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江戸人のしきたり

  北嶋 廣敏 著 幻冬舎文庫
・大家の収入;年給20両・余得10両・糞代10両 (『守貞謾稿』)
・大工1日の手間賃=銀4匁2分+飯米代1匁2分
・店賃(棟割長屋;間口9尺、奥行2間タイプ)
  400文/月(文化、文政期) 600文/月(天保)
    金1両=銀60匁=銭6000文
・水道代;武家=収入による5段階制(年間銀1分3厘〜3分3厘)
      町屋=間口による大家支払い
・ゴミ収集;間口による(銀5厘〜1分5厘/月)
・100目蝋燭=200文  菜種油1升400文(文化期)

    一坂太郎・星亮一対談  講談社
・大政奉還時、慶喜(板倉・小笠原)は京都、勝・榎本・伊栗は江戸にいて、連携が
 とれていなかった。
・倒幕の密勅(薩摩へ10/13、長州へ10/14)、大政奉還10/15(勅許)
 =奉還を無視して倒幕が進む(本来なら前2つは無効)
・鳥羽伏見の戦1/3開始、錦の御旗1/4(大江卓が京都へ行き拝受;長州征伐時に
 使用される予定だったもの)。様々のデザインが存在。(岩倉が玉松操にデザイン
  大久保が買ってきた西陣織で作ったものも)
・会津は死者3〜4千人。埋葬許可されず。藩主永禁錮、家老1名処刑、陸奥斗南
 へ転封(23万石→3万石;実質7千石)
・慶喜が江戸に帰った時、榎本艦長に無断で開陽丸で。
・明治以降、東北の領地は2/3くらい新政府に没収され分配された。
・蝦夷開発は薩摩主導に。
・1869年 戊辰戦争の新政府側の戦没者を祀る施設;東京招魂社(のち靖国神社) 
  1888年 戊辰戦争以前の幕末の戦死者(長州藩601人=禁門の変で御所に攻め
      入った200人余も)合祀

 1915年 禁門の変で御所を守った会津藩士も合祀

 1925年 第二次長州征伐で死んだ福山藩14 人、 1933年に浜田藩12人合祀
      小倉も戦死者が出たが抗議しなかったので合祀されず
   (靖国神社の例祭の1つは9/22会津の落城の日)
・徳川は明治以降会津から養子を迎え、皇室も容保の孫を迎え(秩父宮妃殿下)
  幕末の苛政の氷塊を計る。

グローバル幕末史

      町田明広 著     草思社
・金の流失原因;日本でドル4枚で一分銀12枚と交換し、それを小判3枚と交換。
           国外に持ち出すと小判3枚はドル12枚と交換可能。(通商条約
           5条の外国通貨は同種同量の交換)
・1854〜 67に購入・製造などされた船舶は、幕府44隻・諸藩94隻(34藩)そのうち
 111は外国から購入。
・生麦事件は幕府を外国との紛争に巻き込む意図的なもの、と若年寄酒井忠マス
 は断言。外国が直接薩摩に乗り込み、貿易交渉を始める契機とする目的。実際
 薩摩は交渉中に留学生派遣を打診。
・吉田松陰渡航事件;ペリーは米側にとっては些細なことなので軽微な罰にするよう
 要請。阿部は日本人の渡航許可を検討中だったので、その後の政策遂行の妨げに
 なると考えたのではないか。阿部でなければ打ち首。
・1862幕府初のオランダ留学生派遣。依頼した軍艦建造の立ち合い、引取の間に
 航海・造船術、兵器製造法を学ばせるため。内田正雄・榎本武揚・赤松規良・田口
 良直(軍艦操練所の優秀生)・西周・津田真道(蕃書調所教授)・伊東玄伯・林海
 (長崎養生所)ら15名(士族9名職工6名)
・1866渡航解禁。英・米・普・仏・露・蘭・葡限定。ここまでに130人留学。
・長州ファイブ(井上馨・伊藤博文・遠藤謹助・野村弥吉・山尾庸三);1863藩から5年 の派遣だが費用は不十分。下関砲撃阻止すべく井上・伊藤帰国するも間に合わず。
 長州から渡航=1860北条源蔵(遣米使節団)62杉孫七郎(遣欧使節)高杉晋作(上海使節;薩摩五代も)
・薩摩スチューデント(五代・畠山義成・村橋久成・東郷愛之進・高見弥一・名越時成・森有礼・町田久成・寺島宗則など)グラバー斡旋1865、ロンドンで長州勢と交流、1865幕府派遣の外国奉行柴田剛中がイングランド銀行訪問時五代らの署名発見。見ぬふり。おとがめなし。;1857斉彬が琉球滞在仏人に斡旋依頼、英仏米へ計画。死去により未然。
・留学生たちは英国に対して幕府の貿易独占の非をとき、ミカド体制を取り戻す必要性を強調。幕府と西洋との関係の弱体化を言上。





殺戮の宗教史

  島田 裕巳 著   東京堂出版

・コーラン「多神教徒は見つけ次第、殺してしまうがよい。ひっとらえ、追い込み、
 いたるところに伏兵を置いて待ち伏せせよ。しかし、もし彼らが改悛し、礼拝の務め
を果たし、喜捨も喜んで出すようなら、その時は逃がしてやるがよい。」岩波文庫版

・福音伝道によって死ぬことは殉教であり、キリスト教徒にとってもっとも価値のある
 行為とみなされてきた。


    新典社選書84   
     第4章  廃仏稀釈は文化に何をもたらしたのか   野村朋弘
・明治元年3月13日 太政官布告;神祇官再興=全国神社を支配
       3月17日 神祇事務局から諸社へ通達
              ①神社の名称は仏教的なものではないように変更
              ②御神体が仏像の場合は変更
              ③別当・社僧は還俗し、神主・社人として神道へ転ず
・明治4年        破壊的行動が批判を呼び、神仏分離は廃仏稀釈ないと通達
・伊勢神宮が皇祖を祀るとして神社のトップに。明治天皇参拝の前4カ月で、伊勢国
 258寺が62寺に。遷宮後の宮殿見学も不可に。
・鶴岡八幡宮;1208年に八幡宮寺として建立。明治3年、護摩堂・薬師堂・大塔
         仁王門など仏教的建造物破壊。
・明治4.8年     社寺の境内以外の所有地を上地=没収
・明治4年       神社の祠官世襲禁止
・明治10年      神祇官から改組した教部省廃止まで廃仏毀釈は続く
              (地方差が大。鹿児島>北海道)
・昭和21年      神仏判然令廃止
 

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