であり、政治については権限をもたないとされています。天皇は憲法に定められている仕事(国事行為)を内閣の助言と承認にもとついて行います」と本文に記述。
 続いて「国会を召集。衆院を解散する。国務大臣を任免することや大使の信任状などを認証すること」等の国事行為を箇条書きした囲みでは、天皇に深く頭を垂れているモーニング姿の国務大臣らしき人物の小さい写真を掲載。
 そして右下に、正座したり深く頭を垂れたりしている被災者に、笑顔で接する明仁氏・美智子氏のやや大きい二枚目の写真を、「被災地を訪問し、人々をはげます天皇・皇后両陛下 天皇は国事行為のほか、こうした公的な仕事を行います」というキャプション付きで載せている。
 「れる・られる」は使わなかったものの、東書まで「陛下」という敬語を使用するようになってしまったのだ。
 二箇所目は、「国民の祝日」の中で、「天皇の誕生日を祝う」と天皇誕生日を説明した二九頁。ここでは特に敬語は使用していない。

 ◆ 教育出版

 教出も憲法の「国民主権」を記述した後、天皇の記述を一七頁で一頁分に集約し掲載。
 まず「国会の開会式に出席する天皇陛下」のキャプションの写真(参院本会議場の議長席より三段高い”御席”なる位置で、明仁天皇が巻物のような紙を読み上げ、下の方に並ぶ国会議員らが起立し聞いている)を、「…国会の開会は、天皇が文書で公布します。これを『国会の召集』といいます。天皇は、憲法で定められた国事行為の他にも、全国植樹祭への出席や災害で被災した地域への訪問などの、さまざまな仕事も行います」という説明と一緒に載せている。
 東書同様、「陛下」という敬語を使ったが、この他の敬語は使用していない。
 そして、この下の本文では、「憲法では、天皇を『日本国の象徴』と定めています。国民主権のもとでは、天皇は国の政治についての権限はもたず、憲法で定められた仕事(国事行為)を行います」と記述している。
 そして右横に、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定した日本国憲法第一条を、「基」を平仮名にするなどし、そのまま引用。その下に「憲法で定められた天皇の主な国事行為」として、東書同様囲みで、「(第六条)内閣総理大臣、最高裁判所長官の任命」を、続けて「(第七条)憲法改正、法律や条約の公布」等を、箇条書きで載せている。
 この後、「災害からわたしたちを守る政治」の選択単元の五一頁右側・四枚のやや大きい写真の二番目に、「避難所を訪問される天皇陛下」のキャブションで、脆(ぴざまず)き被災者に語りかける明仁氏の写真を載せている。「れる」と「陛下」という敬語の重複使用だ。

 ◆ 日本文教出版

 日文も憲法の「国民主権」を記述した後、天皇は一三頁の「学習資料日本国憲法と天皇」という枠で掲載。
 まず、「日本国憲法では、天皇は日本の国や国民のまとまりの象徴であり、その地位は、国民全体の理解にもとつくと定められています。象徴である天皇には、国の政治に関する権限はなく、内閣の助言と承認にもとついて、憲法に定められた仕事をおこないます」と記述。
 その下に東書・教出同様、「天皇のおもな仕事」を箇条書きし、「文化勲章を授与する天皇」のキャプション付き写真を掲載。頭の下げ方は、明仁天皇も白髪の受賞者もほぼ同角度だ。
 右側には「東日本大震災の被災地を訪問される天皇・皇后両陛下」というキャプションで、東書一七頁と同じシーンの写真を載せ、「天皇は、憲法で定められた仕事以外にも、全国植樹祭・国民体育大会への出席や、被災地への訪問・はげましなどもおこなっています」と説明している。
 教出同様、「れる」と「陛下」という敬語の重複使用だ。

 【注】
 指導要領の”天皇への敬愛の念”教化の文言は約五十年間、同じだが、高橋氏・合田氏らは○八年六月、『小学校学習指導要領解説、社会編』に次のように、国事行為以外も加筆してしまった。
 〈「天皇の地位」については、例えば、国会の召集、栄典の授与、外国の大使等の接受などの国事行為や、国会開会式への出席、全国植樹祭・国民体育大会への出席や被災地への訪問・励ましといった各地への訪問などを通して、象徴としての天皇と国民との関係を採り上げ、天皇が日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることを理解できるようにする。また、(指導要領の)内容の(2)の歴史学習との関連に配慮し、天皇が国民に敬愛されてきたことを理解できるようにすることも大切である。これらの指導を通して、天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにする必要がある。〉
 『解説』は法的拘束力なき、文科省著作の参考資料に過ぎないのに、教科書の編集者らはバイブルのように縛られてしまうのだ。

 ※ 永野厚男(ながのあつお)
 文科省・各教委等の行政や、衆参・地方議会の文教関係の委員会、教育裁判、保守系団体の動向などを取材。平和団体や参院議員会館集会等で講演。


『紙の爆弾』(2019年9月)

第9回「日の丸・君が代」問題等全国学習・交流集会資料から(24)市民・諸団体④  


 ◆ 道徳の教科化をどう受け止めるか
   −教室から見た「特別の教科道徳」−

宮澤弘道

 1.「否定しなくてはいけない」道徳へ

 よく、様々な方から聞かれる質問に、「で、結局今までの道徳と何が違うのですか。」という質問があります。
 たしかに傍から見れば「週1時間の授業で」「今までと同じような教材文を使用し」「話し合う」という構図に変わりはないため、違いが分かりにくいです。またこのことが、道徳の教科化問題を皆で共有できない理由かと思います。
 たしかに教科化されたことによる大きな変化はないように感じますし(内容項目もほとんど変わっていません)、実は教員も多くは質的変化を感じていません。しかし実際には、その性質は180度変わったといっても過言ではないのです。
 結論から言うと[子どもの意見を否定してはいけない道徳]から[子どもの意見を否定しなくてはならない道徳]へとその性質を180度変えてしまったのです。


 例えば授業中にある子がその授業のねらいとする価値とは異なる発言をしたとしましょう。
 従前の道徳の一番のルールは「子どもの意見を否定してはいけない」でしたので、教員の反応としては、理解しようと努力したり、最悪でも「板書しない」といったところまでで止まっていました。

 しかし教科化されたことにより、教えるべき内容が書かれた「教科書」と「評価基準」ができてしまったため、教科書の価値と異なる反応を示した子について無視できなくなってしまったのです。
 とはいえ、「君の意見は間違っている!」とは言えません。ではどうするか。
 同調圧力が最も簡単な方法と言えるでしょう。「○○さんはああ言っているけれどみんなはどう思う?」と問い返すことで、多数派の意見に潰される場面を私自身、多く見てきました。

 2.困らない教員

 もう一つ、1つの価値に子どもを誘導し評価することに関して現場教員はさぞかし困っているのではないか、という質問もよく聞きます。しかしこれも、実は多くの教員は困っていません。
 なぜなら現場には、「教科書」「指導書(1時間ごとの授業の流れや教員の問いかけ、予想される子どもの反応などがかかれた授業台本)」「ワークシート(プリント)」「評価文例集」の4点セットがあるからです。
 道徳の本質に向き合うことさえしなければ、教員は「困らずに」道徳の授業ができてしまうのです。

 教員の中ではこんな声もよく聞きます。「いやー、私、道徳って苦手な教科だったんですけど、教科化されてからは教えやすくなってよかったです。」と。「教えやすい」ということはそれだけ「価値を押し付けている」ことに他ならないにも関わらず…。

 3.道徳の授業をどうデザインするか

 ではこの道徳の教科化に関し、現場はどうすればよいのか。ここでは授業方法と評価方法に分けて、それぞれ可能性を探りたいと思います。

 【授業方法】
 教科書にある読み物教材を中心とした教材では、あからさまに「権力が規定したふさわしい態度・考え方」が示されることになるのですが、それはあくまで教材文を最後まで読んだら、ということです。
 そこで提案したい授業方法が「中断読み」です。

 教科書会社8社全てで採用された6年生の教材「手品師」を例に説明したいと思います。手品師のあらすじはこうです。
 あるところに腕はいいのだが売れない手品師がおり、その日暮らしの生活を送っていた。そんな手品師がある日公園で手品の練習をしていると、父と死別し、仕事で忙しくなかなか会えない母の元で寂しい生活を送っている男の子と出会った。男の子は手品師の手品に感激し、手品師は翌日もこの公園で手品を見せる約束をする。しかしその日の夜、明日行われる大きな手品のステージに立てる依頼が来る。手品師は「迷いに迷って」、結果、男の子との約束を優先し、ステージのチャンスは断る。翌日手品師は男の子の前で「次々と」
 この教材の内容項目は「正直・誠実」です。この物語を最後まで読んで議論する通常の授業法で授業すると、子どもたちの感想は
  「げきじょうにいかないで男の子のほうをえらぶのはいい人だなと思った。」
  「どんなに自分にとって大切なことでも約束は守らなければいけないことがわかった。」
 等、ほとんどの子どもがこの教材の求める価値に寄り添った感想を書いていました。

 しかし「中断読み」で、最後まで物語を見せずに”「手品師はまよいに、まよっていました。」までで読むのをやめて議論させると、多くの子どもは
  「男の子を大劇場のスデージに招待すればいい」
 という意見になり、またその他にも、
  「まよう必要なんてない。貧乏なんだから大劇場に行くべきだ。お金は大切だ!(母子家庭の子)」や、
  「おとうさんがいないのだから、手品師とお母さんが再婚すればいい!そうすれば毎日手品を見られるし、男の子も家族ができてしあわせだ!(再婚家庭の子)」等、
 生活体験を元に子どもの優しさやしなやかさが発揮された面白い議論で盛り上がりました。
 その後、続きの話を一人ひとりに書いてもらい、皆で立ち歩きながら読み合うという授業展開です。
 当然最後まで教科書の結末は見せません。教科書を使っても子どもたちの内心を操作しない指導方法として「中断読み」を提案したいと思います。

 【評価方法】
 評価できない性質の道徳に対し、2つの評価方法を提案したいと思います。

 (1)通知表に道徳の評価欄を設けない
 実は通知表は公簿ではなく、各学校のサービスで出しているような性質のものであるため、通知表の内容は各学校に任されています。そこで、評価欄を設けないことで子どもや保護者に評価を示さずに済むという方法です。
 しかしこれでは結局公簿である指導要録に載ることには変わりがないため、あくまで、本人・保護者に見せない、という方法です。

 (2)価値を入れない評価を行う
 一見内面を評価しているようで、その実、全くその子の内面を評価しないという方法であり、具体的な文面は例えば以下のようになりますが、ポイントは「自分の考えを広げたり深めたりすることができました。」の一文です。
 この一文が入ることで、その子の内心を学校という権力が評価することを防ぐことができます。
 主として他の人との関わりに関することについて、友だちの意見を聞きながら、自分の考えを広げたり深めたりすることができました。
 4.おわりに

 道徳の教科書8社全ての教材に共通していることがあります。それは「自己責任論が貫かれている」です。
 道徳教育は人権教育と異なり、個人の生き方にまなざしが向く教育です。ですからどうしてもあらゆる事象が自己責任に帰結してしまうのです。

 そのため、例えば戦争を扱う教材であっても戦争そのものには触れずに、「戦火の中でも道徳的に正しく生きる市民像」を学ばせようとしています。
 戦争が起こらない社会をつくるのではなく、戦争が起こっても従順で全て自己責任になる社会をつくりたいからに他ならないわけですが…。

 また、たまに、「こうなったら私たちも教科書を作りましょう!」と言われることがあります。
 しかしこれは絶対にやってはいけません
 教科教育は科学だからです。一般化・体系化できるから教科書が作れ、評価ができるのです。
 ですから教科書を作るということは「科学の否定」「権力による内心への介入」に直結してしまうのです(それがどんな内容であろうとも)。

 ですから読者の皆さんにはぜひ道徳の内容の良しあしで語るのではなく、道徳という枠組みそのものを否定してもらえたらと思います。
 そして教科書や評価を伴ってしまう道徳という枠組みの外側で「人権教育」を推進していきましょう。


 ◆ 自己肯定感「低い子供」が減らない日本の危うさ (東洋経済)
   「学力低下」や「薬物依存」に陥るリスクが高い
古荘 純一 : 青山学院大学教育人間科学部教授

クリックすると元のサイズで表示します

 『「いい親」をやめるとラクになる』などを著書に持つ医学博士・古荘純一氏によれば、日本では子どもが10歳頃から急激に「自己肯定感」が低下してしまう傾向があり、それは世界的にも珍しいことのようである。なぜ日本の子どもたちは自己肯定感を保てないのか??自己肯定感の低下がもたらす諸問題と合わせて、同氏が解説する。

 最近、「自己肯定感」という言葉をよく聞くようになりました。育児に困難を抱える親は、「自己肯定感」の低さが深く関わっているのではないかと私は考えています。つまり、自分に対して否定的な感情が強く、肯定的な感情が持てないということです。


 しかし、その言葉の使い方も曖昧ですので、最初に、これから述べる「自己肯定感」という言葉の捉え方についてお話ししましょう。

 ◆ 「自己肯定感」と「自尊心」の違い

 自分のことを自分で捉えるという概念には、心理学的には「セルフ・エスティーム」という言葉を当てるのが一般的です。その概念は「自己に対する肯定的、または否定的な態度」です。
 すなわち、セルフ・エスティームという概念は、「自信を持ち、ゆったり構えること」や「自分に満足する」という、いわゆるポジティブな思考を指すだけでなく、ネガティブな側面も包括した概念に近いと思われます。
 セルフ・エスティームという単語は、プラスの価値とマイナスの価値を中立的かつ客観的に表す単語、ということもできます。
 セルフ・エスティームは、日本語では「自尊心」「自負心」「自己評価」「自己尊重」「自己価値」「自己肯定感」など、さまざまな用語があります。日本語の「自尊」にも中立的な意味合いがあり、一般に使用するときは自尊感情より「自尊心」という言葉が多く用いられるようです。

 一方、「自己肯定感」という表現は、自分自身を肯定するということに重点が置かれています。広義には自尊感情とはほぼ同義で、否定的な側面をそのまま肯定的に受け入れるという意味で用いられていることもあります。

 本来、セルフ・エスティームは、高すぎても低すぎてもよくない、というイメージがあります。よい面、悪い面を表す言葉として捉えているからです。
 しかし、日本の場合には高すぎることは例外であり、自尊感情については「高めよう」という議論が一般的です。

 また、「自尊感情」という日本語は、そのほかの訳語と異なり、少し頑固な人格像を意味する言葉としても捉えられ、必ずしも日本語として受け入れやすいよい響きだけを持つわけではないようです。
 本記事では、基本的には「自己肯定感」という言葉を使っていきます。私たちの研究結果を引用する部分のみ「自尊感情」という言葉を使用していきます。

 ◆ 10歳から「自尊感情」が急低下する

 私たちが研究を進めるうちに、日本の子どものQOL(quality of life/生活の質)に大きく関係する因子が自尊感情ということがわかってきました。

 小・中学生を対象にして、学校でQOLについての調査を行いました。学校に通う子どもたちを対象とした調査ですので、在籍する学年別に調査結果を公表しています。
 その結果、小学3〜4年生(10歳)頃から自尊感情が低下し、中学生の年齢にかけて低下し続けていることがわかりました。
クリックすると元のサイズで表示します
図表:「日本とオランダを比較した自尊感情の年齢変化」
(出典:『「いい親」をやめるとラクになる』より)

 私たちはオランダの子どもと比較をしました。
 2007年のユニセフの子どもを対象とした幸福度調査で「孤独を感じる」と答えた子どもの割合が最少だったのがオランダだったためです。オランダの子どもでも10歳頃に自尊感情は低下する傾向はあるものの、それほど明確ではなく、思春期以降はあまり低くならないという結果でした。

 ほかの国の調査結果をいくつか見ても、学年が上がるごとに自尊感情が低下するのは各国で共通ですが、これほど急激に低下している国はないようです。
 QOL全体は学年が上がるにつれてゆるやかに低下していく傾向にありますが、日本の場合、自尊感情が10歳頃から急速に低下していくのが目立ちました。

 この調査結果を発表したのが2009年のことです。
 それから約10年が経過し、子どもを取り巻く環境は大きく変化しました。何といっても「ケイタイ」の普及が大きいと思います。文科省も、初等中等教育における学習指導でのICT(情報通信技術)活用を推進しています。

 一方で、いじめの認知件数や虐待相談対応件数、発達障害の可能性がある子どもの増加などがあります。
 はたして子ども自身は、日々の生活に満足しているのでしょうか??単純な比較はできませんが、調査を始めた頃と、最近の調査を比較する必要があるのではないかと考えています。

 ◆ 「自己肯定感の低さ」をめぐる問題
   〜「自己肯定感が低い」と子どもはどうなるのか?


 自分を肯定的に捉える、あるいはありのままの自分を受け入れるということは、さまざまな困難を乗り越えて充実した人生を送るためだけでなく、他人と協調していくためにも必要なことといえます。

 自分を否定的に捉えると、他人のことも否定的に捉えたり、他人からの言動を被害的に捉えたりすることで、対人関係がうまく成立しなくなってしまうからです。そうなると、コミュニケーションをとることが難しくなってしまいます。

 海外の研究では、低学力、少年犯罪、薬物依存、10代の妊娠、自殺などと、自己肯定感に相関があることが指摘されてきました。
 日本においても、居場所がなく不安を抱える子どもたちが増えていることが指摘されています。私の外来で診察している小〜高校生(小児の精神疾患)も、自己肯定感が低い子が多いといえます。

 私たちの調査でも、QOLが低いと抑うつ度気分が落ち込んで、思考、感情、行動に影響が出ている度合い)が高く、QOLの低下と自尊感情の低下が密接に関係している、すなわち抑うつ度が高いと自尊感情が低くなることもわかりました。

 私は、自己肯定感が低いと、人間関係の構築およびその後の人生におけるストレスを乗り越えることが困難になると考えています。ささいな体験を延々と引きずり、トラウマとなってしまうのです。

 子どもが自己肯定感を保つには、親の影響、とりわけ母親の影響が大きいと考えられてきました。
 もちろんそれだけではなく、本人自身の要因や、民族性、環境の影響もありますが、子どもたちは主に愛着の形成時期に、母親もしくは父親が自分をどう見ているかで、自分自身の価値を推し量っていることが多いからです。

 母親や周囲の大人が、子どもたちに「悪いところがたくさんあるから直さなければいけない」などと否定的なメッセージを送り続ければ、「できないのは自分が悪いからだ」と思い込んで、自分を受け入れることができず、自己肯定感は低くなります。

 私がQOL調査をはじめた2000年頃から気になっているのは、子育てをしているお母さん・お父さんたち自身が自己肯定感が育まれていない、保てていないのではないか、ということです。
 QOL調査では、自尊感情は小学生よりは中学生、中学生よりは高校生のほうが低い傾向があります。中高校生ではほかの国と比較しても低さが際立っていると考えています。

 ◆ 自己肯定感が低いまま親になると…
   子どもだけじゃなく「大人」も自己肯定感が低い?


 自分自身の限界を感じれば自己肯定感は低下しますが、「それでいい」と思うことができれば、それ以上低くなりません。
 問題は、日本の青年は自分自身が「それでいい」と思えないまま大人になり、社会生活を送っているのではないかということです。


 ※『「いい親」をやめるとラクになる』
 (書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/441304567X/toyokeizaia-22/
 私たちが使用しているQOL尺度は高校生までを対象としたものですので、高校卒業後は同じ質問では調査できません。
 大人を対象とした自己肯定感の調査はいろいろありますが、広く一般を対象に行うものは仕事や夫婦生活などについても質問がありますので、単純に子ども版と比較することはできません。

 推測の域を出ないのですが、自己肯定感が低い状態で社会参加したり、家庭で子育てを行うことになると、自己肯定感は回復しないのではないかと危惧しています。
 結果、母親(もしくは父親)が、自分の自己肯定感が低いことを育児をしながら自分の子どもに投影してしまい(自分自身のとくに子どもの頃のネガティブな思いを自分の子どもに見いだしてしまう)、親が子どもを肯定的に評価できないと、子ども自身も自己肯定感が保てなくなるのではないか、と思っています。

『東洋経済』(2019/07/23)
https://toyokeizai.net/articles/-/283232



 ◆ <「朝日」に喝!>
   「朝日」は何時まで「日本会議」同調のフェイク記事を載せ続けるのか

   皆さま     高嶋伸欣です


 1 こと五輪の話題になると真実よりもフェイクの俗説を垂れ流し拡散し続けて恥じないのが、現在のマスコミの通弊ですが、『朝日』がまた本日(7月17日)の夕刊(東京本社版)でしでかしました(添付の記事A参照…省略)。

 2 同記事で、ことの中心人物の吹浦忠正氏を「64年、東京五輪の大会組織委員会で国旗担当を務めた。来夏の東京大会でもアドバイザーに内定している」といかにも尤もらしく説明されています。

 3 吹浦氏はそれだけでなく1990年の長野冬季五輪でも、儀典担当顧問だったことが知られています。

 4 ということは、五輪憲章が1980年に改定されて、五輪で用いられるのは「国旗・国歌」ではなく、「選手団用として組織委員会に登録して認められた選手団の旗・歌(曲)」を用いるとされていることを、同氏が知らないはずはないことになります。


 5 さらに五輪では旗のサイズが縦横を2:3の比率にするとされています(ネパールは例外扱い)し、曲も表彰式の旗の掲揚速度に合せて最近では90(?)秒に編曲されています。

 6 世界の国々の国旗は縦横が2:3の比率でないケースが多数あって、国によっては憲法でその比率を定めています。
 このため、長野冬季五輪での旗と曲の準備担当者は「あれは国旗・国歌だ、と言われたら困ります」と説明していました。

 7 それに五輪には、国単位ではない地域(非独立国家領域)の五輪組織委員会NOCが派遣した選手団(香港、グアム、米領サモア、同プエルトリコ、蘭領アルバ、英領バーミューダ、同ケイマン諸島、同クック諸島など)が13もあります。
 これらの非独立国家領域の選手団の選手も、五輪の場では米国や中国、ロシアなどの選手団の選手と一切別扱いにされることなく同等の存在とされるというのが、五輪の基本理念です。

 8 この点でも。「五輪で用いれれるのは国旗・国歌」とばかり強調するのは五輪憲章に反し、五輪の精神を歪めて印象付けようとするフェイクの流布に当たります。

 9 吹浦氏は、上記のような経歴から、これらの「旗・歌」に関する規定や運営上の事実を知らなはずがありません。
 けれども一般の人、さらには『朝日』の記者が無知・無感覚であるのをいいことにして、こうしたフェイクをまき散らしているように見えます。

 10 それも今回が初めてではありません。2枚目の添付記事(略)を見て下さい。
 2017年7月20日に東京・江東区の公立中学校で吹浦氏たちが実行したフェイク行事を『朝日』が翼賛報道しているのです。しかも『朝日』だけでなく他の全国紙も同様の翼賛報道ををしていました。

 11 これで味をしめた吹浦氏が人手が足りないためにまた『朝日』に働きかけたのが今回の記事という図式です。

 12 それにしても吹浦氏はどのような考え方をしているのでしょうか。その手掛かりになるのが「日本会議」の機関誌『日本の息吹』2016年9月号の8Pに及ぶインタビュー記事です(添付資料参照…略)。

 13 同記事の中で、吹浦氏は教育の場での国旗国歌問題は「日教組ですね」と再三指摘(7・8p目)し、64年五輪では「国内最初の聖火が点火されたのは、まだ米施政権下だった沖縄でしたが、沖縄の人々は見渡すかぎりの日の丸を打ち振って聖火を迎えたのです」と言い、質問者が「国民は、とくに沖縄の人々にはその時の記憶を呼び覚ましてほしいですね」と呼応しています。

 14 折しも、今年2019年6月23日「慰霊の日」に向けた沖縄・琉球放送のミニ特集番組「天皇制と日の丸」では次のように明確に語っています(6月21日放送)。
 当時の沖縄では米軍による人権無視の「虫けら統治」であるのを本土政府も一般社会も無関心で、米軍が「日の丸」掲揚を禁じていたので、沖縄の人々が「日の丸を打ち振ったのは米軍への抵抗と無関心な本土への抗議だった」のであり、今でも沖縄の人々には天皇制と「日の丸」に違和感があると。

   *上記ミニ特集シリーズ「天皇制と日の丸」「戦争を推し進めた教育」「平和の礎への想い」「地元の証言から沖縄戦を学ぶ・豊見城市教委作成の映像教材による実践」(各8分)と特集番組「RBCスペシャル 令和に継ぐ非戦〜あの戦争はどこから来たのか」(47分)を収録したDVD(講義や学習会などに使えます)をご希望の方は、個人メールで郵便番号・住所・氏名をご連絡ください(送料込みで500円です)。

 15 改めて吹浦氏のインタビュー記事が本文総32Pの会誌で8p分という厚遇になっているのも当然と思えます。

 16 いずれにしろ、吹浦氏は確信犯的に
 ①五輪では選手団が用いる旗・歌が現在では国旗国歌ではないことを熟知している立場であるのに、そのことに全く触れず五輪憲章に反する国旗国歌論を繰り返して流布し続けている
 ②五輪では国旗国歌を使用するというウソを流布し続けることで、非独立国家領域から参加している多数の選手団の存在を無視する印象付けを重ねることで、五輪精神を侵犯し続けているなど各種の反社会的行為を公然と遂行していることになります。

 17 吹浦氏のそうした反社会的行為の後ろ盾になっているのが「日本会議」、東京都教育委員会、安倍政権等であるのは明らかですが、それに『朝日』も加わっていることを証明したのが本日の同紙夕刊記事、という訳です。

 18 ちなみに添付資料1のB(本日の『東京』夕刊の記事…略)はAの『朝日』の記事と極めて対照的です。ご参考までに。

 19 上記の添付2017年7月20日夕刊の記事について、私は罵倒に近い論調で批判をしました。該当記事の記者は知己のあるベテランで、信じられない思いだったのですが、看過はできず厳しく論じました。
 それが何も効果なしだったのだと、2年後の本日痛感させられたことになります。
 記者だけでなく担当デスク、校閲部を含めて一年後の東京五輪で、『朝日』はどんな報道をすることになるのでしょうか。

  以上 高嶋の私見です     拡散・転送は自由です

 ブログを訪問していただき、大変ありがとうございます。


 みなさん、世界人権宣言をご存知でしょうか?

 国際連合を1945年に創設し、経済社会理事会の下に人権委員会を創設し、この人権委員会が世界人権宣言の起草作業に取り組み1948年12月10日、国連総会で採択しました。
 
 現在、世界人権宣言70周年です。

 小学校に入学したこどもたちには、まず「あなたには(こういう)人権が保障されているんですよ」とこどもの権利条約教えなければならないのです。

 しかし、日本では、すべてのこども達と市民に、日本国憲法で保障している人類普遍の基本的人権について学校でも、各自治体の社会教育や生涯学習の中でも教えず、無視し続けています。

 憲法第98条第2項に基づき、日本が1979年に批准済みの国際人権規約()と子どもの権利条約等でこどもたちに保障している、知る権利も意見表明権もそれどころか、 制服や校則でこどもたちの人権を侵害し続けています。


 今度の参議院選挙は、日本政府による人権鎖国政策にピリオドをうち、すべてのこどもたちと市民に保障している人類普遍の基本的人権を保障する政府をつくることができる候補者を当選させることが最重要課題であると考えます。

 ご一緒に、日本国憲法と憲法が保障している人類普遍の基本的人権尊重のしくみについて考えてみませんか?
 

 
ー・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−
 
 ◆ 「ブラック校則」を押し付ける学校の理屈 (プレジデントオンライン)
クリックすると元のサイズで表示します
※本稿は、苫野一徳『ほんとうの道徳』(トランスビュー)の一部を再編集したものです。

 学校以外ではみかけない理不尽なルールは「ブラック校則」と呼ばれている。髪型、スカートの丈、ソックスの長さ、持ち物の規定。茶髪の生徒に「地毛証明」を提出させる学校もある。熊本大学教育学部の苫野一徳准教授は「子どもたちを多かれ少なかれ管理せざるを得ない学校システムにおいては、事あるごとにその管理を強化しなければとする関心が増幅されてしまう」と警鐘を鳴らす――。

 ◆ 「校則をなくせば風紀が乱れる」は本当か
 学校にはおよそ市民社会とは縁遠いようなルールがたくさんあります(以下は、学校の長らく続いてきた慣習的なシステムを作り直すことを問題提起するものであって、それぞれの学校や先生を十把一絡げにして批判するものではありませんので、その点どうか誤解のないようお願いします)。


 一時期、メディアでも「ブラック校則」が話題になりました。
 髪型、スカートの丈、ソックスの長さ、持ち物の規定などはかなり一般的なようですが、暑くてもあおいではいけないとか、マフラー禁止とかいった校則もあるそうです。
 一部の学校では、茶髪の生徒が生まれつき茶髪であるかどうかを確認するため、「地毛証明」を提出させるなどという人権侵害さえまかり通っている始末です(人権侵害という強い言葉を用いるのは、この行為が、日本人〔人間?〕としてのあるべき髪の毛の色を定める選別的発想に基づくものだからです)。

 これらの校則は、一体何のためにあるのでしょうか?

 多くの場合、ただ長年の慣習が見直されることなく続いてきたのだと思いますが、同時に、その深層には、子どもたちを統制し、管理しやすくするためというシステムの動機が潜んでいるのではないかとわたしは思います。

 いや、それは子どもたちの身を守るためなのだ、なんていう声も時折聞きます。マフラーが自転車などにからまったら危ないからとか、服装や頭髪が乱れれば風紀が乱れるからとかいった理由です。

 校則をなくせば風紀が乱れるというよくある意見については、実は真逆の実例がいくつもある(※)のですが、百歩譲って、細かな校則は子どもたちの安全を守るためだという言い分を認めたとしましょう。

 ※たとえば、かつては「荒れた学校」で、教師もそれを力で押さえつける指導をしていたという世田谷区立桜丘中学校は、2010年に校長に就任した西郷孝彦校長が、徐々に校則を全廃、「生徒が三年間楽しく過ごせる学校」を目標に学校づくりを行うことで、今ではいじめが激減、校内暴力も消え、学力も区のトップレベルになりました。ご興味のある方は、インターネット等で調べていただければと思います。
https://wind.ap.teacup.com/people/13901.html

 ◆ 「何も考えない大人」に育ってしまう

 でも、それにもやはり限度があるはずです。

 改めて、そもそも学校は何のためにあるのか、そして、ルールは何のためにあるのかを考えたいと思います。

 学校は、子どもたちに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台にして、すべての子どもたちが「自由」になるための力を育むためのものです。
 そしてルールは、すべての人たちが、できるだけ「自由」に生きられるようになるためにつくり合うものです。

 右に挙げた校則は、この学校およびルールの本質を、ちゃんと満たしていると言えるでしょうか?

 あれをしろ、これをしろ、あれをするな、これをするな。……そう言われ続けて育った子どもたちは、誰かの命令に従うだけの、自分では何も考えない大人に育ってしまうかもしれません。
 危ないから、と言ってさまざまなことを禁止されてばかりいたら、自ら危険を察知し、回避する経験を積むこともできません。

 理不尽なルールを与えられた子どもたちは、もちろん反発もするでしょう。
 でも、そんな中で長い時間を過ごせば、言葉を選ばず言えば”飼い馴らされ”、とりあえず上から与えられたルールに従っておけば楽、なんていう感性を身につけたりもするかもしれません。
 他者に対しても、あれをしろ、これをするなとばかり言って、他者の「自由」を認められない大人になってしまうかもしれません。

 ◆ 「管理」のために校則があるのではないか

 ミシェル・フーコーという20世紀フランスの哲学者は、学校は子どもたちを権力に従順にする装置であると言いました。校則、制服、号令、テスト……。あらゆる仕掛けを使って、学校は子どもたちを権力に都合のいい規律に従うよう訓練しているのだと(『監獄の誕生』)。

 わたしは総体的にはフーコーの哲学には批判的なのですが、それでもなお、この告発には一定の説得力があるように思います。多くの学校において、まさに校則とは、子どもたちの「自由」を縛り、教師が集団を「管理」しやすくするためのものになってしまっているのです。

 でも、それはやっぱり、子どもたちの「自由」を実質化する学校教育の本来の使命から遠く隔たったことと言わざるをえません。

 先にも触れたジョン・デューイは、民主主義にとって最も重要なのは、一人ひとりの自由な関心に基づく探究と、自由なコミュニケーションであると言いました。この二つのない社会は、全体主義の社会です。だから学校もまた、これらを土台にしなければならないのだと(『民主主義と教育』)。

 ◆ 「無言清掃」「無言給食」は健全なのか

 でも、今の多くの学校の現状はどうでしょう? 

 まず自由なコミュニケーションについて言うと、「主体的・対話的で深い学び」が言われるようになった今でさえ、「黙って座って先生の話を聞く」授業は、多くの学校でまだまだ根深く見られます。「無言清掃」や「無言給食」などが行われている学校もたくさんあります。

 そんな環境の中で、子どもたちは、コミュニケーションの仕方を十分に学び「相互承認」の感度を育むことができるでしょうか? 

 何が何でも絶対にダメ、とは言いません。でも、少なくともわたしたちは、たとえば「無言清掃」や「無言給食」が一体何のためになされているのか、子どもたちと共に定期的に問い直す必要があるはずです。

 分刻みで動かなければならない学校の先生にとって、子どもたちが掃除や給食の時間にダラダラおしゃべりして過ごしていては、時間がいくらあっても足りないという本音は分かります。でもそんな理由で、わたしたちは子どもたちのコミュニケーションの機会を奪ってしまってもいいのでしょうか。

 目的と手段を、取り違えないようにしたいと思います。
 学校教育の根本使命は、子どもたちの「自由」とその「相互承認」の感度を育むことです。この目的のために、学校は何をするべきか。何をしないべきか。わたしたちは常にそのように考える必要があるのです。

 ◆ 子ども同士の「コミュニケーションの時間」は足りない

 時間に余裕がないのであれば、どうすれば余裕をつくれるかを考えたいものです。もしかしたら、掃除をする日を減らしてみてもいいかもしれません。別の余計な時間を見つけて、そちらを削ってみる必要もあるかもしれません。

 「無言清掃」は、黙って精神を統一し、自分と向き合う時間、という側面もあるそうです。それはそれでいいでしょう。でも、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの時間を奪ってまで、そのような時間を設ける必要があるのかどうか、わたしたちはやっぱり、定期的に問い直す必要があるのではないかと思います。

 「ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーション」。そうわたしは言いました。これについては、「ほんとうかな? 」と思われた方もいるかと思います。確かに、学校をのぞいてみると、いたるところから子どもたちの声が聞こえてきます。一見、豊富なコミュニケーションがなされているように思えます。

 ◆ 関わっているのは「仲良しグループ」だけ

 でも、みなさんもちょっと思い出してみてください。学校に行った時、コミュニケーションをとるのは、クラスの中の実はごく一部の友達だけだったのではないでしょうか?

 「黙って、座って、先生の話を聞いて、ノートを取る」のが主流で、「協同的な学び」「探究(プロジェクト)型の学び」がまだ十分になされていない学校では、こうしたことが起こります。
 友達とコミュニケーションができるのは、休み時間や部活の時間などにかぎられます。「仲よしグループ」だけでそのほとんどを過ごすことになるのは、ある意味では当然のことなのです。

 ちなみに、給食や清掃を含む「特別活動」の目標について、新学習指導要領には「多様な他者との協働」が挙げられています。
 給食については、学校給食法「明るい社交性及び協同の精神を養う」とあります。
 無言清掃・無言給食は、少し大げさに言えば、これらに抵触する可能性があるとも言えるかもしれません。

 熊本市教育長の遠藤洋路さんは次のように言っています。
 「新指導要領では、学校活動の前提が『同質の集団』ではなく『多様な他者』であることがより明確になった。無言清掃・無言給食に限らず、学校活動全体が、同質集団を前提とした『無言の圧力』を助長するものになっていないか厳しく見直す必要がある」と(熊本日日新聞2018年12月12日夕刊)。

 ◆ 「決められたことを、決められた通りに学ぶ」は周回遅れ

 デューイの言う、一人ひとりの自由な関心に基づく探究についてはどうでしょう?

 日本の学校のカリキュラムは、今なお、「決められたことを、決められた通りに、みんなで同じペースで学ぶ」ものとしてつくられています。
 多くのヨーロッパの国々が、はっきりと「探究(プロジェクト)型の学び」への方向転換を打ち出しているのに比べると、周回遅れの感があります。

 これからの時代に特に重要なのは──ほんとうは何もこれからの時代にかぎった話ではないのですが──自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えを見出していく、そんな豊かな「探究」の経験です(詳細は、拙著『教育の力』講談社現代新書、や『「学校」をつくり直す』河出新書、をご参照いただければ幸いです)。

 変化が激しく、かつての正解が正解ではなくなってしまった現代社会において、これは特に大事な経験です。
 もはや言われ尽くしたことですが、いい学校に行き、いい大学に行き、いい会社に入れば幸せになれるというストーリーは、今ではほとんど崩壊しています。いつ会社がつぶれるか分からないし、いつリストラされてしまうかも分かりません。幸せになるための、決まった道があるわけではないのです。
 社会も、格差問題やエネルギー問題、テロリズム問題等、人類がこれまでに経験したことのない問題にあふれています。

 ◆ 「決められたことだけやっていればいい」子どもを育てている

 そんな時代にあっては、子どもたちは、これまで正解とされてきたことばかり学ぶのではなく、自分たち自身で問いを立て、そしてそれに答えていく経験を、たっぷり保障される必要があるはずです。

 でも、日本の子どもたちの多くは、今なお出来合いの問いと答えを中心に勉強させられて、そもそも自分で問いを立てるという経験すら十分に保障されていないのが現状です。そんな経験が不足したまま成長した大人が、この市民社会の成熟した成員になれるものか、わたしはちょっと心もとなく思います。

 自分で問いを立て、それに答える力が十分育まれないだけではありません。決められたことだけやっていればいい、社会は誰かエラい人たちが動かしてくれたらいい。そんなふうに考える子どもたちを、わたしたちは育ててしまっているかもしれません。

 100年以上も前に、デューイは「協同的な学び」「探究型の学び」を提言し、先述したデューイ・スクールにおいて自ら実践しました。それは何よりもまず、子どもたちのうちに市民社会の担い手としての精神を育んでいくため、つまり、「自由」とその「相互承認」を実質化するためでした。
 自由なコミュニケーションと自由な探究を通して、学校やクラスを自分たちの手でつくり合っていくこと。それは、「協同」や「探究」の最も基本的な経験にほかなりません。

----------
 ※ 苫野 一徳(とまの・いっとく) 熊本大学教育学部准教授
1980年兵庫県生まれ。熊本大学教育学部准教授。哲学者、教育学者。主な著書に、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『教育の力』(講談社現代新書)、『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)がある。幼小中「混在」校、軽井沢風越学園の設立に共同発起人として関わっている。
----------

『プレジデントオンライン - Yahoo!ニュース』(2019/6/27)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190627-00029089-president-soci

全164ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
人権NGO言論・表現の自由を守る会
人権NGO言論・表現の自由を守る会
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

衛生対策製品クレベリンの姉妹ブランド
クレベ&アンドハンドジェルが新登場
今だけ。お試しキャンペーン実施中!
抽選で150,000名様に当たるチャンス!
マツモトキヨシで期間中何度でも使える
100円引きクーポン<Yahoo! JAPAN>
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
10/31まで秋の行楽キャンペーン実施中

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事