韓国文化を守った浅川伯教・巧兄弟→李朝白磁を近代日本に再び広め、そして朝鮮半島に眠る、、、[[attached(1)]]=[[attached(2)]][[attached(3,right)]] seoul/淺川巧の墓 淺川伯教の弟淺川巧と柳宗悦その柳宗悦が、民芸運動を始めて、最初に注目した工芸品が「李朝の工芸」だったそうです。 柳宗悦は我孫子で淺川伯教が持ち込んだ李朝白磁に魅せられ、その後生涯で21回朝鮮半島を訪れました。現地で淺川伯教の弟淺川巧とともに朝鮮古陶磁をはじめ、民具、雑器などの調査収集活動を行ない、そのことがのちの民藝運動の原点となりました。古陶磁器収集に手持ち資産の大部分をつぎ込んだといわれてます。 その当時、朝鮮陶磁器といえば、「高麗青磁」が殆どで、「李朝陶磁」などに目を向ける人は殆どなく、 専門家たちからも、「堕落した陶器」と呼ばれていたそうです。 そこで、柳宗悦の力になったのが、先の淺川伯教の弟巧でした。 淺川巧は、当時の朝鮮に在住し、朝鮮の言語を話し、同じ服を着て、家でも朝鮮風の生活をしていたそうです。 当時の朝鮮といえば、日本に植民地支配されていた状況で、この国では稀有な日本人だったのです。 その淺川巧と肝胆相照らし合うことによって、李朝陶磁器の収集も進み、更には巧の発案によって、 朝鮮美術館構想が生み出され、1924年(大正13年)美術館開館の運びとなります。 しかし、1931年、巧急死、40歳でした。 宗悦の河井寛次郎に宛てた手紙に、「片腕をもぎ取られた思い」と痛切な叫びが見られます。 コーヒーブレイク 野田隆稔先生の史話集より 【韓国文化を守った浅川伯教・巧兄弟】 《生い立ち》 淺川伯教(のりたか)は1884(明治17)年、山梨県北巨摩郡甲村五丁田(平成の大合併で北杜市)に、父如作、母けいの間の第一子として生まれました。その7年後の1891(明治24)年1月、巧は生まれました。父如作は巧が生まれる半年前に、31歳の若さで病死しますが、巧には7歳上の兄伯教と4歳上の姉栄がいます。母けいが女手一つで家を守り、3人の子どもたちを育てました。 彼らが生まれた巨摩郡は甲斐駒(馬)の産地であったところから、つけられたといわれていますが、「こま」とつく地名は朝鮮半島の人々(主に高句麗から来た人)が住み着いた場所だといわれています。高麗、駒、狛の付く地名はそれに当たるといわれています。 母方の祖父千野真道が「巨摩郡は高麗人の住んだ所で巨麻と呼ばれた。我々には遠い祖先の血が流れている。高麗人の血が」と語ったことが『白磁の人』の中に書かれていますが、巨摩は高麗人の住みついたところと考えてもいいかもしれません。 (中略) 師範学校に入学すると、キリスト教に入信します。母方の祖父千野真道が神官であったことからすれば、神道と正反対なキリスト教に帰依することは奇異な感じがします。伯教の影響を受けてやがて巧も入信します。キリスト教の影響は彼ら兄弟が差別なく朝鮮の人々に接することに現れています。 1906年、師範を出た伯教は小学校の教師としての生活を始めます。1910年、この年は日韓併合があった年ですし、大逆事件が起きた年でもあります。日本が帝国主義に大きく踏み込んだ年でしたが、一方では『白樺』が創刊され、理想主義運動が動き出し、大正デモクラシーの胎動につながる年でもありました。伯教は『白樺』を購読し、白樺派に近づいていきます。1912年、ロダンに傾倒していた伯教は彫刻を習い始めます。 一方、巧は1906年、山梨県立龍王農林学校に入学し、甲府市郊外で、教職に就いた兄の伯教と同居を始めます。伯教の影響を受けてキリスト教や白樺派に傾倒していきます。 《兄弟、朝鮮に渡る》 1913年、伯教は朝鮮の美術品の研究をしたいため、母けいと共に朝鮮に渡ります。 その年、伯教は三枝たか代と結婚します。たか代は梨花女子専門学校と淑明女学校で英語の講師をして、生活を支えます。 伯教は教師をしながら、彫刻の制作(1920年、『木履の人』が帝展=現在の日展に入選します)に当たる一方、その当時、見向きもされなかった朝鮮白磁に注目し、研究を始めます。 兄を敬慕し、その影響を強く受けている巧も朝鮮行を決意します。1914年、大館の営林署を辞め、朝鮮に渡ります。伯教や巧のような資格を持っている者は専門分野の職にすぐ就けます。巧は5月に朝鮮に渡り、7月には朝鮮総督府農商工部山林課に就職し、朝鮮国内の植林業務に従事します。 巧が山林課に就職した当時の朝鮮の山は乱伐され、はげ山状態に荒れていました。清やロシアによって乱伐されたといわれていますが、日本がそれに輪をかけました。1908年、統監府の管理下にある韓国政府に「森林法」を公布させ、持ち主がわからない山を「無主公山」として国有化させ、それを日韓併合後総督府のものにし、日本人や親日派の朝鮮人地主に分け与え、軍用材の供給地にして山林を乱伐したのです。これは林野の入会権を農民から奪い、農民を疲弊に追い込むことになりました。 日韓併合後の1910年、総督府は土地調査事業を行い、朝鮮の農民から土地を収奪していきますが、そのモデルは森林法にあったといえます。 巧は朝鮮に住むためには朝鮮語を覚えることが必要だと考え、山林課の朝鮮人雇員から朝鮮語を習います。3ヶ月でほぼものにしたといわれています。 『白磁の人』では朝田政歳妹みつえとなっています。年齢も3歳下になっています。『白磁の人』と『朝鮮の土となった日本人』に食い違いがあるのは気になりますが、ここでは指摘するだけに留めて置きます。本文は高崎説で書きました。 柳宗悦(むねよし1889〜1961)は白樺派で、民芸運動を起こした人と知られていますが、高校の日本史で、「柳は三.一独立運動で『反抗するも彼らより一層愚かなのは圧迫する吾々である』と、日本の朝鮮支配を批判した数少ない日本人だ。京城において道路拡張のために景福宮(キョンポックン)の光化門(クァンファムン)が取り壊されようとしたとき、これに反対し、移築保存させた人だ」ということを習いました。光化門がなんであるかさえ解りませんでしたが、良心的な日本人がいるものだと思ったことを覚えています。柳の朝鮮文化保護に影響を与えたのが淺川兄弟だったのです。 1917年、巧とみつ江の間に、長女園絵が生まれました。 巧が発明した養苗法に「露天埋蔵法」というのがあります。採集したその山の中に自然の状態をつくって埋め、翌年の春、種子を掘り出して苗床に蒔くというもので、当時としては世界的な発明であったといわれます。巧はそれを幾つかの論文に残しています。巧は朝鮮文化の保護者として名を残していますが、このように科学者としても業績を残しています。 順風満帆の巧の人生に不幸が見舞います。妻のみつ江は園絵を生んだ後、体調がすぐれず、甲府で療養していましたが、1921年、薬石効なく亡くなります。葬儀のあと、園絵を淺川政歳に預けて、朝鮮へ一人で戻りました。 巧は失意の中、山の植林に力をいれながらも、柳が提案した「朝鮮民族美術館」の設立の準備に当たります。仕事の面では充実していたけれど、精神的には一番辛いときでした。 伯教は学校を辞め、朝鮮陶磁の窯場の調査に全力を尽くします。彼の研究で、朝鮮陶磁の歴史が明らかになっていきます。さらに、高麗青磁を復活させるために、朝鮮人の陶工たちを援助します。伯教の指導のもとにで、高麗青磁を復活させた人は池順鐸(チスンタク)で、韓国陶磁器界の巨匠といわれるようになります。 韓国へ行くと、青磁が土産物として売られていますが、その基礎を伯教が作ったといっても過言ではありません。 一人暮らしの巧に、再婚話を持ってきたのは柳でした。巧は再婚することはみつ江に申し訳ないという思いがありましたが、柳の「園絵さんをいつまで、預けておくのか、再婚して一緒に暮らしたらどうか」という説得に、子煩悩な巧は折れます。 1923年、巧は大北咲子と京都で結婚し、園絵を連れて、京城に戻ります。園絵も咲子になれて、温かい家庭を取り戻します。しかし、またもや家庭に不幸が見舞います。咲子との間に生まれた次女が生後、数時間で亡くなったことです。 巧は伯教が焼いてくれた小さな白磁の鉢に遺骸を入れ、白木の墓標に『天使の人形の墓』 と記し埋葬しました。 次女の死産という痛手を抱えながら、巧は林業試験所の仕事をし、休日を利用して、陶磁器の研究を続けると共に、あらたに木工芸の美に魅かれ研究を始めます。巧は研究をするとき、チョゴリ・パジを着用し、達者な朝鮮語をしゃべりましたから、彼に接した朝鮮人の中には巧が日本人であることを知らない人もいました。 支配民族として、朝鮮人を低く見ていた日本人でありながら、朝鮮人の視線で接する巧は朝鮮の人々の信頼を集めます。 陶磁器の研究は『朝鮮陶磁名考』に、木工の研究は『朝鮮の膳』となって結実します。 巧は生まれてから病気らしい病気はしたことがなく、健康に自信を持っていました。仕事、研究に睡眠時間を削って無理をします。 1931(昭和6)年、その無理がたたって、風邪を引きます。「風邪くらいで、休むわけにはいかない」と一日休んだだけで林業試験場に出勤します。雨の中を歩き回り、風邪をこじらせてしまい、40度近い熱をだし倒れます。3月27日のことでした。医者から「急性肺炎」と診断されます。咲子の止めるのも聞かず、高熱をおして柳から依頼された『朝鮮茶碗』の原稿を書きあげます。これが絶筆になります。 巧の症状は「峠を越えた」という医師の診断があり、病床に詰め掛けた人たちがほぉとした直後に急変します。意識が混濁する中、「責任がある・・・」と繰り返して叫んだといわれています。「何についての責任なのか」、試験場関係者は「未完の仕事」だと思ったかもしれないし、美術関係者は「巧の研究」かもしれないと思ったかもしれない。臨終の席にいた安部能成(ヨシシゲ。思想家、教育者。戦後の幣原内閣で文部大臣を務め「教育基本法の骨子」を作った)は「朝鮮とこの国の人たちへの責任だと感じた」と書いています。 葬儀は4日、雨の中を、キリスト教の様式で行われました。柳たちの弔辞が読まれ、巧みの好きな賛美歌409番「やまじこえて ひとりゆけど 主の手にすがる 見はやすけし」が歌われました。巧は白いチョゴリ・パジを着て、重さ150キロの二重の棺に納められました。出棺のとき、巧の死を聞きつけた多くの朝鮮の人たちが見守りました。 「彼の死が近く村々に知らされた時、人々は、群れをなして別れを告げに集まった。横たわる彼の亡躯を見て、慟哭した鮮人(侮蔑語ですが、原文通りにしました)がどんなに多かった事か。日鮮の反目が暗く流れてゐる朝鮮の現状では見られない場面であった。棺は申し出によって悉く鮮人に担がれて、清涼里から里門里の丘へと運ばれた。余りにも申し出の人が多く応じられない程であった。その日は激しい雨であった。途中の村人から棺を止めて祭をしたいとせがまれたのもその時である。彼は彼の愛した朝鮮服を着たまま、鮮人の共同墓地に葬られた。」(柳宗悦『淺川のこと』)という、柳の文にそのときの様子が見事に描かれています。 参考文献
『白磁の人』江宮隆之 河出書房
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[[attached(1,left)]][[attached(2,center)]] 朝鮮をこよなく愛した柳宗悦 最初に柳 宗悦が残した言葉の一説です。(昨今の嫌韓の人たちに捧げる言葉?) 「私は想う、或国の者が他国を理解する最も深い道は科学や政治上の知識ではなく宗教や芸術的な内面の理解であると思う。言い換えれば経済や法律の知識が我々を他の国の心へ導くのではなくして、純な愛情に基く理解が最も深くその国を内より味わしめるのであると考えている。?H4>「我々日本人が今、朝鮮人の立場にいると仮定してみたい。恐らく義憤好きな我々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であろう。中略」 李朝工藝から民藝運動へ 柳は、李朝陶磁に惹かれ、李朝の工芸品の美しさに引き込まれていきますが、これらの作品はみな無名の工人によって造られた物であることを思い、民族の工藝の伝統は日本にもあると着想し、日本の工芸へと、自身の目をむけていきます。後に木喰仏(もくじきぶつ)を見出し、それを探し求める旅は、同時に日本民芸運動への旅ともなり、1936年(昭和11年)10/24の「日本民芸館開館」へと繋がっていくことになるのです。 大正10年雑誌《白樺》1月号の「朝鮮民族美術館設立趣意書」の一節を引用 [[attached(3)]]ポジャギ(李朝鮮の伝統的パッチワーク )
「私は先ずここに民芸芸術としての朝鮮の味ひのにじみ出た作品を蒐集しようと思ふ。如何なる意味に於いても、私はこの美術館に於いて,人々に朝鮮の美を伝えたい。そうしてそこに現れる民族の人情を目前に呼び起こしたい。それのみならず、私は之が消えようとする民族芸術の消えない持続と新たな復活との動因になる事を希(ねが)ふ。」
柳は消えようとしている李朝(1392年から1910年)の工藝の美しさを、喧伝して、それを朝鮮民族の誇りとしてほしかったのでしょう。名も無い職人たちの造った、用のための工芸品には、それが美を追求したものでない故の、美しさがあり、無心でつくられた道具たちには、すべてに美は宿ると記してます。 陶磁器をはじめ朝鮮の芸術品を愛した彼はその作者である朝鮮人、朝鮮民族を尊敬し、朝鮮を限りなく愛した。幾度となく夫人を伴って朝鮮を訪問した彼は「朝鮮に住みたい」とまで講演会で述べています。 柳はただ朝鮮をこよなく愛しただけではなく、多くの著作と芸術品収集等の活動によって朝鮮と日本の関係史に多くの業績を残しました。その業績を大別して書いて見ます。 一、柳は日本の朝鮮支配、植民地化は不当であると反対し、正義の言論を行ないました。そして朝鮮民族を抹殺する同化政策を徹頭徹尾批判しました。 1919年(大正8年)、朝鮮全土で朝鮮人民の3・1独立運動が起きます。「独立万歳」を叫ぶ平和的なデモですが、日本は軍隊まで動員して苛酷な弾圧をおこないました。しかし独立運動は、ソウルのパゴダ公園を中心に、朝鮮全土に広がりました。この時、軍による弾圧によって死者は韓国全土で約6,670人、負傷者は14,600人、投獄された者、52,730人にのぼったといわれています。 日本の侵略と暴虐行為にたいし、日本の一般大衆はもちろん、知識人も沈黙していました。 「黙している事が私には一つの罪と思えた」という柳は、当時の「読売新聞」に論文『朝鮮人を想う』を発表して、日本の罪行を告発しました。 「先ず彼等から奪ったものは軍隊であり、我々から送ったものは彼等のでない我々の軍隊であった。我々は先ず永遠の独立を彼等に不可能ならしめる固定した方法をとった。」 「日本は不幸にも刃を加え罵りを与えた。之が果たして相互の理解を生み、協力を果たし、結合を可能にするだろうか。否、朝鮮の全民が骨身に感じる所は限りない怨恨である、反抗である、憎悪である、分離である。独立が彼等の理想となるのは必然な結果であろう。」 柳はその後の論文「朝鮮とその芸術」で朝鮮は独立すべきであり、日本の同化政策は間違いであると次のように批判します。 「2つの国にある不自然な関係が正される日のくることを切にねがっている。正に日本にとっての兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも日本にとっての恥辱の恥辱である。」 「朝鮮固有の美や心の自由は他のものによって犯されてはならぬ。否、永遠に犯されるものではない真の一致は同化から来るものではない。個性と個性との相互の尊敬に於いてのみ結ばれる一があるのみである…」 柳のこのような発言は日本の官憲から睨まれることになり、私服刑事が家の周辺をうろつき、終戦の日まで常に監視されます。 二、朝鮮の芸術品の美を発見して、その優秀さを賞賛するだけでなく、ひろく内外に紹介した。 当時、多くの日本の知識人は朝鮮の芸術は中国の模倣であるといわれていました。それにたいして柳は、 「朝鮮の美は固有であり独特であって、決してそれを犯す事は出来ぬ。疑いもなく何人の模倣をも又は追随をもゆるさぬ自律の美である。只朝鮮の内なる心を経由してのみあり得る美である。私は朝鮮の名誉の為にもこれ等のことを明晰にしたい。」(『朝鮮の友に贈る書』) 「日本が国宝として世界に誇り…国宝の国宝とよばれねばならぬもの殆ど凡ては、実に朝鮮の民族によって作られたのではないか…正等に言えば朝鮮の国宝とこそよばれねばならぬ。」(『朝鮮の美術』) 柳はそのあかしとして法隆寺の「百済観音」、「玉虫厨子」、広隆寺の「弥勒菩薩」をあげ、奈良正倉院に伝蔵されている古作品の「大部分は恐らく朝鮮から伝来したものであろう。」推古の黄金時代の日本は「朝鮮の美で飾られていた」といい、朝鮮の芸術は「世界の最高の栄冠を戴く」と賞賛もしています。 三、に光化門を総督府の破壊から守り、散逸していた朝鮮の美術品を募集して「朝鮮民族美術館」を開設して、これを保存しました。 柳は景福宮の前に立つ歴史的建造物である光化門を総督府が破壊する計画を知り、抗議文「失われんとする一朝鮮建築のために」を書いて内外に訴えた。これが功を奏して、光化門は破壊を免れ、移転保存されることになったといわれています。 1922年「改造」9月号に『失われんとする朝鮮建築の為に』と題する文章引用 「一つの芸術の失われんとする運命に対する追惜と、王宮の正門であるあの壮大な光化門が取り壊されることについて、東洋古建築の破壊に対して胸を締め付けられる想いを感じている」と、嘆く柳宗悦の文章でありました。 柳はまた、陶磁器、仏像、木工品、民画、民芸品等の貴重な芸術品が朝鮮から散逸していることに心を痛め、私財を投じてこれ等の芸術品を集め、当時朝鮮林業試験所に技師として勤めていた淺川巧の協力を受けて、1924年ソウルに「朝鮮民族美術館」を開設します。総督府は「朝鮮」という文字を看板から抜くように迫っりますが、柳は最後まで抵抗して、「朝鮮」と言う言葉を守ります。柳が集めた芸術品は現在、韓国国立博物館に保管されています。また、柳はこの経験を生かして、日本に民芸運動をおこし、12年後の1936年東京に日本民藝館を開設します。今も、一室には朝鮮の芸術品が常時陳列されています。 第四に21回にわたり朝鮮を訪問し、多数の朝鮮人と接触して文化交流、心の交流を行ないます。 以下は1921/5/5の東亜日報の記事には 「朝鮮人を本当の心で愛する人は東洋大学教授の柳宗悦である。また豊かな、円熟した技芸を持つ…柳兼子氏はその夫人である。…朝鮮の友である彼らは、朝鮮を愛し、朝鮮の美術を愛するので…民族の命が流れる古代美術品が朝鮮から流失することを誰よりも惜しく思って、朝鮮民族美術館をたてた。」と記されています。 大正10年雑誌「白樺」1月号の「朝鮮民族美術館設立趣意書」の一節を引用より。 ポジャギ 《これは骨董ではない》晶文社より
「私は先ずここに民芸芸術としての朝鮮の味ひのにじみ出た作品を蒐集しようと思ふ。如何なる意味に於いても、私はこの美術館に於いて,人々に朝鮮の美を伝えたい。そうしてそこに現れる民族の人情を目前に呼び起こしたい。それのみならず、私は之が消えようとする民族芸術の消えない持続と新たな復活との動因になる事を希(ねが)ふ。」
消えようとしている李朝(1392年から1910年)の工藝の美しさを、喧伝して、それを朝鮮民族の誇りとして、名も無い職人たちの造った、用のための工芸品には、それが美を追求したものでない故の、美しさがあり、無心でつくられた道具たちには、すべてに美はやどる。この美に反応する心の韻律をもち、豊かな共鳴の心を持つならば、あらゆるものに宿る美を感ずる事ができる。柳の朝鮮観にはもちろん、「独立のために革命をしてはならない」等の思想的な限界もみられますが、当時、植民地となった、まさに暗黒の時代であった朝鮮にあって「民族」を否定され、日本の暴虐に訴えることもできなかった朝鮮人にかわって、柳が勇気ある正義の発言をしたことや、朝鮮の芸術品の優秀さ、美を発見し、世界に紹介したこと、朝鮮人と心からの交流をしたことなどは、彼の思想的限界をはるかに超える立派な行動とし、高く評価されるべきでしょう。 今も尚、蔑視、偏見、差別がいまだ残っている日本の中で人間としての誇りと自覚をもって生きるためには、民族文化を理解し、異国の民や文化に敬念と情愛をもって接してくれた柳のような日本の友は、依然として今日も貴重な存在であると思います。 《柳宗悦の文化賞授与》 1957.11(67歳) 文化功労賞 1960.1(71歳) 朝日文化賞 1984 (没 後)韓国政府より宝冠文化勲章 [編集] 著作 手仕事の日本(岩波文庫) 南無阿弥陀仏(岩波文庫)茶と美(講談社文庫)民芸四十年(岩波文庫) 工芸への道(講談社文庫) 美の法門(岩波文庫) 柳宗悦茶道論集(岩波文庫) 柳宗悦妙好人論集(岩波文庫)柳宗悦随筆集(岩波文庫)工芸文化(岩波文庫) 蒐集物語(中公文庫) 朝鮮を想う(筑摩書房) 柳宗悦全集(筑摩書房) [編集] 外部リンク
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最近ではめっきり、簡素化されてきましたが、なお、我が家では手作りの供え物を上げます。韓国は(教会は除く)、儒教が生活因習、風習、風俗として定着した法事(法要)の儀式は厳粛であると同時に、殊更形に拘る文化でもあります。すればするほど切がありません。魚は青い背の物はダメ、お膳にあげるものに、ニオイノする、にんにくを使ってはダメ、品数は偶数はダメ、”紅東西白”と言い、(紅い物=牛肉やりんご等)東側に、白いもの=白身の魚や豚肉、バナナ等は西側に置くと言う具合に、限りなく形にこだわる社会です。仏壇は置かない社会です。そのため、普通は故人が亡くなり3年(丸2年)お膳を置き、朝昼晩、食事を上げ、毎月1,15日の朔望尊の日には、朝から法要をします。そして1,2周忌をし、それを終えれば善は片付け、それから3代(最近では2代)に渡って毎年、欠かすことなく、命日の法要と正月、秋夕に何十年に渡って法要を繰り返します。
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【マルセ太郎さんの自伝、『芸人魂』(講談社)。決して上手な文章とは言えないですが、面白くやがて哀しい男の人生を魅力的に描いています。すでに絶版だと思いますが、古本屋などで見かけたら是非買って読んでみて下さい。少なくとも田代まさしの自伝よりかは面白いことは保証します(笑)】 最近の靖国神社論争や日韓の北朝鮮への温度差の影響なんでしょうか? ブログやインターネット掲示板を見ると、随分在日コリアン含めた韓国関係の文化や人々を非難する内容が多いです。 僕は、別に韓国が特別に好きなわけでもありません。 また、韓国政府や韓国人、在日韓国人の対応は、日本人には理解しにくい部分もあります。 正直なところ、アンタら、そりゃ違うやろ!と思うこともしばしばです。 しかし、インターネットの話題の中には、ヒステリックに民族そのものを全否定しているものも多く、疑問を感じます。 そして、そんな文面を見ながら、孤高の芸人 マルセ太郎さんのことを思い出していたのでした。 大学時代、先輩と居酒屋で好きな芸人について話をしたときでした。 ひょんなことから、形態模写が上手い芸人は誰か?と言う話題になり、様々な芸人が出てきた後、 先輩の口からひょっこり出てきたのが、マルセさんでした。 『ああ、そんなんいましたね。』 冷酒に舌鼓をうちながら、興味なく相槌をうった記憶があります。 僕もマルセさんの名前は知っていました。 しかし、あくまで名前程度で興味も関心もありませんでした。 正月の特番か何かで徳光アナウンサーの後ろで延々得意のゴリラの形態模写をしていた奇妙な芸人って印象ぐらい。 結局、この時は、マルセさんのことはそれ以上話題にならず、あっという間に他の話題に移りました。 そして、社会人。僕は、東京の本社に配属になりました。 付き合っていた彼女も遠距離になり、デート三昧の休日は、一人盛り場をうろつく日々と変わりました。 そんな退屈な週末のある雨の日、見たかった映画が満員で入れず、仕方なく入った場末の小劇場。 そこで、偶然マルセさんに再会したのでした。 演題は、マルセさんが1本の映画を丸々演じ、語る『スクリーンのない映画館』と言う奇妙な一人芝居でした。 薄暗く、小汚い劇場は、驚くほど閑散としていました。 僕を含め、お客さんは、10名もいなかったと思います。 そこいらの学生演劇の方が余程集まるでしょう。 あまりの少なさに何かのドッキリ企画ではないかとさえ思ったほどです。 実際、マルセさんはこの頃、どん底状態。ほとんど世間から忘れられた存在でした。 熱心なファンが何とか支えている状態だったと後で聞きました。 客の少なさ(しかも半数以上は、明らかにマルセ信者)と言う状態に居心地が悪く、出て行こうかとも思いました。 しかし、結局最後まで出て行きませんでした。 何故なら、彼は題材とした映画『泥の河』をオリジナル以上に繊細に切なく演じていたからです。 映画は終戦後間もない大阪で出会った少年と少女の交流を淡々と描いた作品でした。 マルセさんの表情や仕草は、映画を思い出させるだけでなく、静かな気迫を伴って伝わりました。 それは、僕の記憶にある“単なるゴリラの物真似をする妙な芸人”とは大きく違うものでした。 誠に不恰好、しかし、真摯な熱演ぶりは、まさに彼が信奉し、名前を拝借したフランスのパントマイム演者 マルセル・マルソーを彷彿とさせるものでした。 当時、マルセさんは、東京の某所に小さな店を開いていました。 お店と言っても『人力車』と言うただの小さなスナックでした。 このお店、芸人だけではとても食べていけないマルセさんが奥さんと一緒に営んでいたのでした。 僕は、この店に時々マルセさんがいると聞き、何回か行ったことがあります。 (ちなみにこのお店、無名時代の映画監督の崔洋一さんや作家のヤン・ソギル(梁石日)さんも来ていたそうです。ヤン氏の小説、特にデビュー作の『タクシー狂騒曲』は大好きな作品だけに、一度店で会って話してみたかったです。) 確かに運がいいと、店の奥にマルセさんがいて、いろいろな話をしてくれました。 世間に忘れられた単なる貧乏芸人。当然テレビにも出ないし、風貌もサエない労務者風。 人気のタレントみたいな洗練された部分など微塵もなく、苦労ばかりが顔に出た単なるくたびれオヤジ。 しかし、僕にとっては、憧れのスターです。 大阪の下町 生野区出身のマルセさんは、大阪での子供時代の話や芸の苦労話を面白おかしく聞かせてくれました。 僕は、憧れのスターが語りかけてくれる話を夢中になって聞きました。 ある日、ひょんなことから彼が在日コリアンであることを知りました。 しかし、在日コリアンであろうと、ブラジルであろうと、アフリカであろうと、日本であろうと、関係ありませんでした。 何故なら、僕にとってそんなことは、さして重要ではなかったからです。 そんなことより、彼の演技や芸こそ重要であり、大切だったからです。 好きな芸人の芸を見れて、その人の店で心行くまで深酒ができる。 それだけで、十分嬉しかったのです。 その後、演芸に造詣が深い永六輔さんなどに再評価がされたものの、 2001年、マルセさんは、大してブレークすることなく、亡くなりました。 ここ数年、芸人ブームで様々な人がテレビや舞台で活躍しています。 しかし、僕は、まだマルセさんほどの静かな迫力を持つ芸人には出会えていません。 売れる売れないで判断すれば、芸人として落第だったマルセさん。 しかし、そんな彼が僕にとって何故偉大だったのか? それは、単に芸の魅力だけではないでしょう。 “国籍や出生、民族で判断するな、その人のありのままを見て判断しなさい。” そんな事を芸を通して僕に教えてくれたからだと思います。 文化や民族が違えば確かに食い違いもあるでしょう。 しかし、そんな違いを超え、人物を見据えて付き合っていくことはできないのでしょうか? 『こいつは〇〇だから』と言うレッテルを貼らずに対人間として接することはできないのでしょうか? 僕は必ずできると思います。 彼の芸からそんなことを学んだ僕は、外国人と結婚しました。 それもイデオロギーも文化も全く違う旧ソビエトの国、辺境の地、中央アジア出身の人でした。 披露宴も新婚旅行もない出発でしたが、仲人は、天国のマルセさんだったと勝手に信じています。
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[[attached(1,center)]] [[attached(4,center)]] 京義線で南側列車がトラソン駅を出発し、北に向かう途中、軍事境界線の通門を開けて走る歴史的な瞬間 今日、朝鮮半島の南北を隔ててる38度線の軍事境界線を56年ぶりに鉄路が結ばれました。
記念すべき56年ぶりの往来です。日本のニュースでも流れていますが、 韓国のニュースでは、『たった1時間半の距離を走るのに100年/半』がかかった、と皮肉って報じてました。 しかし一方、年老いた北から越南してきた人々(韓国では失郷民といい全人口の10分の1に相当します。)を思えば、喜んでばかりはいられません。 [[attached(2,center)]] あまりにも大きい試験運行費用だとも思えます。 [[attached(5,center)]] イムジン河を渡る統一列車 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/42722034.html ここまでして北朝鮮を助けなければならないか?助けてもらう北朝鮮は横柄な態度に終始し、援助する側の韓国は回りの事情を察して事の成功だけに奔走する始末。 あまりにも荒唐な取引関係だと言えるかも知れません。 ・・・と思うのは私だけでしょうか? [[attached(3,center)]] 朝鮮戦争前夜の冬の京義線 「平和への第一歩」が歩みだした事実を素直に喜ぼうと思います。
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