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別れてもお付き合いしましょうと。台湾の悲劇、ここにあり。
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◆日台断交秘話 辜寛敏・総統府資政語る 人的交流は不変 大平外相が密書
【台北=河崎真澄】日中国交正常化(一九七二年)を受けた日本と台湾の断交から、二十九日で三十三年となる。台湾の総統府資政(最高顧問)を務める辜寛敏(こ・かんびん)氏(78)は産経新聞に対し、断交の二カ月前に当時の大平正芳外相から、断交後も台湾との経済関係や人的往来の継続など、七項目を記した書簡を託され、台北で沈昌煥外交部長(外相)に手渡した秘話を語った。
辜寛敏氏は、戦前に日本の貴族院議員だった辜顕栄氏の子息。国民党政権が台湾に移った翌年の一九五〇年に日本に渡り、六四年に東京で設立された台湾独立連盟に参加する一方、大平氏と親交があった。
田中内閣の外相となった大平氏の自宅に辜氏が招かれたのは七二年七月。この席で大平氏は、「日中国交回復は時間の問題だが中華民国(台湾)との断交は日本として不本意だと本国に伝えてほしい」と依頼した。
大平氏は台湾との正式な外交ルートで意思表示をせず、非公式に辜氏に頼んだ理由として、「離婚前に離婚した後の話ができるか」と説明し、水面下で断交後の日台関係の再構築を進める考えを示した。
辜氏の求めに応じて大平氏は七項目をまとめた書簡を作成。辜氏は断交前の駐日大使館で経済参事官だった劉維徳氏の助けを借り、七月下旬に極秘裏に台北に飛んだ。蒋介石政権の沈部長に台北市内のホテルで大平書簡を説明し、手渡したと記憶している。
辜氏によると、書簡は日本語による七項目の簡単な個条書きで、(1)日台断交は外交関係のみ(2)経済関係および人的往来に一切変化はない(3)日台間の船舶の往来は従来どおり(4)日台間の航空路線は民間協定を作成して継続する(5)公的資金による対台湾債権を放棄する(6)大使館など台湾における日本政府の資産を放棄する(7)日本における台湾の資産の維持に努力する、となっていた。
台湾では当時、日中国交正常化に前向きだった田中内閣に非難が集中し、新聞などが連日のように激しい反日キャンペーンを繰り広げ、断交後の日本企業の引き揚げもうわさされていた。
しかし、台湾指導部では、蒋経国行政院長(首相)が進めてゆくことになる公共事業「十大建設プロジェクト」を軸に経済成長を模索していた矢先で、対日断交が経済面にまで波及することになった場合、台湾への打撃となるとの懸念が実際には強かったという。
辜氏の説明をメモを取って詳しく聞いた沈氏は、会談時には何の反応も示さなかったが、数日後に台湾メディアの反日論調が収まったことで、辜氏は書簡が蒋経国氏の手に渡ったと判断した。
辜氏は「断交後の日台関係の安定的発展の基礎はこの書簡にあった。大平氏の心配りを日台の歴史に刻むべきだ」と話している。
ただ、台湾の外交部(外務省)は、書簡の存在を確認していない。
台湾独立運動のリーダーの一人だった辜氏はこのほか、中国の国連加盟後も台湾の議席を確保する政治工作を日米英と進めたが、当時総統だった蒋介石の反対で失敗に終わったと語った。
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日中国交正常化と日台断交 東西冷戦下の1972年2月、ニクソン米大統領の訪中が実現したことで、日本国内では「米中頭越し外交」への懸念が強まった。同年7月発足の田中内閣は日中国交正常化交渉を急ぎ、9月に北京を訪れた田中角栄首相が周恩来中国首相と日中共同声明を発表し、国交正常化に踏み切った。これにより、台湾との基本条約だった日華平和条約は終了。断交後の日台関係は、窓口機関を通じた民間交流に移行した。
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