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病院の玄関を出ると、目の前に函館の海が広がっていた。波の音が聞こえる |
小説「海の声」
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「本当に来てくれたのね・・・」 |
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ぼくは、もう何も期待はしていなかった。ただ彼女の助けになりたいと思った。 |
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貝殻から、かすかに声が聞こえた。 |
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その後、ぼくは辺りを気にしながら、誰かが来れば通り過ぎるのを待って、 彼女と話し続けた。彼女の名前は、都賀真沙美。 「わたしは、ずっと病気で入院しているの。私の体はもう言うことをきかない。 心の中で叫んでも声にはならない、泣いても涙はでない。小指一本すら動かす ことができないの」 ぼくは「そうなのか」という言葉以外に、返す言葉が見つからなかった。 「ここは海が近いの。わたしはいつも、ベッドの中で波の音を聞いているわ。 波の音はわたしを励ましてくれる。私が悲しくてどうしようもない時には 『がんばれよ』って。だから、私も波に話しかけるようになったの。今日も いつものように波と話をしていたら、波の音に混じって普段と違う音が聞こえた。 車の音。そして、次にあなたの声」 「ぼくは、貝殻から君の声を聞いた」 彼女の話を聞いていると、ぼくは自分が夢の中にいるように思えた。夢の 中でなら、話をしている相手がいつの間にか別人に変わってしまうことも あったし、顔の見えない相手と話をしたこともあった。ぼくは、彼女と話を しながらも、最後はベッド中で目を覚ますであろう自分を想像した。 「ごめんなさい。少し疲れたわ。でも、またわたしの話を聞いてくれる?」 「もちろん、いいさ」 彼女の声が聞こえなくなると、貝殻から波の音も聞こえなくなっていた。 その夜、ぼくはベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。彼女のこと ばかり考えて、結局一睡もできないままに朝を迎えることになった。日頃は 夜型のぼくにとって、久しぶりに見る夜明けの街は、見慣れた街とは別の街 のようだった。人間だけではなく、街も一晩の休息で少し再生するのだろうか。 朝の街は、これから一日を迎えるエネルギーを蓄えていた。 普段のぼくは、明日に何かを期待することなど無い。大学を卒業しても 定職に着かず、バイトをしながら、何の目的も無い一日をただ無難にやり過ごし ているだけだった。毎日、昨日の残りカスだけで朝を迎える日々。 だけど今日だけは、どんなに寝不足であっても、これから始まる一日に少し 期待してみたい気がした。 「聞こえるかい?」 ぼくは貝殻に向かって、半信半疑で小さく声に出してみた。昨日のことが、 本当に現実だったのかどうか、自信がなかったからだ。 「もう聞こえないのか?」 返事は無かった。昨日のことは、やはり夢だったようにも思えたが、少なく とも貝殻だけは夢ではなく僕の手の中にあった。 その日、ぼくは一日中頭がすっきりせず、何事にも集中できなかった。 バイト先は青山にある大きな会社だ。従業員は千人を越えるらしい。その会社 の社員食堂がぼくの仕事場で、ずっと食器を片づけ、床を拭くことがぼくの 仕事だった。手の空いた時間に何度か冷蔵庫の陰で、貝殻を耳に押し当てて みたが、波の音も彼女の声も聞こえなかった。時々小声で話しかけてもみたが、 応えは返ってこなかった。 翌日からはもう、ぼくは彼女に話しかけることをしなかったが、彼女のことは 更に強く気にかかるようになっていた。一日に何度も、ただ貝殻を耳に当てて みるのだった。 そして数日後、部屋でここ数日間いつもそうしていたように、テレビもCDも 付けず部屋を静かにして、耳元に貝殻を置いたぼくは、ベッドで横になっていた。 そして、何度も繰り返し思い出してきた彼女のことを、また考えていた。 「あの、聞こえますか?」 <つづく> |


