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     森 安彦 著   国文学研究資料館史料館長、のち中央大学教授

・分地制限令=1673年初出;名主20石、一般農民10石以上の者のみ分地を認めた。
          1713年;分地、残高ともに10石、1町歩(3000坪1ha)以上となった。

・生類憐み令=犬1匹養育費金2分/年;武蔵国荏原郡あたりの奉公人の年間給金と同じ
          病気であっても捨て馬をしたものは死罪、代官・地頭も罰する
          「もの言う馬事件」下手人探しに35万3588人の調書
          魚釣り禁止;武士の修行であり一般人はご法度

・子ども奉公人=(信濃国の場合)3年間で金3分。年季明けには金1分銭300文を返上して雇用関係消滅
           期限前解消は2倍の1両2分を提供。欠落・逃亡の場合は5割増金の1両2朱。
・「郡内騒動」=天保7年8月、甲斐国郡内で凶作による米穀払底を契機に3万数千人の農民が蜂起、
 「加茂騒動」=同9月三河国加茂・額賀243ケ村1万数千人が蜂起、豪農・豪商を打ち壊した。翌年
 2月に大塩の乱がおこる。半日で鎮圧されたが、その後各地に大塩に共鳴する者が現れ、越後柏崎
 では生田万が“大塩門弟”摂津能勢では“徳政大塩味方”と書いた幟を持った一揆がおきた。
 
・斉昭は一揆の原因を「上を恨み候と、上を恐れざるよりおこりし」と分析。
 
・『加茂騒立』によると農民は、一揆は役人と結託する悪徳豪商・豪農を“世直し神”が天罰を加える行為
 だとし、徒党したのは世直しの祭をしようと思ったため、打ちこわしは世直し神の神事と答えている。また、
 米を買占めて酒をつくっていた豪商を打ちこわしたのは、施米を願いに行って断られ喧嘩になった、と
 主張。
   祭礼の為の徒党暴力行為は取り締まられない、あるいは喧嘩両成敗をうまく使っていますね
 
・藩政改革:薩摩藩では大坂商人に対する負債500万両を250年賦という形式っで事実上帳消し同然に
 させた。
 
・日光社参は通常4月12〜13日に出立、17日の命日に祭礼を執行。江戸時代全体では19回行われ
 秀忠が4回、家光が10回。家光の寛永13年11回目の社参から派手になり、吉宗の享保13年では
 供奉が総勢13万、動員人足が23万、馬33万疋に及んだ。それ以後は縮小。
 
・幕府は諸国の大名や旗本を監視し民情を調査するために「諸国巡検使」や「国々御料所村々巡検使」を
 派遣していた。前者は家光から家慶まで将軍の代替わりごとに実施。後者は正徳2年から天領のみを
 対象に天保9年まで行われた。『国秘禄・巡検御用留』
 
・旧里帰農奨励令=農業に従事する為に郷里や他所に江戸を出る者に、旅費・夫食代・農具代を支給。
 応募した者は少なく実効性がなかった。
   江戸に出れば何とか生活が成り立ち、美味しいものが食べられ、奢侈な生活ができると思う農民が
   多く、町人の人別は比較的緩やかだったからだということです。いつの世も同じですね
 
 

武家官位

    出典:『江戸時代の古文書を読む〜文化・文政の世』   解説;深井雅海
 
・慶長11年(1606) 家康、武家の官位執奏権を得、16年には武家官位は律令の規定の定員外とする
 ことが承認され、元和元年(1615)の「禁中並公家諸法度」で武家官位は律令官位を利用するものの、
 公家官位とは別枠と規定。将軍は大名などを序列化するために官位を与え、その後朝廷に叙任文書の
 公布を請求する形式をとる。
 
・大名の家格に応じ、昇進できる最高の官位(極官)が定められた。徳川一門は大納言(正三位)か中納言
 (従三位)、加賀前田家は参議(正四位)、他の国持大名は中将(従四位)か少将(正五位)で大半の大名
 は諸大夫(従五位)どまりだった。文化13年当時少将以上は5%。
 
・将軍の官位は内大臣(正二位)・右大臣・左大臣・太政大臣(従一位・正一位:秀忠と家斉のみ)
 
   この官位によって江戸城内での着座場所・言葉遣いなど細分化された序列が定められたので、
   家康のもくろみはまんまと当たったわけですね〜
 
 
 
      史料「和宮御下向一件」旧幕府引継書:国立国会図書館蔵など
 
・最初の御触れは8月。板橋宿から現春日通りを通って神田明神〜一ツ橋へ至る道は、10月21日の御触れ
 で、表土を剥がして平らにし、切込砂利を敷いて撞き固め、その上篩にかけた小砂利を敷くよう仕様が通達
 され、工事は前日まで続いた。通行禁止令で資材が届かず、通行札の発行を願い出ている。
 
・各宿場は、街並み整備を始め種々の入用金に難渋、幕府から100両の補助金では到底賄えなかった。
 中山道大湫宿では戸数70軒に延2万5千人、馬800頭の助郷が命じられた。桶川宿・板橋宿へは現
 東京多摩地区からも助郷が出た。村高100石につき、10日契約2人・11日6人・12日15人、13日5人
 14日6人の助郷を要請。
 
・文久元年(1861)10月20日京都発、11月15日江戸清水屋敷着。(1ヶ月後輿入れ、婚儀は翌年2月)
 行列の長さ50km、通過に4日かかり1週間前から通行禁止措置。江戸市中は分解して運ばれてきた
 牛車で御幸。庶民にも、壊れた箇所の修繕や掃除、沿道の2階には締切目張りをして、当日男性は引き
 払い、女性は土下座、我儘者には番人をつけ、犬はつなげなど細かな指示。
 
・お供の者用に風呂屋を貸し切った旨の届け書きもある。
 
・助郷に対する賃金の精算は、3年後になってようやく支払通知が村役人に届いた。
 
  助郷に集まったものへの食住を確保するのさえ大変ですよね。
  建設機器のない当時に2ヶ月でこれだけの工事を、しかも通行止めにするわけにいかないので、片側
  づつ行え、というのも無謀な話です。それができてしまうのも、幕府の権力ですかねぇ。

大奥激震禄〜絵島事件

・ 2階桟敷を5、6間(ま)借りて、弁当100人分を予約、当日はお供のものも残らず総勢130人が桟敷に
  入った。早々に帰るよう諌めた五郎衛門に大変怒って、更に八ツ時からは廊下伝いに山村長太夫
  (狂言座長)の居宅に移って大騒ぎした。
 
・ 判決:絵島=高遠藩へ遠流(将軍家継の生母月光院の慈悲で減刑)、兄白井平右衛門=死罪(大坂在勤
  中の遊興を慈悲により追放に留まったにも関わらず、絵島と同道遊興を助長)、奥山喜内(水戸家家来・
  遊興のとりもち)=打ち首 、山村長太夫(座長)=大島へ遠流、生嶋進五郎(役者・9年来の愛人)=
  三宅島へ遠流、中村清五郎(狂言作者・当日の遊興のとりもち)=神津島へ遠流、白井の8歳と4歳の
  子息=15歳まで親戚が預かり、その後流罪,等々計31名、その他大奥女中下女1500余人が追放・
  お暇などの処分。
 
・ 芝居小屋は、2、3階桟敷は撤去、役者を呼んでの遊興禁止、すだれや屏風を桟敷に設えることを禁止、
  役者の衣装は紬と木綿のみ、七ツには終業、と規制を強化したうえで再開許可。
 
   いいとこ20名程度で芝居小屋へ行ったのかと思っていたら、こんなに大人数だったのに驚嘆。
   吟味もことのほか厳しかったようですが、本人はお預け程度で、打ち首の奥山の思いは如何ばかり
   だったでしょう。
   2、3階桟敷の閉鎖はともかく木綿の衣装という項目が守られたのでしょうか。。。
 
 
   

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