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5人目は10代目竹澤弥七です。昭和の時代の後半の文楽におけるビッグネームです。(実は先週1時間くらいかけて記事を書いていたのですが、アップロード直前にノートPCのR31がフリーズ、ダウンしてしまいアップできませんでした。予備機を使える状態にするのに1週間かかりましたので1週遅れの記事です。)
竹澤弥七(たけざわ やしち)10代
本名 井上一雄
明治43(1910)年 9月12日京都出身。
大正 6(1917)年 2月竹澤弥七(9代)に入門。7歳
初名:竹澤一雄
大正 8(1919)年10月竹澤団二郎(3代)襲名。9歳
大正12(1923)年 4月竹澤団六(6代、→鶴澤寛治<6代>)預かり。13歳
昭和13(1938)年 5月竹澤団六(7代)襲名。28歳
昭和22(1947)年 5月竹澤弥七(10代)襲名。37歳
昭和47(1972)年 無形重要文化財保持者いわゆる人間国宝に指定される。62歳
昭和51(1976)年10月24日没。 66歳
竹澤弥七が人間国宝になったとき6代鶴澤燕三や私はまだ中学生、他界した折ですら高校3年の秋文化祭がようやく終わったころのことで、まだ文楽の三味線の音色など聞いたことがなかった。 せめてあと10年長生きしていれば私はともかくも6代燕三が、生で弥七が聞けたのではないかと思うと残念に思う。
<技芸員名鑑より引用・整理>
新義座に参加し、20代でいきなり毎日違う切場を弾くというすざまじい体験をした人。
8代綱大夫を昭和11(1936)年から44(1969)年まで弾いた。<26歳〜59歳>
昭和25〜26(1950〜1951)年は、紋下(座長格)<豊竹>山城少掾も合わせて弾く。
深い知識と理論を有し、収集の表現手段を熟知、実践できた人と云われている。
『河庄』『大和屋』『流し枝』『道明寺』『寺子屋』『逆櫓』『熊谷陣屋』などは特に優れていた。
『河庄(かわしょう)』:『心中天網島(しんじゅう てんのあみしま)』の略称
『大和屋(やまとや)』:『心中天網島』の『大和屋の段』
『流し枝(ながしえだ)』
:『一谷嫩軍記(いちのたに ふたばぐんき)』の2段目の切場『流しの枝の段』
(現在は『林住家(はやし すみか)の段』という名称を用いている。)
『道明寺(どうみょうじ)』
:『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅ てならいかがみ)』の2段目の切場『道明寺の段』
『寺子屋(てらこや)』:『菅原伝授手習鑑』の4段目の切場『寺子屋の段』
『逆櫓』(さかろ)』:『ひらかな盛衰記(ひらがな せいすいき』の『逆櫓の段』
『熊谷陣屋(くまがい じんや)』:『一谷嫩軍記』の『熊谷陣屋の段』
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