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愛の宗教・キリスト教? 歴史を見れば、正反対。これ程、残酷な宗教は無い。
 
そして、どの様な宗教も、似たり寄ったりだ。
 
宗教とは、究極の利己主義なのだ。
 
そして、人間とは、利己主義の塊なのである。
 
 
ユダヤ教は、この利己主義アダム・スミスの主張する競争原理に類似を、人間の本質的な性質として、素直に肯定する。それが人間の自然な姿であると認める。だから「ユダヤ人の敵を殺せ」、と命令する。さらに、性欲を人間の自然な姿であると認めて、それを素直に肯定する。そして金銭・財産を尊重して、金儲けを奨励する。
 
反対に、キリスト教は、この利己主義を、人間の本質的な性質として、素直に肯定せず、それを蔑視する。だから、「汝の敵を愛せ」と言う様な不自然な態度を要求する。
さらに、性欲を人間の自然な姿であると認めず、それを罪悪視する。そして金銭・財産を尊重せず、金儲けを蔑視する。
 
どちらが自然の姿に近いか、は、考えなくても解るだろう。
ユダヤ教は、現実的な宗教であり、キリスト教は、非現実的な宗教なのである。
 
ユダヤ教の律法とは、タルムードのハラハー(法律・道)のことである。
 
このユダヤ教の律法の起源は、BC3000年頃のシュメール文明の法典に遡り得ることは、ほぼ間違いない。
 
だから、ユダヤ教の律法は、約5000年間の研鑽(けんさん)を積んで来たことになる。
 
このような途方もなく永い期間を生き延び、時代に応じて変化発展してきたユダヤ教の律法が、あらゆる現実生活上の智恵を含蓄していることは、当然であろう。
 
そこには、ユダヤ賢者の最高の智恵が詰まっている。
 
それは、人類の宝である。
 
キリスト教・仏教・イスラム教は、このような伝統を持たない。
律法の起源

律法の起源が、シュメール文化・文明に存在する事は、誰も否定し得ないと思われる。古代メソポタミアの代表的法典である<ハンムラピ法典>は、主にアッカド語で書かれているが、その中の法律用語は、全てシュメール語であり、都市生活・農業に関する規定は、ほとんどが、従来のシュメール法に基づいていた。
 
それ故、古代メソポタミア諸法典の起源が、シュメール文化・文明に存在する事は確実であり、その諸法典を基礎として成立している律法も、当然、シュメール法典から派生したものといえよう尚、<目には目を、歯には歯を・・・・・・>という、ハンムラピ法典の同害復讐法は、セム系民族特有の法律思想と思われ、シュメール法では、現代と同じく、与えた損害に対して、金銭で賠償する法律思想が、発達していたようである。

シュメールの法律の特色
シュメール学の碩学である<S・N・クレーマー>によれば「法と正義を求めるシュメール人の情熱は、必ずしも、その根拠を、高貴な理念や、崇高な道徳精神の中には持たず、シュメール人の競争心・攻撃的性格・個人主義的傾向などに由来すると思われる。それらが、彼らの所有欲・私有財産尊重の様な特徴の原因となっていた。シュメールにおける最も古い入植者である、ウバイド人でさえも、抑圧を憎み、個人の権利が侵害される事を拒否したに違いない。もし、そうでなかったら、彼らは家を捨て、荒野を彷徨うことは、しなかったろう。これらの初期の先駆者達は、疑いもなく野心的で、闘争的な性質を持っていた。それは、水や財産権を巡る口論や、小ぜり合いによって育てられ、強められた心理的特性であった。水と財産権は、シュメールの歴史で、常に支配的な地位を占めていた。」  (「聖婚」クレーマー著。)
 
以上の引用を要約すれば、シュメール人は、精神的美徳から、<法律>や、<社会の支配者の正義>を求めたのではなく、それは彼らの実際的な利害(水利権や財産権)から要求されたという事である。そして、この事も、ユダヤの律法の起源が、現実的・経済的・社会的なものである事の証左といえよう。
それは、宗教的な神聖さを装った、あくまでも世俗的な掟なのである。
 
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▽ 律法の起源 ▽

律法は、ユダヤ民族が独力で、無から創造した訳ではなかった。ユダヤ民族は、古代オリエント世界全域に滲透していた、<ハンムラピ法典>や、その基礎となった<ウル・ナンム法典>などを土台として、それに、彼ら独自の思想を織り混ぜて、非常に有効な法律体系を創造したのである。 
    <ウル・ナンム法典>  
http://blogs.yahoo.co.jp/judaist55/1217534.html
 
それ故、ユダヤの律法には、古代メソポタミアの歴史や伝統から発生した、商法・刑法・祭儀法などと著しく類似した法律が含まれている。

たとえば、「目には目を、歯には、歯を」という刑法上の規定は、<ハンムラピ法典>にも存在する。又、「暴れ牛」(出エジプト・21)の損害賠償に関する規定も、<ハンムラピ法典>の中に存在する。(∮250〜∮252)
 
さらに、孤児・寡婦などの社会的弱者を保護する条文も、古代メソポタミア諸法典との、驚く程の類似性を示している。これらの事実から、モーセの律法は、メソポタミアの諸法典を基礎として成立したことが明らかである(これらのことは、楔形文字が解読されたおかげで、はっきりと知る事ができる)。しかし、安息日に関する規定は、古代メソポタミア諸法典の中には存在せず、この律法は、ユダヤ民族独自のものであろう。

 ▽ 律法は元来、世俗法であった 


この様に、モーセの律法には、メソポタミア諸法典に由来するものや、ユダヤ民族が独自に考案したと思われるものが、混在している訳であるが、我々には、一つの重大な事実が明確に示されている。

即ち、<律法は、シナイの山で、神から初めて啓示されたものである>という、ユダヤ教徒の信仰的理解は、正当性を持っていないという事である。なぜなら、律法の原型は、出エジプト以前から存在していたからである。

又、モーセの律法や、古代メソポタミア諸法典の全てに当てはまる事だが、それらの中の個別の法律は、ほとんどが、神への信仰的要素を含まない、世俗的・社会的法律であったということも、明白となっている(個別の法律の内容を調べれば、すぐわかる)。 

たとえば、ユダヤ人奴隷の耳たぶを、錐で刺し通す律法(出エジプト・21)は、神への信仰とは、何ら関係の無い、世俗的法律である。
 
ヘブライの律法も、メソポタミアの諸法典も、形式的には、神から授与(啓示)された、神聖なる法律体系という形にはなっているが、実際の内容は、共同体内の人間が、共同体のために作った、世俗的法律なのである。

それらは、<本質的>には、現代国家で運用されている世俗法(民法・商法・刑法・交通法など)と、何ら違いを持たないのである。
その内容は、たとえば、<自動車は右側通行をすべし>・<速度違反をすれば、罰金を支払うべし>という様な、現代の交通法規と、本質的には同じである(それを宗教色で装っているだけである)。

結局、ヘブライの律法も、メソポタミア諸法典も、宗教的形態を採った、世俗法なのである。

それらの法典の内容の大部分は、古代社会の習慣が、長い時間を経て結晶化した法律なのである。それらは、現代イギリスの<コモン・ロー(慣習法)>と同じ成立過程を経ていると考えられる。

そして、特定の社会や共同体を規制する法律というものは、多かれ少なかれ、慣習法の側面を持っているのである(社会の伝統が生み出した法律)。
それを、古代オリエント人は、神からの啓示という形で表現しているにすぎない。それ故、ヘブライの律法も含めて、古代オリエントの諸法典は、元来、信仰心とか、敬神の念から発生した、信仰的法典といえるものではない。唯、神の名を利用しているに過ぎないのである。

それは、社会や共同体内の、世俗的問題を調停したり、規制したり、裁定したりした、世俗的法典なのである。
 
それは、当該社会を安定的に存続させ、秩序を維持する事を最優先させた法律である。たとえば、ユダヤ教の律法ならば、ユダヤ人共同体を持続的に繁栄させ、ユダヤ人共同体に最大の利益を齎すべく考案された、あくまでも、世俗的・社会的法律なのである。

だからこそ、古代オリエントの諸法典には、商業に関する商法の規定が、多く含まれているのである。古代でも、現代でも、商売(できるだけ利益を増やす事)は、世俗の行為の代表である。

もし、古代オリエントの諸法典やユダヤ教の律法が、信仰的心情から発生した、信仰的法典であったならば、何故、商業に関する商法を重視する必要があったのだろうか?
(アメリカの碩学、サイラス・ゴールドンが、アブラハムは大商人であったと推定している事や、 カール・マルクスが、ユダヤ教の本質を指摘して、<ユダヤ人の神は金銭である>と断定している事は、興味深い関連を示唆している。)

以上説明した事から、結論は明白である。古代オリエントの諸法典やユダヤ教の律法は、アメリカやドイツの連邦法・州法と何ら変わらない、世俗的法律なのである。

*出典 http://blogs.yahoo.co.jp/judaist55/29930.html













 
   イスラエルישראל神と戦う者
 
   この言葉は、< 神 対 人間 の戦い> を意味する。
 
   そして、<神>とは、エンキ神であり、ゼウス神であり、ヤハウェ神であり、
   世界そのものである。
 
    また、<人間>とは、ユダヤ人であり、アメリカ人であり、読者自身である。
 
   それ故、この戦いは、普遍的な戦いであり、だからこそ「旧約聖書」は、
   普遍性を持つのである。
    イスラエルישראל神と戦う者
 
   この言葉の深い意義は、どれ程、強調しても足りない。
 
   この言葉にこそ、旧約聖書の全ての意義が収斂される。

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