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                          ↑  無線通信室あと   
  
    外で板村さんとはぐれてしまったので、壕に戻ってみると、彼女は帰っていて電話で話をしていた。
  後で聞いたところでは、壕からベルの音がしたので戻ったそうだ。
  まだ生きている回線がある、と希望が湧き、いくつか試してみると福山(歩兵41連隊)に繋がった。
  「大変です。広島がやられました。」「やられたのは、大本営だけか?」「いいえ、市内全滅です。」
  「そんなはずがあるものか!」とやりとりをしていると、炎が壕に入ってきたので、二人で急いで外
  に出た。あっという間にあたり一面は火の海になり、大本営跡には、腸や脳がはみでた軍人が
  20数名倒れていた。
    
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  学徒がいないか探していると、大粒の黒い雨が降ってきて、40分くらい降り続き、火災は鎮火した。
  そのときは、黒い雨の怖さを知らなかったので、単純に恵みの雨だと思った。  
  濠端に学徒が数名座っているのをみつけた。一人は顔が腫れ上がり、一人は腕を負傷して、骨が
  見えていた。「水をちょうだい!」と乞われたけれどなかったので、更に他の学徒を探しに歩きはじめ
  たとき、後方からポッチャンと音がして、振り向いてみると、その学徒が濠に浮いていた。水を飲みに
  濠まで下りていったのだと思った。
  かわいそうなことをしたと思って、他の人たちを探すのはあきらめて戻り、周りにいた負傷した人たちを
  草むらに横たえてまわった。
  19:00ころになると、岡山や山口から支援部隊が来た。
  司令部の軍人は全滅、生き残った11人も10日くらいまでに次々に死んでいき、生存者は5人となった。 
   駆けつけた母に、「おかあさん、お国の役にたって死んでいくんだから泣かないで〜」と言って亡くなった
  友もいた。荒城の月を歌って、見送った友もいた。
  その後も、負傷した人たちを運ぶのを手伝ったりして、18日に解散した。 
  たくさんの炭になった死体も目撃して、当時は生き残って良かった、とは思わなかった。
 
  岡さんは、その後、急性原爆症の治療のために母方の実家にこもって、20歳で結婚なさり、子どもも
  生まれけれど病弱で、38歳で白血病のため亡くなり、9年後にはだんなさまも亡くなり、お一人で
  お住まいだそうです。御自身もときおり、血液に後遺症が出てくると おっしゃっていました。
  80歳ということですが、お肌もきれいで、ばっちりお化粧をなさって身ぎれいにされていて、
  お声や話しかたも力があって、年齢を感じさせないかたでした。
  よくここで語り部をなさるので、TAXの運転手さんとも顔なじみのようでした。
  (お宅からTAXでいらっしゃる、というのにお車代も差し上げなくてよい、という上司とはどんな関係???)
  
 
   

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こんばんは。
正式な謝罪がまだです。民間人には、謝罪を求めるべきです。

2012/3/4(日) 午後 7:55 アリス


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