|
・ある人いわく、水戸黄門殿(天保11年庚子=1840年)領国に下り、水戸に学校を建てられ、弘道館と名付
けた。御領地の真弓山というところから巨大な白石がでたので瑞祥だとして、この度の事業の仕上げとして、
学校の碑として来世に伝えようと、人を集めて掘り出そうとしたが動かない。その上、人夫の半数は手足に
傷を負い、みなその祟りを恐れた。黄門公はそれを聞いて、一首詠んだ。
「もののふの道 広めんとするものを 真弓の神の などをしむべき」
この和歌を自ら書いて神前に手向け、再び人夫を指揮なさると、神の怒りが解けたのだろうか、石が普通に
動いて一日もかからず掘り上げたという。(後略) (巻之71 8条)
こんど弘道館を見学するようなことがあったら、この石を探してみましょう。名君はみな教育に注目
していたのですね!都道府県ランキングなるものがあって、東京都はなんと教員数が47位。。。
これが首都とは情けない〜 ↓
・さきの文政2年巳卯(1819)越前福井で『社倉勧喩録』という本が出た。(中略:以下その本の内容)
そのやりかたは、連中をこしらえ、1人から1日に銭1文づつ集めると、月30文になる。1年で360文。
連中が100人なら1年に36貫文で、千人ならば360貫文、10年の間には3600貫文でこれを銀に
すれば、だいたい35貫文になる。これだけあれば、高値の米でも400石ばかりは囲える。この米を
飢饉のときには粥などにして施せばよい。(中略)社倉は立合封金にして預かるので利息がでないの
は勿論だ。社中社外ともに借用をかたく禁じる。(後略) (巻之71 13条)
保険制度のはじまりでしょうか。リスクをゼロにするため運用なしなんですね!!
・(前略。平戸藩お抱えの砲術師坂本)天山常に語る。だいたい火縄銃の術は鉛丸・火箭・硝薬などの
製法はみな人にあり。だから整備を極め、原理どおりに筒中に置き、火をつけるまでのこともまた人に
ある。誠意を尽くし、過ちがないようにすることもまた同じ。これより、火が移り、丸筒を離れた後は人力
が及ぶことではない。ただ神に任せるほかはない。だからこの技は天下国家のための忠義誠実を元と
し、この技を用いようというときは、斎戒沐浴して神祇に祈り、謹んでこれを為す。そのときには、万全を
尽くしてのみ成功するのは疑いないことだ。また、いささかも邪念があったり不潔だと、火箭は空中に
砕け、あるいは火薬が消散して、武将を傷つけ、人に損害を与える。だから、ことさらに慎み、敬意を
持ってこれをつかうべきだ、と。(中略)平戸で試打ちのときも斎戒沐浴し、鎮社七郎宮、乙宮大明神
の両祠へ参拝してから行う。 (巻之72 6条)
きっと銃による事故が多かったのですね。原因究明より、神仏の加護に向かう。。。
・村落には不思議なことがある。我が領村の大嶋というところは居城の北方3里の小島で、島の一辺
が4里だという。島の裏側は朝鮮で、秋晴れのときはくっきりと望める。この島の風習に、放牧の牛が
見えなくなったときには、家の柱に和歌を紙に書き、さかさまに貼る。歌は「たちはかれ 因幡のやまの
峰におふる まつとし聞かば 今かえり来ん」という。すると、たちまち牛が帰ってくる。この行平卿の歌
がどうしてこのように霊験あるのか不思議だ。また領内で一本釣に行くと、釣り糸がもつれてとけない
ことがある。鴨罠といって長糸にモチをつけて張り巡らし、鴨の飛行を妨げて取るときも糸がもつれて
役立たないときがある。このときは「ちはやぶる かみよも聞かず立田川 からくれないに みずくくる
とは」この業平朝臣の歌を三唱して、乱れ糸を解けば、糸はたちまち解けると。これも、いかなる理由
か。なお一層不思議だ。 (巻之72 8条)
(最終巻之78 阿片戦争の情報:東洋文庫 6巻了)
叔母から探し物をするときの呪文「清水の音羽の滝は尽きるとも失せたるものの出ぬことは
なし」というのを教えてもらったおぼえがありますが、この類はたくさんありそうですね。
これで甲子夜話は終わり。話題としては赤穂浪士、秀頼の脱出、大塩の乱がたびたび登場、
当時の関心の高さをうかがわせます。能の内容や和歌や俳句、川柳も多く掲載されていて
なかなかの趣味人だったようです。また大名行列や家斉の葬儀の行列はこと細かくどんな人
がどう並んでいたと記載。伝統の継承を重視していました。事件災害は多方面から証言や書類
の写しを集め客観性を重視しているのに、狐やタヌキの仕業の話も多いのが不思議でした。
|
甲子夜話
[ リスト | 詳細 ]
|
・南畝氏(大田南畝:1749〜1823 狂歌師)がかつて御徒士だったとき、寛政時代に口ずさんでいたのは、
「世の中に かほどうるさき ものはなし ぶんぶといつて ねつかれもせず」
おそらく守国院(松平定信)が執政していた政治をさしているのであろう。(中略)最近、宗耕が都々逸を語
るのを聞いた。
「青漆(静謐)といえども もめるかみ(上)合羽 油断のならぬ あめ(天)が下かな」
この歌は南畝が口ずさんでいたのではなく、他の誰かが詠んだのに、人々が吹聴して南畝の歌になったの
だということだ。(後略) (巻之70 3条)
教科書にもでてくるこの川柳は作者がいたのですね!
もっとも最後の所は「夜もねむれず」と習いましたが・・・
・ちかごろ(庚子=1840年)、武州川越・越後長岡・羽州庄内の3か所に国替の命令があった。(中略)川越
は松平信綱の居城だったが、肥後天草一揆のとき、上使として赴いて彼の賊の出丸を攻めかねたので、
帰陣後、居城にも出丸を築いた。(中略)この出丸を築いたのが幕府の方針に触れ、国替えになったそうだ。
(後略) (巻之70 15条)
筆者もこのことの是非は後代に委ねる、と述べていますが、幕府の危機感を物語っていることだけ
は確かです。
・(前略『三河記』の内容)三郎殿(信康)は我儘になって、神君(家康)の御意見も聞かなくなった。その上
家老が、勝頼といっしょになって野心を持っていると申し上げたので、神君はこれを聞き「親に弓を引くなど
とは類がないことだ」と服部半蔵に殺すよう仰せ付けた。三郎殿が仰せ置かれたことが憐れである。「親に
弓を引くなどとは風説なのに、家老に指摘されたといって、親が子を殺そうというのは前世の因果だろう。
私は、大敵を滅ぼし天下の主となるべきといつも思っていたのに、何者か親になり、いかなるものが子と
生まれ、死せることの無念さよ。でも、この定めも悪くない。」と。そして、大久保一族やその他の人々に
形見を与えた。今後のことは、大樹寺に頼る、よしなに供養すべし、とて念仏を10回くらい唱えつつ、腹を
十字にかき切って、服部半蔵介錯、となったが、三代仕えた主君にどうして太刀をあてることができようか
と刀を捨て、滂沱し倒れ伏す。早く早く、とせかされ、遠州に住む天方山城守が泣く泣く御首を討ち落とす。
御年21歳、花の姿を引き替え、朝の露と消え給う。これを聞いた神君は涙を流したという。あとでよくよく
聞いたところ虚偽であり、支え手を失ってしまったと、神君の御後悔や御怒りは限りなかった。
(巻之70 19条)
家康ともあろう人がそう簡単に家老の讒言を鵜のみにするわけもないでしょうが、甲子夜話でも
何度もでてくるので、世の中の人は信康に同情的だったのでしょうね。
|
|
・(前略 『戊戌夢物語』の記述)ロシア使節レサノフは日本に来て、交易を願ったがかなわず、本国に帰って
から、申し訳なさを嘆いて自殺したので、その部下のホーシトウはこれを恨んで、ただ一艘の船で蝦夷に
騒動を起こし、国家に多くの散財をさせた。(後略) (巻之61 1条)
そんな後日談があったなんて。。。
・加藤清正は石垣造りが上手で、ある人が言うには、肥後に行ったとき隈本城(この字で書いてあります)の
石垣を見ると、高いが勾配がなだらかなので、見た目のままにかけ上ったが、4、5間は登れたものの、
上のほうは頭上に石垣が覆いかかって空が見えず、そのままかけ下りてきたという。また、ある人がいう
には江戸城西丸大手橋曲輪の石垣も清正が築いたそうだ。御城を造るとき、清正が石垣造りが上手だと
台廟(秀忠)が命じて、清正自身が指図して築いたという。だから、今も北は西丸大手の角から西は三角
矢来までを、清正石垣、または加藤土居という。また、このいきさつは『白石随筆』『岩淵夜話拾遺』にも
のっている。 (巻之61 7条)
こんど皇居に行ったときに見てきましょう。他の石垣との差がわかるでしょうか〜。
・今年(庚子=1840)4月9日には、右大将様の御疱瘡御平癒にちなむ流鏑馬が高田であった。
同姓(松平)の金弥も騎手なので桟敷で見物せよ、と乞うので出かけたが、生憎前日が雨で、夜には
晴れたが、(中略)見物人も集まり、始まるかと思ったら、延期すると連絡があった。(中略)騎手方、
小笠原氏からは、前日は雨だったが当日は馬場の状態は良いとの報告で、騎手も皆集まったが、
御側衆が念のため馬方に試乗させたところ、馬方は「よい」と言上して落馬などがあったら、馬方の
責任になるので、いつもこのようなときの試乗では「よくない」と言うそうで、延期になったとか。(後略) (巻之65 9条)
馬方の杞憂もわかります。。。結局、筆者は延期された日には風邪をひいて見物できなかった
そうですが、見てきたばかりの流鏑馬が書かれているこの条にこのタイミングでたどりつくのは
ちょっとした偶然!
・星月が流れるように、思いがけなく齢80に達しようとしている。それゆえ、去年より林氏がしばしば
祝いの席を設けようとすすめてくれたが、己亥(天保10)年の春、林氏をはじめ、子弟がみな賀詞を
準備し贈られた。たいへん嬉しかった。(後略) (巻之66 1条)
(東洋文庫版第5巻 了)
江戸時代(に限らずむかし)は、平均寿命が低かったというけれど、それはあくまで平均で
上流階級の人はこのように80歳くらいまで普通に生きていたようですね。
|
|
・『阪乱聞蘇』甲(前略)大坂の賊の大塩は実は死んではおらず、かの放火の際、船に乗って清国目指して
逃れ出たという。そのでどころは、ある人が対馬の沖を航行していたら、向いの船に呼び寄せられて乗船、
おおいに饗応されたが、船中を見るとこの国の人が大勢いて、その一人が「われらは大塩平八郎なり。わが
組合の面々は皆逃げ、中国に渡った。汝らは国へ帰ったら、このことを話して欲しい。また、大塩の他にも
まだ残党が大勢いることもよく伝えて欲しい」と言って別れたという。不審な話だ。嘘説で人を欺くやからが
言ったのだろうか。または、海賊のやからが最近は対馬沖に専ら現れるそうなので、彼らが浪花のことを
伝え聞いて、人を惑わすようなことを言ったのだろうか。(後略) (巻之54 1条)
55巻もこの乱の後日談で、吟味の結果や処刑のようす、論功行賞などの記述が続き、いかに
影響が大きかったかを物語っていますね。実は死んでいない、という話が残るのは、シンパシー
を持った人もいたということでしょうか?
・大奥のことを申すのもいかがかと思うが、感心したことがあったので記す。ある御用医師が言うには、上の
御中臈(これは将軍の御妾をさす)が妊娠し、診察するときには御中臈が上座に居て医師は敷居を隔てて
下座から脈を診る。これは胎内のお子様を貴ぶからだ。ところが出産してしまうと、医師が上座、御中臈は
下座で診てもらう。(後略) (巻之56 2条)
筆者も、生んでしまえば多くのはした女のうちの一人に過ぎない扱いで、生む前と後の扱いの差
の違いを驚いていますが、これは家斉だからでしょうか。将軍のこどもを生んだ人は、扱いが上がる
という話も聞きますが。。。。
・ある人がいうには、、関ヶ原後、毛利・上杉・佐竹などは皆今あるような処遇なのに、宇喜田(この字で
書いてあります)秀家一人だけ遠流に処せられたのは、神祖(=家康)が悪く思う理由があったからだ。
秀家は備の前中後などを拝領していたが、法華宗を信仰し、ついに国中の諸宗の者を追放し、みな法華
宗の寺にした。ゆえに浄土宗などの寺院が衰退してしまったことを憎み怒って、極刑にするところを、島津
氏の嘆願によって流罪にとどまった。また、かの国の領内の諸寺で証言を得たが、皆忘れているので、
ここに記す。 (巻之58 10条)
法華宗に追い出された、天台宗天海上人の恨みだったのでしょうかね〜。
3日に亡くなった叔父は天台宗の葬儀だったのですが、一般的な謡うようなお経ではなく、独り言の
ようなものがほとんどで、いろいろな印を結んで棺にかざしたり、見たこともない儀式でした。
・世間でいうには、八州長脇指とは、関東八州の見回りや法に反するものを検挙する者だ、と。私もこれ
までそう思っていたが、近頃聞いてみたら、これは八州で長脇指などを持つ浪人が徘徊しているので、
このやからを検挙することだそうだ。最近検挙された者は、かねてから長脇指の者から賄賂を受け取り
法をないがしろにしたと勘定奉行の裁きがあった。(後略) (巻之60 3条)
関東では博徒が長脇差を差していたので、博徒のことをこう呼んだのだそうです。名主などの
村役人や与力・同心などが揚屋入りやお預けになっています。まさかみずほ銀行は、融資の
見返りはもらっていないでしょうね〜。
|
|
・『戊戌西城炎上録』 (前略)西丸炎上後、御殿の焚瓦砕は船積みし、深川洲先の桑名侯の受所へ運搬
したそうだ。これは4月6日から始まり、およそ200隻、7日も200隻、8日は800隻で運んだとか。また、
銅瓦が焼けたものは、およそ60俵ばかりを銅座に払下げた。きっと葺き替えるのだろう。このあとも、どれ
だけあるのか、計りがたいという。焼土を取り除いたあと、新土に入れ替えるそうで、品川御殿山のうわ土
を取り除いて、下の土を御城内に運ぶという。(後略) (巻之47 1条)
この工事があるので、この年の御殿山の桜は特例として枝を折ってもよかったそうです。
でも、御殿山の掘削をしている最中に人骨などが出てきて、穢れていると、せっかく運んだ土を
また取り除くなど、大騒ぎだったようです。巻之48もこの記録で、各大名の上納金のリスト、
普請への具体的な貢献が詳細に記載されています。
3・11の可燃がれきの処理が宮城ではやっと終わったそうですが、福島の除染で出た土などの
処置はどうなるのでしょう?どこも最終処分場を受け入れたくないのは同じでしょうから。
・(前略:切腹について)介錯とその助手および取扱いに係わるものは4人、事に精通する人を事前に召抱え
て士族とし、終わるとすぐ暇を出すそうだ。私が、このような切腹の話はそう度々聞くものではないのに、
どうやってこのような人を探すのか聞くと、この人達は元来、牢屋の者で、これらの作法に詳しく、礼儀を
わきまえているのだという。(中略)切腹のときは、介錯の者がその人の前に、小木刀を載せた三方を
持って立つ。 咎人がこれをおし頂くときに首をうつ、という。(中略)また、切腹するものは、まず着ている
肩衣の片側を脱いでから臨むという。また、介錯で首をうつと、喉の皮が少し残って首が前に垂れたとき、
「切腹終わりたり」と叫ぶ。検死は「聞き届けたり」と挨拶する。これを聞いて、前に残っている皮を小刀で
切って、介錯はその首を挙げ示す。終わると胴体のほうの切口に柄杓の木柄を差し込み、首にも差し込ん
で、首と体をつなげ、敷いてある毛氈で死骸を包めば、毛氈の赤色にまぎれて出血の跡も見えない。毛氈
の下に敷いてある布団で重ねて包み、あらかじめ近くに寄せてある桶にそのまま入れ、その場を退出する。 (後略) (巻之50 15条)
江戸時代には、切腹も形骸化していたんですね!時代劇などで見るのとは大違い〜。
・『八丈紀聞』(前略)かねてかの島(=新島)の婦女は容色が美しいと聞いているので、どうかと思ったら
なるほど、皆色白で鼻筋が高く、身長も低くなく、身分によらず醜女はいない。そのうえ、貞淑で姦行は
いまだないという。(中略)女は皆文字を書くことができなかったので、意思を伝えられなかった。だから
男は草履を作って密かに女に贈った。女は意にそぐわなければ受け取らず、承諾するなら女からも煙草
を紙に包んで男に渡す。(後略) (巻之51 1条)
直に言葉で告白すればいい、と思いますが、はしたないことだったのでしょうね。
・新島の椿油といって1壺贈られた。見ると、清白で少し黄色く濁っている。何に使うのか聞くと、刀剣を拭
いてもいいし、食用には、榧油には劣るが胡麻油には優っているという。彼の地ではどのように作って
いるか尋ねると、7月下旬、実が熟して口を開けたものを採り、上皮を二重とも取って正味だけにして、
蒸器にかけて蒸し、袋に入れてしめ木にかけて絞るそうだ。(後略) (巻之51 1条)
(東洋文庫版 第4巻了)
榧の油というのは今では全然用いられていませんが、どのようなものなのでしょうか?
|


