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7/16(火) 沖縄タイムス

 沖縄で昭和の街並みが残る飲み屋街、那覇市栄町。日付が変わる午前0時ごろ、飲食店が次々と店を閉め始めても、明かりがともり続ける店がある。街の本屋「ブックスおおみね」だ。約30年、家族4人で沖縄の書店で唯一24時間営業を続けている。コンビニエンスストアの台頭で、街の本屋は雑誌や漫画が売れなくなり、出版不況もあってシャッターを閉じていく中、20坪弱の店舗が生き残っている理由とは。(デジタル部・與那覇里子)

飲み屋街で24時間営業の本屋さん 親子3人でシフトを回して約30年 支持される理由とは

なぜ24時間営業?
 「いらっしゃいませ」。
 午後6時、店頭で迎えてくれたのは、大嶺輝浩さん(47)だ。


 「記者さん、この前も来てくれてましたよね。あそこに貼ってある光GENJIのポスターを見て、ジャニーズが好きだと話していたので覚えています」

飲み屋街で24時間営業の本屋さん 親子3人でシフトを回して約30年 支持される理由とは


店内には、1990年代からのポスターや雑誌の販促グッズが飾られている。ポスターは蛍光灯で焼け、白壁は長年の細かなほこりで所々薄黒く、多くの人が歩いたであろう床のタイルは擦れている。営業してきた長い歴史を店内の一つ一つが教えてくれるが、インクの匂いは新しい。

 「ブックスおおみね」は1982年、輝浩さんの父、浩邦さん(69)が始めた。元々は、木材関係の営業職として働いていたが、ケガで思うように動けなくなった。無類の本好きだったこともあり、脱サラをして書店を開いた。朝8時ごろ店を開け、夜8時か9時ごろ閉める。母の明美さん(68)と切り盛りしていた。

飲み屋街で24時間営業の本屋さん 親子3人でシフトを回して約30年 支持される理由とは
店内の一角は、沖縄の人に売れる沖縄関連本が占める
 輝浩さん、高校生。父から店でアルバイトをするようにお願いされた。
 「僕がアルバイトに入ると、両親が休める時間が作れるんです。学校から帰って、店の手伝いをしていたんですが、そのころからお客さんに24時間営業をしてほしいと要望をもらうようになりました。夜の街なのに、本屋が空いていないと。お客さんからの声は多くて、まだ沖縄でコンビニが少なかった90年ごろ、24時間営業に変わりました」

 あれから約30年、24時間営業を続けている。69歳の父、浩邦さんが午前1〜8時、68歳の母、明美さんが午前8時〜午後4時、長男の輝浩さんが午後4時〜午前1時の固定シフト。輝浩さんの双子の弟、次男の浩之さんは入荷や配送、営業を担当している。
 「休みは元旦だけ。家族そろってご飯を食べるのは、正月だけです。僕の場合は、お盆のエイサーもここ何十年、見たことがないですね。近所から聞こえてくる音を楽しんでいます」


コンビニは打撃、でもブックスおおみねの周辺からは撤退した理由

 沖縄の書店商業組合によると、街の本屋の生命線は「雑誌と漫画」だという。しかし、似たいような品ぞろえで24時間買えるコンビニは、雑誌と漫画に強かった多くの街の本屋を飲み込んできた。


 2019年7月時点で、沖縄にはファミリーマートとローソンで約500店舗ある。さらには同月、セブンイレブンも進出し、今後5年で250店舗まで拡大する予定。これからさらなる激戦が見込まれる。沖縄では20年前、同組合に約60書店が入っていたが、コンビニの影響もあり、19年には約30店舗に減った。そのうち、街の本屋は20店ほどだ。
「ブックスおおみね」にもコンビニの波はやってこなかったのか。

 「もちろん、あります。近くにコンビニがあれば、打撃は間違いない。うちの周りにもあったんですが、駐車場が小さかったり、なかったりという店舗だったためか、ここ10年ほどで駐車場付きの広い店舗に移転していきました。栄町は建物が密集していて、道幅も狭いので、大きなコンビニ店が作れないのかもしれません」

 実際に、記者がコンビニ店をマッピングしてみたところ、「ブックスおおみね」から半径約340メートル以内にコンビニはなかった。歩くと約500メートルの距離があった。



 ブックスおおみねは、徒歩1分の場所に小学校があることも営業が続いている要因だという。「学校で使える文房具や虫取り網、虫かごも販売しています」

酔客は誰のために本を買う?
 コンビニはないものの、市場と飲み屋がひしめき合う栄町。日が暮れれば酔客があちこちを歩いている。しかし、飲んだ帰りに本を買って帰るのか。朝や昼は、飲み屋が開いていない。24時間、一体、どんな時間帯にどんな人が本を買っていくのだろう。
 「夜は、飲んだ帰りのお客さんが多いです。主に男性ですね。家に帰る前に、奥さんや子どもに本や雑誌を手土産に買っていくんです。寝る前に本を読む習慣のある人も買っていってくれます。
 でも、一番は、雑誌の入荷日を押さえている地域の常連さんに支えられています。雑誌は船で沖縄に入ってきて、各書店に届きます。大体夜の12時前後。その時間に合わせて店に来てくれる方たちがいます。あとは、船便なのでどうしても発売日から4〜5日は遅れます。入荷が遅れていれば、次は何日ごろに入るよと伝えるようにしています」

「真夜中から朝方は、夜勤の父親がゆんたく(沖縄の言葉でおしゃべりの意味)が好きなので、常連さんが父と話しに来ますね。午前5時ごろからは、出勤の早い建設作業員の方たちが現場に行く前に寄っていってくれます」

 ちなみに、同組合によると、18歳未満は購入できない成人雑誌の売れ行きは「壊滅的」だという。竹田祐規事務局長は「インターネットの台頭で、アダルト関連も売れない。非常に売れた時期もあり、経営が苦しかった街の本屋が成人雑誌にかじを切った店もあったが、店は続かなかった」と振り返った。

オープンから37年で変わったのは「子ども」
 今年で開店37年目、「ブックスおおみね」は、本を通してたくさんの人と出会ってきた。この間、輝浩さんの目から見て、一番変わったのは「子ども」だという。

 「昔、街の本屋さんは、子どもたちがお小遣いを持って、遊びながらコミックや文房具を買いに行くところでした。店の中で元気に「おにごっこ」をする子どもたちもいました。でも、今は店の外から、一人で入っていいのかなと様子をうかがって、戸惑う姿を見かけます。子どもだけで買い物に行ってはいけないと学校や親に言われているのかもしれません」

 「最近では、本屋は、親が子どもの物を買いにくる場所になりました。子どもに、『お父さん、あの雑誌、昨日本屋に並んでいるはずなのに、何で買ってきてないの』と言われて来たり。文房具もそうです。子どもたちが塾や習い事で忙しいんですかね」

飲み屋街で24時間営業の本屋さん 親子3人でシフトを回して約30年 支持される理由とは
ノートや祝儀袋など、文房具もそろう

 輝浩さんが時代の移り変わりを語っていると、「いま、帰ったよ」とお客さんが入ってきた。
「きょうは『風の谷のナウシカ』の放送があるっていうから、すぐ帰るね。またあした」と言って店を去っていった。

「今のお客さんは、30代くらいだと思いますが、近所に住んでいて、出勤するときは『いってきます』と声をかけてくれます。帰ってきたら『ただいま』と言って、1時間ほど店内をゆっくり堪能していくのが日課です。本当にきょうは珍しい。お客さんとのこういうやりとりに元気をもらっています」

 3人でシフトを回し、明かりがともり続ける毎日。24時間営業はいつまで続けるのか。「父は深夜に店で働くと、本当に元気になるんです。朝までおしゃべりをして、生き生きしているように感じます。24時間の強みもあるので、まだまだやっていきたいです」




今年で50周年
アポロ11号月面着陸 ベルン大学が作った「月のおもちゃ」

Dölf Barben(スイス・レビュー)

2019-07-02 08:30

月面着陸
星条旗より先に、スイス製のアルミ箔シートを月面に打ち立てるバズ・オルドリン飛行士


今から50年前、人類は初めて月に降り立った。米国のアポロ11号が成し遂げたこの功績は、スイスのベルン大学にとっても大きな一歩だった。月面で使ったベルン大学の「ある機材」のおかげで、ビッグ・バン理論の不一致を解消することができたからだ。

宇宙船アポロ11号を乗せたロケットの打ち上げとともに、テレビにゆっくりとU – S – A の文字が映し出された。1969年7月21日、ニール・アームストロング飛行士とバズ・オルドリン飛行士は人類で初めて月に降り立ち、月面に星条旗を打ち立てた。今から半世紀前のこの偉業は、米国の力を世界中に知らしめるニュースだった。

50周年を迎えた今年、米国がその功績を盛大に祝うのは当然だろう。だが思い出に酔いしれるのはベルン大学も同じだ。アポロ11号のミッションには、ベルン大学の物理研究所が直接関わった実験も含まれていたためだ。重さ3千トンの宇宙船と比べたら「それ」は羽根のように軽い。わずか454グラムながらも、非常に重要な役割があった。

オルドリン飛行士は、星条旗よりも先にスイス製のその機材を月面に設置した。幅30センチ、長さ140センチのシンプルなアルミ箔シートはポールに張られていた。シートは陽子や電子など、太陽風の粒子を採集するためのものだ。

計測開始から77分後、アームストロング飛行士は再びシートを巻き取り、宇宙船に収容した。シートが張られていたポールはそのまま月面に残された。実験は大成功を収め、米航空宇宙局(NASA)はその後4回のミッションでも被爆時間を少しずつ長くして同じ実験を行った。シートを開発したのはベルン大学のヨハネス・ガイス教授(物理学)が率いるチームで、これを機に一躍有名になった。

当時、ベルンの物理学研究所に務めていたユルク・マイスターさん(80)とペーター・ボクスラーさん(76)は、かつての職場に集い、写真を見ながら思い出話に花を咲かせる。写真には、時代遅れの髪型をした2人の若き物理学者が太陽風のシミュレーションをする様子が写っていた。


物理学者
「古い友人」のアルミ箔シートを前にするユルク・マイスターさん(左)とペーター・ボクスラーさん。ベルン大学地下の窓のない研究室で


(Adrian Moser)
実験物理学者だったマイスターさんは、このシートの共同開発者だ。一方、ボクスラーさんが開発に携わるようになったのは、後に教授となりガイス教授の後任として研究所の共同所長に就任してからだ。ガイス教授は既に90歳を超え、今は公の場からは身を潜めている。 

マイスターさんとボクスラーさんは、研究所の地下にある実験室に案内してくれた。実験室には窓がなく、機材でごった返している。そして部屋の中央には、照明に照らされたアルミ箔シートが光っていた。厳密に言えば、これはアポロで使われた実物ではなく予備のシートだ。2人はまるで古い友人に再会したかのように、懐かしそうな顔でその前にたたずんだ。マイスターさんは、シートをばねで巻き上げて見せてくれた。「窓のブラインドと全く同じ仕組みですよ」

「驚くほどシンプルで見事なアイディア」
月面でアルミ箔を広げて太陽風にさらし、それを地球に持ち帰る。「驚くほどシンプルで、見事なアイディアだった」とマイスターさんは振り返る。太陽風の粒子の速度は光よりはるかに遅く、時速数百キロだ。粒子はシートにぶつかるとくっつく。持ち帰ったシートを実験室で溶かすと、どの粒子がいくつ付着しているかが分かる仕組みだ。 

機材は全て扱いが簡単で、なおかつ100%機能する品質にしなければならなかった。特にシートを支えるポールは技術の限界との戦いだった。ポールは非常に細いネジ山がついた伸縮可能なテレスコピック構造で、折り畳み式の小さなタイヤが内蔵されていた。

シートは破れないように最終的にテフロン製のテープで補強された。「最大の難関は、重さが1ポンド(約454グラム)までと制限されていたことだ。許容範囲が1キロまでならずっと楽だったのだが」とマイスターさんは振り返る。 

NASAは万全を期すため、ドン・リンド飛行士をベルンに派遣し機材を点検させた。リンド飛行士は物理学者やエンジニアとは違う宇宙飛行士の視点から、分厚い手袋でも操作できるかチェックした。

「リンド飛行士が出したさまざまな要望は、全て指示通りに反映された。その結果、ポールにはグリップが付けられ、重要なコンポーネントは目立つように赤くした。リンド飛行士は、まるでお気に入りのおもちゃのようにこのシートを気に入ってくれた」(マイスターさん) 

なぜベルンに白羽の矢が?
しかし、アポロ11号のミッションで唯一、米国以外の実験にベルンが選ばれたのはなぜだろう?「それは偶然ではなかった」とボクスラーさんは言う。当時隕石の分野で優れた業績を挙げていたベルンの物理学者たちは、月の岩石を使った実験に立候補したのだ。

最終的には、ガイス教授の存在が決め手となった。教授はNASAに科学者の友人が数多くいたため、ボクスラーさん曰く「献身的、かつ巧みに」NASAと友好関係を保っていたという。 

アルミ箔シートはマイスターさんが自ら手荷物で米国に持参した。その後行われた3回のミッションでは、月ロケットの打ち上げを1.5キロメートルという至近距離から目にする機会に恵まれた。「素晴らしい体験だった。特殊な騒音に包まれ、低周波が私の胃にビリビリと響いた。そして着ていたシャツが振動で震えているのが分かった。まるで巨大なフライパンで目玉焼きを焼いているような音だった」

アームストロング飛行士とオルドリン飛行士が月面に降り立ったとき、スイスは夜中の3時だった。ベルンでは、物理学者らが研究所のテレビの前で固唾をのんで一部始終を見守っていた。マイスターさんは「特に緊張はしていなかった」と言う。「シートがトラブルを起こすことは絶対ないと確信していた。事前に何百回もテストで確かめたのだから」。一方、ボクスラーさんは「ただ飛行船が無事に地球に戻って来るよう」ひたすら祈っていたという。 

若き物理学博士だったマイスターさんは、ベルン大学を去った後、テキサス州でアポロが行った別の実験のデータ分析を担当した。スイスに戻るとトゥーンの弾薬工場に就職し、徹甲弾(装甲に穴を開けるために設計された砲弾)を扱った。今でも飛ぶものなら何でも興味があるそうだ。

もっとも、現在トゥーンの近郊で暮らすマイスターさんは、飛行機やロケットではなく、夫人と一緒に蝶の飼育に精を出しているという。そして月を見上げるたびに「あそこには自分が手にしたポールが5本も残されているのだ」と特別な思いに満たされるという。 

一方、ボクスラーさんは仕事の関係でイスラエルへ赴いた。米国にあまり興味がなかったボクスラーさんは「米国のベトナム戦争参戦もその理由の一つだった」と言う。ベルンに戻ってからも太陽風の研究を続けた。後の宇宙探査機では別の機器が用いられたが、アポロで使ったシートの実験結果が正しかったことを証明している。

ビッグ・バン理論の不一致を解消
アルミ箔シートがもたらした功績とは何だったのか。ボクスラーさんは、管理された方法で太陽風を採取し、実験室で調べることが初めて可能になった点だと説明する。 

地球上では磁界と大気圏が邪魔するため、太陽風を測定できない。それまで太陽風の痕跡は隕石にのみ確認されていたが、地球に落下する前に隕石がどのくらいの時間太陽風にさらされていたのかは闇の中だった。

だがシートを使った測定結果によって、初めて太陽風の構成要素がより正確にわかり、そして驚くべき事実が判明した。太陽風に含まれる水素は、デューテリウムという重水素の割合が、地球上の水素とも隕石に付着している水素とも大きく異なることを研究者らは突き止めたのだ。「そのおかげで突然、ビッグバン理論の不一致を解消することができた。たった1枚のシートが、大きな疑問の解決に役立ったのだ」(ボクスラーさん)

ベルンの物理学研究が大きく躍進
この太陽風研究に使うアルミ箔シートのおかげで、ベルン大学、ひいてはスイスの宇宙研究が大きく前進した。ガイス教授は自身の知名度を追い風に、研究所の拡大に務めた。これがその後の飛躍のベースとなった。 

その結果、ベルンの研究者たちは定期的に国際プロジェクトに参加する機会に恵まれた。チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星(「チュリ」とも呼ばれる)の周りを2年間周回した探査機ロゼッタ(Rosetta)はまだ記憶に新しい。

探査機ロゼッタは、この謎の多い彗星の化学組成を「嗅ぎ分けられる」ベルン開発の高性能機器を搭載していた。そして探査の結果、「チュリは馬の糞の匂いがする」ことが判明したという。

太陽系の外にある惑星に注目
ベルン大学は宇宙研究において世界のトップに名を連ねる。NASAで科学ディレクターを務めるトーマス・ツルブーヘンさんが自らそう太鼓判を押す。 

「ベルン、そしてスイスの科学者は新たな研究分野を開拓し、自らが開発の中で重要な役割を担うことに成功した」とツルブーヘンさんは雑誌「スイス・レビュー」の電話インタビューに回答。その一例として太陽系の外の惑星に関する研究を挙げた。

一度成功を収めたからといって、それに満足して気を抜くのは間違いだとツルブーヘンさんは言う。「世界的に成功したければ、守りに徹しないで攻めることが大切だ」

ベルナーオーバーランドで育ったツルブーヘンさんは、まるでベルンの宇宙研究のサクセスストーリーを体現するような輝かしいキャリアを誇る。しかしアルミ箔シートを使った伝説的な太陽風実験や、その後ベルンが享受した名声なしには、自身の経歴も全く違うものになっていただろう。

1990年代初頭、ツルブーヘンさんは博士課程の学生として、ボクスラーさんの元で米国の太陽探査機で使う器具の開発に携わっていた。「この研究はアポロで使ったアルミシートの流れを汲むものだった」とツルブーヘンさんは振り返る。

ツルブーヘンさんは現在、NASAの頂点に立つ研究者として約70億ドル(約7513憶円)の予算を管理する。彼の決断は、約1万人の科学者とエンジニアに影響を与えるのだ。

次は火星?
では、人類の次の目標は?アポロ11号から50年経った今、月への回帰と火星への旅が注目されている。もちろんNASAはその最前線にいる。 

しかしこれについては意見が分かれる。ボクスラーさんと、かつての弟子のツルブーヘンさんも、それぞれ異なる意見を持つ。

反対派の主張は聞かなくても分かるとツルブーヘンさんは言う。地球上には火星旅行よりも先に解決しなければならない緊急の問題が山積みで、有人探査は高リスクと膨大なコストが伴うということだ。

しかし、可能な限り限界に近づきたいと思うのが人の性。「なぜ火星に行きたいのか?」との問いにツルブーヘンさんはこう答える。「それが可能だからだ」

また、こういったプロジェクトが後にもたらすメリットは予測できない。20世紀半ばに最初の探査機が打ち上げられたとき、衛星の存在が天気予報や地球の気候データの記録に欠かせなくなると誰が予測しただろうか。「世界中で最も正確な二酸化炭素(CO2)の値はNASAが集計している」とツルブーヘンさんは言う。さらに、研究は人々をつなぐ役割がある。「それが、私がこういったプロジェクトを推進する大きな理由の一つだ」

一方、ツルブーヘンさんと異なる意見を持つボクスラーさんは、有人宇宙飛行に賛成する人たちの意見は想像がつくと言う。確かに、50年前に宇宙飛行士が月から持ち帰った岩石が科学的に貴重だったことは認める。「私自身も、かなりの量の岩石を分析に使わせてもらった」

そして寛大にも世界中の研究所にサンプルを提供したNASAを称賛しつつ、無人探査機でも同様の量の岩石を持ち帰れたに違いないとボクスラーさんは見る。彼に言わせれば、莫大なコストがかかる有人プロジェクトは「大半が名声のためだけに行われ」、そのせいで科学の進歩によっぽど貢献するだろうプロジェクトが犠牲になる。ボクスラーさんは火星植民地の合成写真を見ると、もし無人ミッションに同じ資金があれば、どれだけ「素晴らしい実験」ができるだろうと疑問に感じるという。

マイスターさんも、火星への飛行には否定的だ。「火星はあまりにも遠い。空のどこにあるかさえ知らない人がほとんどだ」。だが誰もが親しむ特別な星である月は違う。人間がそこに一度行ってみたいと思うのは自然な成り行きで、月への旅は「全く妥当だった」と考える。しかし同じことを繰り返す必要はないと言う。「月の上がどんな様子か、もう50年前から分かっているのだから」

スイスにおける歴代の天文学者(抜粋) 

ルツェルンに生まれたイエズス会の数学者、天文学者であるヨハン・バプティスト・シサット(1586〜1657年)は新たな連星系を発見した。

ジャン・フィリップ・ロワ・ド・シェゾー(1718〜1751年)はローザンヌ出身の天文学者。星群とガス星雲に関する記録を数多く残した。

チューリヒ近郊で生まれたルドルフ・ウォルフ(1816〜1893年)は、太陽の黒点の活動の周期性が地球磁場の周期と一致していることを観測した。

ブルガリアに生まれたスイス国籍のフリッツ・ツビッキー(1898〜1974年)は米国で活躍し、独自の銀河の理論で天文物理学を変えた。

パウル・ヴィルト(1925〜2014年)はベルン大学の天文学研究所の所長を務め、90個を超える小惑星と7個の彗星を発見した。

ハンス・バルジガーとエルネスト・コップは、主に電離層の研究に使われる小型ロケット「ゼニット」を開発。ロケットは1967年、宇宙に飛び立った。

ヨハネス・ガイスが(1926年〜)ベルン大学で開発したアルミ箔シートは、アポロ11号が月で行った太陽風の実験に使われた(本文参照)

1995年、ジュネーブ天文台のミッシェル・マイヨールとディディエ・ケロズが初めて太陽系外惑星「ペガスス座51番星」を発見した。

1992年、クロード・ニコリエール(1944年〜)がNASAでスイス人初の宇宙飛行士として宇宙に飛び立った。

スイスのアマチュア天文家、マルクス・グリーサー(1949年〜)は小惑星帯を10個発見し、2002年に発見した小遊星は「スイス」を意味する「ヘルヴェチア」と名付けられた。

カトリン・アルトヴェッグ(1951年〜)は探索機ジオット(Giotto)と探索機ロゼッタ(Rosetta)のミッションにおいてスイスの宇宙研究の立役者として活躍した。



インフォボックス終わり
この本文は雑誌「スイス・レビュー他のサイトへ」に掲載された記事を翻訳したものです。


(独語からの翻訳・シュミット一恵)
大阪入管で監禁状態と収容者非難

6人部屋に17人、24時間施錠

2018年11月4日

法務省大阪入国管理局(大阪市住之江区)の外国人収容施設で6月、最大6人用とみられる居室に収容者17人が入ったまま、職員が24時間以上施錠を継続したことが4日までの大阪入管などへの取材で分かった。

 収容者らは「狭い部屋への監禁」と非難。大阪入管は1室に集まった収容者が「罵声を発したり扉をたたいたりしたため秩序維持の観点から事故発生を懸念、施錠を続けた」と説明している。

 入管収容に詳しい仲尾育哉弁護士は「入管側に収容に関する一定の裁量があっても長時間17人を閉じ込める必要性があったのか疑問。裁量範囲を逸脱した疑いが強い」と批判している。

福井新聞ONLINE
カタルーニャ独立派百万人がデモ
バルセロナで

 【パリ共同】スペイン北東部カタルーニャ自治州の祝日の11日、スペインからの分離独立を目指す市民らが数年来恒例の大規模デモを州都バルセロナで行い、地元警察によると約100万人が参加した。

 カタルーニャでは昨年10月、州政府が中央政府の反対を無視して独立を問う住民投票を強行。州議会の一方的な独立宣言を受け、中央政府は自治権を一時停止した。人口約750万人の州の世論が二つに割れる中、独立派の指導者らは多数の動員で改めて勢力を示すよう呼び掛けていた。

 赤と黄のしまに青の三角と星を配した独立派の旗とともに通りを埋めたデモ参加者は「独立を」と唱えた。



7/29(日) 5:52配信 AFP=時事

ロシア、年金支給年齢引き上げ案に数万人が抗議 大統領の退陣要求も

ロシア首都モスクワで、政府が提案した年金支給開始年齢引き上げ計画への抗議集会に参加したロシア共産党支持者と左派活動家ら(2018年7月28日撮影)。【翻訳編集】 AFPBB News

【AFP=時事】
 ロシア各地で28日、年金支給開始年齢を引き上げる政府計画への抗議デモが行われ、数万人が参加した。政府提出の年金改革法案が国会で審議され、同案への反発が高まる中、共産党(Communist Party)がデモを主催した。

【写真】モスクワでの抗議デモの様子

 デモは許可を得て行われたもので、主催者発表によれば首都モスクワでは最大10万人が参加した。一方、報道された参加者数はこれを大きく下回り、1万人前後と伝えられている。

 デモは極東(Far East)、シベリア(Siberia)や西部にある数十の市町で実施された。モスクワでは参加者が「プーチンに年金を渡して引退させろ!」と声をそろえ、「私たちは年金で暮らしたい。働きながら死にたくない」などのスローガンが書かれた横断幕を掲げた。



 年金改革案はウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領率いる与党の支持を受けており、市民が公に反対を表明することは少ないが、今回はすでに290万人が抗議の請願に署名。与党に追従することの多い共産党も反対している。

 プーチン大統領は今年3月の大統領選で年金改革に言及しなかった上に、過去には年金支給開始年齢は引き上げないと公約していた。国営世論調査会社VTsIOMによると、同大統領の支持率は5月には80%だったが、今月は64%に低下した。

 ロシアの年金支給開始年齢はソビエト連邦時代に定められた女性55歳、男性60歳のままとなっており、今回の年金改革法案はこれを女性63歳、男性65歳まで段階的に引き上げるとしている。

 共産党のゲンナジー・ジュガーノフ(Gennady Zyuganov)党首は、ロシア人男性の平均寿命は60歳代前半だとし、「彼らは皆、棺桶の中で年金を受け取ることになる」と述べた。【翻訳編集】 AFPBB News

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