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女川原発も危ない!

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 =6・11東電へ福島県教組から申し入れ=

 ▼ 放射能汚染物質・土壌・瓦礫等の撤去、搬出を求める申し入れ書

 3.11の貴社の原発事故によって、大量の放射性物質が大気・大地・海洋に大量に放出されました。勤務地、学校、幼稚園、保育所、居住地、土壌、湖沼、河川、浄水場、農作物、家畜、畜産物、牛乳、魚、海藻、母乳にいたるまで、放射性ヨウ素、セシウム、ストロンチウム、プルトニウムという放射性物質が検出されています。

 福島県民は日々、放射能汚染の危険にさらされながら、校庭や園庭、公園・農地など表土の剥ぎ取り、建物の水洗や拭き取りによる除染等さまざまな放射線防護・被曝低減策に取り組むことを余儀なくされております。
 また、放射性物質に汚染された表土・土壌、瓦礫等が搬出も処理もされずに生活、学びの場に近いところに置かれたままになっており、子どもたちをはじめ県民はさらに脅威を与えられ続けております。


 私たちは、貴社によってつくりだされたこの状態を受け入れ続けることはできません。
 貴社が放出した放射性物質及び汚染土壌・瓦礫等を貴社の責任によってすみやかに、県民の生活の場から撤去・搬出するよう求めます。

 そして、その実施策及び実施期限について早急に示すよう、ここに申し入れいたします。返答を6月末日までに送付ください。

                                       以上
 
                   福島県教組郡山支部
                   連絡先 福島県郡山市

≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
 今、教育が民主主義が危ない!!
 東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫
 http://wind.ap.teacup.com/people/5384.html

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 おととい5月31日の河北新報の記事で、牡鹿半島の先端を洗う「山鳥(やまどり)渡し」と呼ばれる狭い瀬戸を渡ったところにある島・金華山(きんかさん)が、3月11日の大地震と4月7日の余震で大きな被害を受けたことをはじめて知りました。

 今は石巻市に属するこの島の黄金山(こがねやま)神社の拝殿前に立つ青銅製の燈籠(とうろう)は、香川県の金毘羅(こんぴら)さんや山形県の山寺の燈籠とともに日本三大燈籠とされてきたものです。
 これを最初に目にしたのは、まだ小学生だった昔、はじめて両親にこの島に連れて来てもらった時。
それ以来何度となく見てきたこの燈籠(常夜灯)が二つとも地震で折れ逆さに倒れている(記事の横の)大きな写真を目にして、亡くなった父や弟や友人などとこの島で共に過ごした時がよみがえってきました。

 同時に、長くゆるやかに見える時の流れの速さ・短さと無常を思い知らされもしました。

 さて、このたびの東北地方太平洋沖地震とそれに伴って起きた大津波から、早くも80日が過ぎ去りました。

5月29日付けの朝日新聞の「主な被害状況」によれば、最も被害の激しいのは石巻市(人口は約17万人)です。

 亡くなった人は3025人と3千人を超えています(ついでひどいのは岩手県陸前高田市の1506人)。

 行方不明者も約2770人に上っています(つづいては岩手県大槌町の約950人)。

 そして、全壊した住宅数は約2万8千棟に及んでいます(次に多いのは西隣の東松島市の約4790棟)。

 石巻市に海岸部と島部を除いた周りをぐるりと囲まれた女川町(人口約1万人)も、人口に対する被害の割合は高く、死亡者は476人、行方不明者は約570人に上り、住宅の全壊は約3020棟を数えます。

 最近、遠方から取材にやってきた新聞社のチームの車で見て回ることができた女川町の原発近くの沿岸にある各集落の被害状況は、2か月半以上過ぎた今も3・11直後と余り変わらず、集落のほとんどの住民が学校などの避難所で過ごしている例も少なくありません。

 これまでに復旧した鉄道について見ると、仙石線で運行が再開されたのは、(終着駅どおしである石巻・あおば通り間のほぼ中間地点にある)高城町から青葉通りまで(約26キロ)だけ。
 石巻・矢本間(約9キロ)も7月末には運行再開の予定とのことですが、矢本・高城町間(約16キロ)はまだ再開の見通しが立っていないといいます。
 石巻線も、石巻・小牛田間は通じたものの、石巻と終点の女川間の線路などの復旧の見通しはまだ全く立っていないようです。

 一方、宮城県内の各家庭の停電は、津波で家屋などが流失した地域の約4万9千戸と女川町の出島(いずしま)を除き、5月30日中にすべて解消したということです。

 温帯低気圧に変わった台風2号の強い風と雨で石巻地方が大荒れの天気となったこの日、妻が看護師として去年3月まで勤めていた石巻赤十字病院では、看護専門学校の約2か月遅れの入学式が行なわれました。

 新入生は39人。うち18人が被災し、1人が避難所から通うといいます。
湊地区にある石巻赤十字看護専門学校校舎で授業中に地震に遭った2、3年生(当時1,2年生)は、津波警報を聞いて避難所の湊小学校に避難、そこでお年寄りや体の弱った被災者の看護に当たってきたとのこと。

 6月から開始される今年度の授業は、津波被害で校舎が使えなくなったため、石巻専修大学の教室を間借りして行なわれるということです(5月31日付け毎日新聞、6月1日付け石巻かほく)。
 ありがたいことに、震災後間もなくの3月27日、松本桂輔さん(40)という方が札幌の診療所を休職して当地方の中核病院である石巻赤十字病院にボランティア応援医師として駆けつけ、今も同病院で活動に当たっているといいます。

 その方がきょう6月2日付けの河北新報の記事「助け合う力」第20回で次のように述べています(かっこ内は筆者の注)。

 「震災直後、石巻赤十字病院のスタッフに電話をかけ、人手が足りず大変な状況だということが分かった。自分を育ててくれた地域への恩返しの意味でも、ぜひ力になりたいと思った。・・・混乱は少し収まっていたが、救急外来の患者が次々と訪れ(診察のため3月23日に訪れ、27日にまた訪れてそのまま入院した私もそのひとり)、全国から駆けつけた医師たちが懸命の診察に追われていた(初めに訪れた際に私が診てもらったのは福岡市の医師や看護師)。・・・私が研修医をしていたころ、石巻赤十字病院は現在の蛇田地区に移転する前で湊地区にあった。その湊地区は津波で壊滅的な被害を受け、変わり果てた状態だった。ショックだった。復興にはかなりの時間を要すると思うが、いつか必ず元気な姿を取り戻してくれると信じている」

 北上川を挟んで石巻赤十字病院のある地区の対岸にある石巻専修大学の広大なキャンパスには、震災後千二百人もの人々が一時的に避難したといいます。

 「石巻市災害ボランティアセンター」となったこの大学を1カ月ほど前に私が訪れたとき、全国各地から集まった多くのボランティアがキャンパスの外側にある堤防のすそにまでテントを張っているのに驚きましたが、このキャンパスで今も700人を超すボランティアが寝泊りしているとのことです(5月31日付けの朝日新聞のワイド記事「大学、地域の復興に力」)。
 海外から石巻に支援にやって来る人々も少なくありません。
 2004年のスマトラ沖地震に伴って起きたインド洋の津波で、スリランカでは約3万5千人もの死者・行方不明者が出ました。

 そのスリランカの政府が派遣した15人の支援チームもその一つです。
5月13日に石巻に入りし、NGO「ピースボート」の基でガレキの撤去やテントの設営・修復などの支援活動を行ない、避難所となっている小学校で太鼓やギターなどの演奏もしたということです。

 このチームの隊長チャンダナ・ウィクラマナイケさん(39)は次のように語っています(5月31付けの朝日新聞に載ったコラム記事「世界から被災地へ」)。
「我々が津波被害を受けた時に支援してくれた日本に恩返しができた。津波被害をうけた国民同士、一緒に立ち直っていきたい」

 5月30日、女川の町立第1中学校で、香川県の陸上自衛隊第14旅団第15普通科連隊と第14偵察隊(香川県善通寺市駐屯)の隊員たち(女川町で活動してきたのは400人)に対する感謝の式(隊員80人が出席、町内の小中学生と教職員ら約300人が参加)がありました。

 このほど任務を終えて地元の第6師団と交代することになったというこの香川県の自衛隊員たちは、震災から1週間後の3月18日に女川に入ってから2カ月以上ものあいだ復旧活動に当たってきたといいます。

 次は、各学校を代表して感謝の言葉を述べた生徒たちの1人、佐藤理句君(女川1小6年)が隊員の方たちに贈ったメッセージです(5月30日付け石巻日日新聞)。

「ぼくたちが住む女川町は津波によって、たくさんの人が命をうばわれ、建物がこわされました。今まできれいだった町がなくなりました。ぼくは大きなショックをうけました。これからどうなるんだろうと不安でいっぱいでした。
それから2,3日して皆さんが来てくれました。初めは、なぜ来てくれたのかはわかりませんでした。・・・
毎日、ガレキの処理をしてくれたり、救援物資を運んでくれたりしました。食べ物をいただいた時は、とてもうれしく家族でよろこびました。周りの人たちもみな、うれしそうな表情でした。
また、女川1小が中学校へ引越しをするときも手伝っていただきました。自衛隊の協力のおかげで、引越しも安心してできました。
それからお風呂でもお世話になりました。ぼくは自衛隊の“こうぼうの湯”がとても気持ちよく大好きです。
震災から2か月が過ぎました。遠くの香川県に家族を残して、ぼくたちの女川町のために活動する姿に勇気と希望をいただきました。ふるさとの香川県では、きっとみなさんの帰りを家族の方が楽しみに待っていることと思います。帰ったら家族の方をだきしめてください。そして、これまで会えなかった時間を取り戻してください。
ぼくたちも、この女川町をいつまでも大切にし、一生けん命生きていきます。何年後かに新しく生まれ変わった女川町に来てください。その時を楽しみにしています。
自衛隊のみなさん、ありがとうございました。さようなら」


原子力発電を考える石巻市民の会/東日本大震災と原発/日下郁郎
http://shiminnokai.info/cat58/post-20.html


 河北新報【「日本三大灯籠」倒壊 石巻・金華山黄金山神社】

 (写真)地震の揺れで壊れた青銅製の常夜灯=25日、石巻市の金華山

 東日本大震災で宮城県石巻市の離島・金華山では、黄金山神社の鳥居や常夜灯などが地震により倒壊する被害が出た。鮎川、女川両港は津波で壊滅的な被害を受け、定期船の運航は再開の見通しが立たない。神社や観光関係者は、年間6万〜7万人を数える参拝客を取り戻そうと、両港の早期復旧を宮城県に要望している。
 3月11日の本震と4月7日の余震で、拝殿前に並ぶ青銅製の常夜灯2基(高さ約5メートル)は破壊された。常夜灯は山寺(山形市)、金刀比羅宮(香川県琴平町)の灯籠とともに「日本三大灯籠」とされるが、激しい揺れで半分に折れている。
 1894年建立の石鳥居も根元から倒壊。石垣も一部崩壊し、灯籠など他の石造りの構造物にも多くの被害が出た。
 桟橋から神社に続く急な坂道は至る所で崖崩れが発生。3月11日は観光客や職員ら約40人が一晩孤立し、翌日、定期船業者のモーターボートで救出された。
 金華山への定期航路がある鮎川港(石巻市)、女川港(宮城県女川町)はともに壊滅状態で、定期船は運航をストップしたままだ。金華山の桟橋も地盤沈下によって満潮時には冠水。津波によって待合室が破壊され、参拝客を神社に運ぶマイクロバスも流された。
 一部営業を再開した定期船業者が不定期でモーターボートを出しているが、岸壁の冠水などで、運ぶことができる乗客には限りがある。
 奥海聖宮司(58)は「それぞれの港の桟橋を一日も早く復旧してほしい」と訴え、石巻市、女川町の両観光協会幹部とともに30日、宮城県庁に要望書を提出した。
(浅井哲朗)

2011年05月31日火曜日 河北新報
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/05/20110531t13004.htm


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/46/26/sakurai4391/folder/1203515/img_1203515_34822009_3?20110606083655
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/46/26/sakurai4391/folder/1203515/img_1203515_34822009_2?20110606083655
            牡鹿半島より金華山を望む    最も高いのが金華山               

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/46/26/sakurai4391/folder/1203515/img_1203515_34822009_4?20110606083655
  船が金華山へ近づくとうみねこが出迎えてくれた。  しかし、下山して戻ったときにはまったく姿がなかった。

大地震 恐怖の戦慄

 3月11日、私が所属する山歩きの会13名は445mの金華山へ山登りに出かけた。
 午後2時過ぎに船の待合所に到着した。
 午前中には群れていた鹿もうみねこも姿がなかった。
 これがあの大地震の前兆だとは夢にも思わなかった。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/46/26/sakurai4391/folder/1203515/img_1203515_34822009_0?20110606083655
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/46/26/sakurai4391/folder/1203515/img_1203515_34822009_5?20110606083655
       桟橋付近には鹿の姿もウミネコの姿もなかった。

 地震は待合室で午後三時発鮎川行きの船を待っていたときに起こった。
 2時46分、船が桟橋に接岸しているのがガラス戸越しに見えた。
 そろそろ桟橋へ向かおうとリュックに手をかけた瞬間、突然テーブルが左右に揺れた。
 出口付近にいたメンバーは瞬間的に、開いているガラス戸から外へ飛び出たが、
 奥のほうにいた私はとっさに食堂のテーブルの下にもぐりこみリュックで頭を守った。
 本能的行動だった。
 このとき揺れる床下から
 「ゴゴゴゴ…」「ゴォー」「ゴォーン」という低い調子の不気味な音が聞こえて来る。
 まるで地獄から湧き上がって来るように感じた。

 その数秒後、金属製の屋根の震える音や、周囲の壁と太い鉄骨とが激しくぶつかり合うガタガタガタ…、ガガガガガーという大きな金属音が絶え間なく建物全体から響き渡った。
 それが互いに反響しあって私の鼓膜を襲ってくる。
 まるで、MRIの中に閉じ込められた時に聞こえるあの音を10倍にも増幅したようなすさまじさだ。 お土産の陳列台が次々に倒れ、ガラスが割れるガチャガチャーンという音があちこちから鳴り響く。
 蛍光灯が天井から次々と、容赦なく落ちてくる。
 もぐりこんだテーブルが前後左右に大きく移動する。
 その動きに連動しながら自分も動かざるを得ない。
 揺れは一向に収まらない。こんなに長い地震は生まれて初めてだ。
 
 建物が崩壊するかもしれないという恐怖が身体中に走った。
 高い梁に掲げられていた黄金山神社の由緒や訓えが書かれた巨大な額縁が、
 すぐ近くのテーブルの上にドーン、ガシャーンという音を立てて落ちた。
 そのとたんテーブルの足が斜めに曲がって、
 額は私が身を守っているテーブルのすぐわきに叩きつけられるように落ちた。
 もしかして天井までが落下してくるのではないかとぎくりとした。
 2年前の岩手・宮城地震のときに、
 私の住む仙台市のプールの天井が落ちて26人が怪我したことが頭に浮かんだ。
 
 周囲の腰板や板壁は大きく波打ち、
 建物の太い鉄柱が、隠れているテーブルに襲い掛かってくるように思えた。
 そうなったら、か弱いテーブルはひとたまりもないだろう。
 自分に〈落ち着け、落ち着け〉と言い聞かせた。
 周囲にばかり気をとられていたが、
 コンクリートの下から相変わらず地獄の叫びのような不気味な音がする。
 とっさに「死」の予感が襲った。
 “もう限界だ”と直感した。
 
 無意識のうちに体が動いた。
 テーブルの下を這いながら出口に向かい、頭にリュックを載せてダッシュして外へ飛び出した。
 建物から10メートル以上離れたとき、一瞬だが死の恐怖から開放された。
 そのとき目に入ったのは、我々が乗るはずの船が沖を目指して猛スピードで去ってゆく姿だった。
 
 山の急斜面側を見ると、崖から岩や松の木が次々と倒れて落ちてくる。
 山の中腹にいた鹿たちは、さらに上へ上へと駆け上ってゆく。
 彼らは安全な「けもの道」を知っているのであろう。
 やがてゆれは大分ゆるやかになった。
 報道関係の情報によると、最も激しい揺れは約2分ほどで、本震全体の長さが、6分ほどだという。
 だが、私には無限の長さに感じた。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/46/26/sakurai4391/folder/1203515/img_1203515_34822009_1?20110606083655

                             次回に続く

転載元転載元: 道をゆく 〜シルクロードと遍路道〜

 ついこのほどまで、日本の原発では敷地外で住民の屋内退避や避難が必要となるような事故が起こることはありえないという言説が、日本列島全体を覆(おお)っていました。
そのようななかで、原子力施設を持つ市町村も各道府県も、原子力防災対策に本気で取り組むことはありませんでした。

 ところが、福島第一原発で炉心溶融事故が起きるや、列島各地の原子力施設所在道府県やその隣接府県で、これまでは10キロ圏内とされてきた原子力防災対策範囲(茨城県、福島県、福井県、静岡県、島根県等では、コンクリート屋内退避又は避難の対象範囲は原発の3キロ圏内の地域。
それより以遠の地域の住民防護対策は自宅等への屋内退避)を20キロ圏内全体あるいは30キロ圏内全体まで拡大する必要があると言う声が大きくなってきました。

 もっとも、3・11の地震と津波によって甚大な被害を受けた直後に、その自然災害と人工災害との複合災害である原発震災が世界ではじめて起き、20キロ内全域に避難の指示が出された福島県では、大混乱のさなか首長などにそのような「余裕」などないようですが。

 反対に、沿岸部一帯住民が3・11の地震・津波で立ち直るのが不可能なほどの痛手を受けた宮城県では、どう暮らしを立てていったらいいのかに思い悩む多くの人々とは心理的に遠く隔たったところで、知事が女川原発の被害の少なさを県民に印象づけようとパフォーマンスを演じ、石巻市長がその運転再開への賛成を早々と口にするなど、このところ首長の先走った軽々しい発言が続いていますが。

 宮城県では一方で、今月に入ってからのことですが、私たちのところに、女川原発から直線距離で45キロほど離れたまち(市)に住む方からの「避難計画の根本的な見直しが必要」という意見なども届くようになってきています。

「県が避難範囲を30キロ圏に広げること、地震と津波で道路が寸断された今回の状況を前提に避難方法を具体的に示すことを求めたいです」というこの方の真剣な思いは、日本でも現実となった炉心溶融事故で原発の持つ巨大な危険性を目の当たりにし、今なお続く事故を他人事ではないと受けとめている宮城県内の多くの方々が共有している思いでもあるのではないでしょうか。


 そこで今回は、この福島の事態を受けての今後の原子力防災対策について私たち「原子力発電を考える石巻市民の会」がどう考えているかを、簡単に述べておきたいと思います。

 1995年12月のもんじゅのナトリウム漏れ火災事故後、原発の立地市町村は、国が原子力防災対策を一義的に引き受ける原子力防災対策特別措置法をつくるべきだと声を合わせて国に求めつづけました。

 国は長い時間をかけて検討はしたものの、結局1999年9月、そのような法律はつくらないことを決めました。

 ところが、政府・自民党は、その約2週間後にJCO臨界事故が突発するや一転して原子力災害対策特別措置法の制定を決断し、年内にそれを制定してしまったのでした。

 これまでのように立地市町村と道府県に原子力防災対策を押し付けているだけでは原子力発電の推進が困難になる、と危機感に駆られたからです。

 立地自治体を代表して原子力安全委員会の原子力発電所等周辺防災対策専門部会の委員をつとめていた敦賀市の方に当時聞いてわかったことでしたが。

 その後、制度的には国が原子力防災対策の前面に立つようになったものの、その原子力防災対策が現状のままでは「打ち出の小槌(こづち)」である原子力施設の存続が危うくなるとの立地自治体のこのたびの危機感は、これまでの比ではないと思われます。

 けれども、そのような危機感に立つ立地自治体等の声が実現すれば今度こそこのたびのような原発事故から住民を安全に守れる地域社会が築けると思うとしたら、それは幻想にすぎないのではないでしょうか。

「避難計画の根本的な見直しが必要」という意見を寄せてくださった方の思いの真剣さは、上のような虫のいい思惑とは全く異質の、とても貴重なものだと思います。

ですが、避難範囲を30キロ圏内に広げ、地震と津波で道路が寸断された今回の状況を前提とした避難計画をたてることによって、私たち宮城県民や日本列島各地の住民は本当に安心を得られるでしょうか。


 確かに、私たち「原子力発電を考える石巻市民の会」は宮城県や石巻市に、よりましな原子力防災対策を求めてもきました。

JCO臨界事故が発生したとき、東京電力福島第一原発では過去に臨界事故が起きていたにもかかわらず、その東京電力を先頭とする電気事業連合会が原発では臨界事故など起こりえないと主張し、大企業のそのような声が日本社会をまかりとおるなか、私たちは宮城県庁で当時の副知事に面会し宮城県全域を原子力防災対策範囲とするよう求めもしました。

 そして、石巻市に働き続けた結果、今回の津波で亡くなった土井喜美夫前市長が市長在職中に、最も離れた所で女川原発から16、17キロの集落もある旧牡鹿町全域を避難対象範囲とすることなどが実現しました。

 しかし、そのような求めは、チェルノブイリ原発事故のような大事故が当地でも現実に起こりうると考え、その時も行政当局に子供をはじめとした住民の健康や命だけは守らせなければならないと考えてであって、そのことで安心な地域社会を築けると思ってのことではありませんでした。

「止めようプルサーマル!止めよう核燃料サイクル!女川原発地元連絡会」の仲間と、去年石巻市に、「『放射能放出後、放出中』という条件の下での住民避難訓練を!」と求め、「来年度は(女川原発から29キロ離れた所に建つ)遊楽館を避難先施設として避難訓練の実施を」と求めました。

 それも、当地で今年度予定されそうだった国主催のいわば形だけの原子力防災訓練を懸念し、福島県(2008年)、茨城県(2009年)、静岡県(2010年)でも繰り返されてきた狭い地域を避難対象範囲とした住民避難訓練の実施などを牽制するためでした。


 福島で原発震災が起きた今私たち地震列島住民が行なう必要があるのは、これまで私たちの頭をもしばってきたエネルギー観、価値観から一歩でも二歩でも離れて、本当に私たちの生活に原発が欠かせないものなのかどうか自体を見つめ直してみることではないでしょうか。

     日下郁郎 | 分類: 東日本大震災と原発 

   原子力発電を考える石巻市民の会  http://shiminnokai.info/cat58/post-19.html

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 ≪原子力発電を考える石巻市民の会 ブログ 5月14日付より≫ 2011年
 
 茨城県原子力防災対策検討委員会は報告書「原子力防災対策等の充実強化について」(1998年8月)で、それまで原子力安全委員会が原子力防災指針で示してきた「成人」の屋内退避・避難の指標となる予測ヒバク線量を、「乳幼児・児童・妊婦」と同等のものに厳しくするよう提言しました。
具体的には、「外部からの全身の予測ヒバク線量10ミリシーベルト以上」あるいは「体内に取り込んだ放射性ヨウ素による甲状腺の予測ヒバク線量100〜500ミリシーベルト」を、乳幼児・児童・妊婦だけでなく成人の「自宅等の屋内への退避」の指標線量ともしました。
そして、「外部全身の予測ヒバク線量50ミリシーベルト以上」あるいは「体内に取り込んだ放射性ヨウ素による甲状腺の予測ヒバク線量500ミリシーベルト以上」を、乳幼児・児童・妊婦だけでなく成人の「コンクリート建屋の屋内への退避又は避難」の指標線量ともしました。
放射線に対して感受性の高い「乳幼児・児童・妊婦だけで行動することは困難であり、必ず成人の支援が必要である」ことなどを理由にあげてです。
検討委員会のこの提言は、茨城県が受け入れただけではありませんでした。
原子力安全委員会が改訂防災指針にそれを取り入れた結果、現在、それは原子力施設のある他の道府県の原子力施設の事故時の住民防護対策の指標線量ともなっています。
この点においては、この報告書「原子力防災対策等の充実強化について」は、国内各地の原子力防災対策を一歩前進させたものと言うべきなのかもしれません。
(ナトリウム漏れ火災事故を起こしたもんじゅのある福井県は、JCO臨界事故後、外部全身の予測ヒバク線量5〜10ミリシーベルトを「屋内退避」の指標線量とするなど、より厳しい指標線量を採用しています。
なお、茨城県、原子力安全委員会、福井県のいずれの予測ヒバク線量も、「(放射性)希ガス等による外部全身ヒバク及び放射性ヨウ素による甲状腺の内部ヒバクに関して、何の措置も講じなかった場合に屋外にいる住民が受けると予測されるそれぞれのヒバク線量」であることに注意が必要です)
しかし、私には、原子力安全委員会の原子力発電所等周辺防災対策専門部会が「原子力防災対策の実効性向上を目指して」(1999年4月)で推奨もしたこの茨城県原子力防災対策検討委員会の報告書は、より肝心な次の点で困った影響を他の道府県の多くに与えてきたように思われるのです。
この報告書は12〜13ページで、原子力安全委員会の防災指針にしたがって、東海第二原発、高速実験炉「常陽」、東海再処理工場の3施設の半径8ないし10キロ内を防災対策範囲とすること、そして、実際に防災対策を整備するに当たってはそれらの原子力施設に近い区域に重点を置くこと(つまり、例えば東海第二原発に近い区域を「避難計画等の基本型」の対象範囲としてあらかじめ各地区・集落ごとの避難所やコンクリート屋内退避所を指定しておくこと、および風向に応じた交通規制等の計画を整備しておくこと)を求めています。
「避難計画等の基本形」が対象としている地域住民は、「避難」が「施設から半径3キロ圏内全域」の住民(避難先は各施設の4〜6キロ先の施設)。
「コンクリート建屋への退避」が「施設から半径5キロ圏内全域」の住民(退避先は、3キロ圏内住民は3キロ圏内又は5キロ圏内の施設。3〜5キロ圏内の住民は3〜5キロ圏内又は約6キロ先の施設)です。
これらは、あくまでも「念のため」の措置ですが、「さらに念を入れた対応」として、「原子力施設から5キロ以遠(に住む住民)についても原子力防災計画が定められている地域全域に関して、各地区・集落毎のコンクリート屋内待避所をあらかじめ確保しておく」ことを求めています。
その上で、「万が一の緊急時には、その状況や風向に応じてコンクリート屋内退避、避難等の対象地域(防護対策区域)を指定し、その地域に対してこの「基本型」を柔軟に応用して措置を講ずること」を求めています。
委員たちはこの報告書で、「あらかじめこのような『基本型』としての避難計画等を整備しておくことにより」、「あらゆる事態に対してその応用が可能である」と言ってもいました。
下の図は、報告書の36ページにある「避難計画等の基本型の模式図」です。

この図から、緊急時に避難が適用される地域(避難対象地域)は原子力施設を中心とした半径1キロの円内と風下方向67.5度(16方位のうちの3方位分)、半径3キロまでの扇型内に限られること、その時にコンクリート屋内退避が適用される地域(コンクリート屋内退避地域)は基本的には風下方向67.5度、半径3〜5キロの範囲の扇型内に限られることが分かります。
風下方向67.5度内で半径5〜10キロの範囲内は、屋内退避(自宅等の屋内への退避)が適用される地域となりますが、「住民の大規模な移動はない」という理由から、この図では省略されています。
以上が、茨城県原子力防災対策検討委員会の「避難計画等の基本形」の概要です。
私には、現実に起きたチェルノブイリ原発事故に対して余りにも矮小な事故想定に思えてなりませんが、それはひとまずおき、では、同委員会がこのような「避難計画等の基本型」のあらかじめの整備を求めたということは、上のような避難対象地域やコンクリート屋内退避対象地域の設定を必要とするような事故が現実に起きる可能性があると考えたからのことなのでしょうか。
次回はこの点についての同委員会の考えを見てみましょう。


日下郁郎 | 分類: 東日本大震災と原発
http://shiminnokai.info/cat58/post-16.html

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