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「石橋を叩いても渡らない」新日鐵のこれは凄いこと。強い日本の本格復活も近い。 ◆新日鉄 今後3年、設備投資6000億円超 好業績、「攻め」に転換 新日本製鉄が平成十八年度から二十年度までの三年間に、連結設備投資額を六千億円以上とすることが十三日、明らかになった。同時に十七年度も、期初に想定した千七百億円の投資額を年度途中で約二千三百億円に上方修正した。好業績を受けて今後も年二千億円超の高水準で投資を継続することで、合理化を続けた過去と決別し、攻めの経営を鮮明にする。 新日鉄は現在、来年度から始まる三年間の新中期経営計画を策定中。設備投資規模については、減価償却費を超える年間二千億円以上の積極型に転じる方針を固めた。年内いっぱいまで国内景気の動向や、米国や中国を中心とした世界経済の先行きを見極めたうえで、正式決定する。 今年度を最終年度とする現行中期計画は、投資抑制による余剰資金を借入金返済に回す消極型だった。 ただ、現行中期計画の途中から業績が急回復し、借入金の返済額を積み増しても余裕が出たため、今年度は減価償却費(千九百二十億円)を上回る二千三百億円に膨らむ見通し。 この結果、投資額の合計も五千六百五十億円程度となり、三年間でほぼ均衡する中立型となりそうだ。 投資額の増加分は、現在の旺盛な需要を背景に自動車メーカーなどから強まっている供給増の要請に応じ、自動車や造船向け高級鋼材の能力増強にあてる。 今後三年間についても、国内製造業の業績回復や中国進出企業向け高級鋼材など高水準の生産が続くとの前提に立ち、定期的な高炉改修で炉内容積を大幅に拡充するなど、能力増投資を積極化していく考えだ。 Copyright; 2005 The Sankei Shimbun
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2005年10月14日
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「公」を尊び、ときとして「私」を犠牲にする日本の心。数年前に自衛隊機が民家への墜落を避けるために、二人が犠牲になったこともあった。こういった心を未来に繋げたい。 ◆【大阪特派員】皿木喜久 燃えよ「稲むらの火」 ≪「これはただ事でない」とつぶやきながら五兵衛は家から出てきた≫ 年配の方なら忘れることのできない書き出しのはずだ。戦前の国語教科書の「名作」とされる「稲むらの火」である。 村の庄屋・五兵衛は、地震の直後、高台の自宅で大津波がくるのを予感した。だが村人たちは揺れがさして大きくなかったのと、祭りの準備で異変に気がつかない。五兵衛は自分の田んぼに走り、刈り入れた稲を積んだ稲むらに次々と火をつけていった。 「火事だ」とかけつけた村人たちに「全員をここに集めろ!」と命じる。そうやって大津波から村人たちの命を救ったのだ。 村のリーダーとしての見事な危機管理、そして大事な稲を燃やすという自己犠牲の精神に、子供たちは深い感銘を受けた。 今から六年前、皇后さまは六十五歳のお誕生日にあたり文書で記者団に感想を語られた。その年も天災・人災による悲しいできごとが多かったことに触れた後、この「稲むらの火」を取り上げられたのだ。「その後、長く記憶に残ったことでした」と。 「稲むらの火」は江戸末期、和歌山県広村で起きた実話にもとづいている。広村は現在の有田郡広川町。和歌山市の南約三〇キロにある漁業中心の町だ。紀伊水道からU字状に食い込んだ湾の奥に位置し、津波に襲われやすい地形という宿命を背負っている。 五兵衛のモデルは醤油業を営む村の富豪、濱口家の七代目儀兵衛である。後に梧陵(ごりょう)と名乗る。佐久間象山に学んだインテリであり、政府の駅逓頭などをつとめた政治家でもあった。 もっとも、郷土史に詳しい広川町中央公民館の館長、清水勲さん(76)に聞いてみると、史実は教科書とはだいぶ異なる。 一八五四(安政元)年十二月二十四日午後四時ごろ、和歌山地方はM8・4という大地震に見舞われた。ほどなく高さ八メートルという津波が村を襲う。村はその百四十七年前の宝永四年にも大津波の洗礼を受けていた。が、すでに記憶は遠く、無警戒状態だった。 教科書と違い、濱口梧陵の家は高台ではなく、村の真ん中にあった。梧陵も腰まで水につかりながら村はずれの小高い神社まで逃げる。その後を村人たちが続いた。だが、冬の夕方とあって外はもう真っ暗だ。そこで梧陵が周辺の稲むらに火をつけ避難の目印にした。それが真相だった。 ■□■ 「稲むらの火」が全国に知られるようになったのは小泉八雲によるところが大きい。明治三十年、その原型となる「生神」という小品を書いた。 これを英文で読んだ地元の中井常蔵という教師が子供向けにさらに脚色したうえ、文部省が公募した国語の教材に応募し採用されたのである。 清水さんによれば、八雲は神戸に滞在中この話を聞いたらしいのだが、直後の明治二十九年、死者三万人近い三陸大津波があった。このとき夏祭りの準備で逃げ遅れたという話もあり、二つの話をむすびつけたのだろうという。 半ばフィクションである。だがそれで梧陵の功績が薄らぐというものではない。稲むらの火の機転で犠牲者は宝永の津波の約三百人を大きく下回る三十六人、多くの村人が救われたのだ。 さらにその後、梧陵は村の海岸にそって高さ五メートル、長さ六百メートルに及ぶ防波堤を造る。驚くことに、今の金で五億円以上という私財をつぎ込んだ。しかも工事には、津波で家や仕事を失った人たちを従事させたのである。 現代の利権型政治家と比べると信じられないような話である。 広川町は昭和二十一年の南海地震で三度目の大津波に襲われる。しかしこの堤のおかげで、戦後の情報混乱期にありながら死者は二十二人とさらに減った。 だが「稲むらの火」は戦後、教科書からも教育の世界からも抹殺された。米国流の個人主義が猖獗を極め、戦前の価値観が根こそぎ打ち壊される時代に人々から忘れられていったのだ。 しかし、昭和五十八年の日本海中部地震などで津波の被害が出るたびに復活してくる。特に昨年暮れのインド洋大津波の後は、「稲むらの火」の史跡を訪れる防災関係者らが大幅に増えた。広川町でも二年前から子供中心の「稲むらの火祭り」を開いており、今年もあす十五日、松明(たいまつ)が町を歩く。 ともすれば津波の怖さを忘れがちな人々への警告であろう。 だが、「稲むらの火」が現代に突きつけているのはそれだけではない。「公」を尊び、ときとして「私」を犠牲にする日本の心を忘れてはいませんか、ということではないか。残念ながら、そのことに気づいたのは、西洋の人、小泉八雲だったが。 そんなことを考えながら「梧陵さんの堤」を歩いた。(さらき・よしひさ) Copyright; 2005 The Sankei Shimbun
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