|
この記事、何かシンガポールを見ているようだ。こんな時は人間の性(さが)が生で出るもの。シンガポール人はChina本国人を見下してChina Peopleなどと呼んでいるが、Chinese根性は変わらない。 日本では大家がレントを倍にすることは戦後の高度成長期にでも無く、仮にあったとしても大家は済まなそうに申し入れるのが大人の常識、節操というものだろうが、Chinese文化圏にはそんな発想は皆無。 儲けられるときに儲けようということなのだろう、平然とあなたの新しい家賃はSGD4000と言われたのは昨年8月のことだった(それまでSGD2000)。正に下の北京に住む女性会社員と同様な経験をした。反駁するのも無駄だと思い、Okay Thanksと答え、転居したのは言うべくも無い。 実需と無関係な高級マンション(コンドミニアム)販売、オリンピック開催中のホテルの値段、全てシンガポールがやってきたことと同じことを北京も目論み、多分一部は成功するのだろうが、一つだけ違うのは同じChinese国家とは言え、指導者の賢さだろう。 (ずる)賢いシンガポール政府は住宅事情の軟化を既に見越して、販売、建設に急ブレーキをかけている。要するに民間に圧力をかけて販売、着工させないことにしたのだ。民主主義など何処吹く風、良い意味でも悪い意味でも、こういうことができるのがこの国の凄さだと思う。 添付画像はシンガポール、オフィス街に幾らもあるオフィスを見ているようだ。 ==== ◆【五輪の中国】第2部 矛盾経済(1)高騰のちバブルの陰り 今年8月8日に開幕する北京五輪が、改革開放路線のもとで経済膨張を続ける中国にどのような影響をもたらすか。 賃貸物件の家賃が高騰している北京に、典型的なエピソードがある。五輪期間中にはより高値で貸そうと、現入居者を追い出す家主が現れた。 市中心街の王府井の高級賃貸マンションに住む会社員の日本人女性の場合、借りている部屋は100平方メートル強の2LDKで、家賃は1万7000元(1元=約15円、約25万5000円)だった。それが昨年末の契約更新の際、いきなり倍近い3万2000元だといわれ、唖然とした。 女性はマンションを出ることを決めた。「五輪後、たとえ値段が下がっても、絶対に戻ってこない」と憤る。 五輪という世紀のイベントが不動産や諸物価の高騰を招くなか、気になる現象が少なくない。 ◇ 建国門外地区といえば、北京市内でも地価の高さで知られる。今月8日の土曜日、目抜き通りの長安街沿いに売り出し中の新築高級マンションを訪ねた。 さぞ、金持ちの見学者が多いだろう、と思い込んでモデルルームをのぞいたら、閑散としている。そろいの赤いスーツを着た若い女性営業スタッフ数人は受付の周りに集まり、おしゃべりに夢中だった。 昨年1月に販売を開始したこのマンションの総戸数は700余り。75平方メートルの1LDKが中心で、当初の価格は165万元。日本円にして2475万円ほどだった。それが、わずか1年足らずで50%も高騰し、10月からは250万元(約3750万円)に跳ね上がった。 それでも、売れ行きが一番好調だった9月には約80戸を販売したという。ほとんどが、五輪景気をにらんだ投機目的による購入だった。ところが、昨年末から客足はパッタリ止まった。 なぜか。政府の投機抑制策によって、不動産バブルに陰りが見え始めたからだ。売れたのは今年1月が5戸、2月は3戸だけだった。 「五輪が近づくにつれ、景気はますます良くなると聞いていたのに…」と、女性営業スタッフはため息をついた。 給料は売り上げに応じた歩合制。この女性が2月に稼いだのは1000元余りで、昨秋のわずか約10分の1だ。今年に入り給料をまだ手にしていない同僚もいる。 「この仕事は化粧品代などいろいろとお金がかかる。このままだと、転職するしかない」 しかし、このマンションの販売会社は強気の姿勢を崩さず、価額を下げるつもりはなさそうだ。売り上げの落ち込みを「次の上昇気流に乗る前の中休み」とみる男性幹部はこう言った。 「夏の五輪を成功させれば、北京は国際大都市の仲間入りを果たす。東京やニューヨークなどと比べて地価はまだ半分以下なので、外国人投資家が五輪後、本格的に北京へ進出するに違いない」 ◇ 北京市内の主要ホテルは昨年夏ごろから、五輪期間中の宿泊料金を相次ぎ発表した。軒並み通常の4倍から5倍で、中には10倍以上に設定したホテルもある。「五輪期間中全泊しないと部屋は提供できない。料金は前払いで」と、無茶な条件を示すところも多かった。 しかし、バブルに便乗したホテルの予約状況は芳しくない。問い合わせてみると、空きが目立つホテルが多く、ほとんどが「全泊」「料金前払い」などの条件を引っ込めていた。つり上げた料金を3割ほど下げたホテルもあった。 北京市観光局などは、五輪期間に国内外の観光客約300万人が北京を訪れるとみている。市内にある一つ星以上のホテルは、建設中も含め約800。それ以外にも約4000の宿泊施設があり、数字の上ではすべての観光客を収容できる。売り手市場が一転、買い手市場の様相も見せている。 ◇
中国の不動産、ホテル業界は、五輪を大きな富をもたらすチャンスだとらえ、建設・開業ラッシュは今、ピークを迎えている。だが、関係者の笑顔の裏には、どこか不安の陰がある。(北京 野口東秀、矢板明夫) Copyright; 2008 The Sankei Shimbun All rights reserved. |
シンガポール通信
[ リスト | 詳細 ]
在星9年。愛する港市国家シンガポールの地べた這いつくばり日記。
|
先週末から一時帰国、横浜でごろごろしている。来週月曜日までの10日間、遅い夏休みだ。渋谷から田園都市線で40分、都市圏の住まいとしては普通の距離だろうが、シンガポールで10分通勤に慣れてしまうと、東京はやはり遠いなと思う。毎朝毎晩ラッシュに揺られ通勤するのは本当に大変というか立派だなと思う。つい四年前には自分も同じ身ではあったが。 4年間肩身離さず一緒にいてくれたパナソニックLets noteが壊れたので、買い替えに渋谷まで出かけた。990グラムの超軽量でどこにも持っていける奴だ。その後文庫本でも買いライオンで小一時間を過ごし、日が翳ってきたらその足で南青山の行きつけのバーに闖入、老マスターと久し振りに四方山話をしようか。興が乗ったらカラオケでも唄おうか。何も作り出さないこんな一日もまた楽し。 午後三時を過ぎたI駅は人も少なく、依然強い日差しの中で、学生やら主婦やらのきゃんきゃら声が駅に響いていた。車中はがらがらで携帯に夢中な乗客がやたら目に付く。目の前では傍目を気にしないバカ女がお化粧している、これも今や日常風景なのだろう。 首尾よく望みのPCを購入、何時ものように西武を通り過ぎ大盛堂に向かったが、無い。二年ぶりの渋谷は通りもいろいろ変わったが、それでも大盛堂には目をつぶっても行けるくらいだ。学生時代からの三十年間、多分百何十回も行っただろうか。バイトの行き帰り、恋人との待ち合わせ、自然に足が向かったものだが、それが無いのだ。 暫し呆然と立尽くした後、已む無く歩を戻し、駅前交差点にある駅のキオスクみたいなミニ大盛堂の店員に「本店、どうしたんですか?」と尋ねたら、「ただ今休業させて頂いております」とバカ丁寧な日本語の返事。「休業ってどういう意味?」と再度訊こうとも思ったが、返事はそれだけだろうと断念。「そうだ旭屋があった」と109に向かったが、何とこちらも跡形も無く、辺りは喧しい音楽ばかり、「どうなってんだ!」と逃げるように道玄坂を昇り、ライオンへ駆け込んだ。 名曲喫茶ライオンはラブホテル街入り口で静かに鎮座していた。無愛想な店員も昔のまま。メンデルスゾーンか何かの音楽が流れていた。大きいマッチをもらい、大盛堂も旭屋もない渋谷とは何なのかと、暫く紫煙を燻らせた。
|
|
人だかりの空港をかき分け、運良く検査官に物をせびられずにゲートを出ると、ここチェンナイは小雨に煙っていた。空港の混雑、出口での白タク(?)、周りにいる物乞いの手、手はいつもと変わらぬ風景だが、三年振りのチェンナイは以前より大分清浄であった。満席のシンガポール航空機からはき出され、機内で知り合った邦人駐在のインド暮らしの愚痴を聞いたのもつかの間、チェンナイにはそんなことは直ぐ過去の話にしてしまうような激しい「生活」がある。 今回初めて迎えを断り、ホテルのリモ(リムジン)で街に向かったが、運転手に「あなたには幸運がついている。何故なら幸運の雨に迎えられたのだから」等とよいしょされた。インド人はおだて上手、たとえ思いつきの一言だと分かっていても、悪い気はしない。 6月のムンバイ出張に続きインドは今年二度目。今回はインド亜大陸東南に位置する人口4百20万人の小振りな港町、チェンナイ(マドラス)を訪れた。シンガポールから約3時間、香港や台北より近い距離だ。インド西北部ムンバイや首都デリー辺りの猥雑さと比べ、ここチェンナイは人口も少なく港町特有の香りがし、その雰囲気が好きだ。内陸都市バンガローに車で四時間程度の距離にある。バーバリーが真似たというマドラスチェックの本場だ。 空港から街中までは数十キロ、普通であれば20数分で行ける距離だが、この「普通」が当地にはなく相変わらずの渋滞で40数分は必要だと運転手は言う。車窓から見えるいろいろな広告を見るともなしに眺めていると、意味は全く不明でも電話番号がやたらに長いことに気づく。そう言えばオフィスから電話する時もいつも苦労するななどと考えていると、車中ではたと膝を叩いた。 そうなんだ、この国の人は数字の長いのを厭わないのだ。国番号を入れて12桁にもなり、番号をのろのろ名刺で確認したりしていると、時間切れで繋がらないことが何度もあった。例えば001 91 44 4200 8051(オフィス)、001 91 98523 06758(携帯)といった番号を一度で覚えるのはそう簡単でない。さすが九九ではなく1717とでもいうのか17x17までのかけ算を諳んじることができる国民というのは凄い。時差が2.5時間(日本とは3.5時間)というのも、何となく象徴的な気がする。 こんな愚にも付かぬことを考えながらやっとホテルに着くと、ホテルではこれから新たなビジネスを一緒に始めることになる友人二人が迎えてくれた。時刻は既に夜12時近く、二人とも酒の臭いをぷんぷんさせていたが、人なつこい顔は相変わらずであった。どちらも日本の船会社の代理店ボスをしていたが、自営化の流れで切られ、自前で会社をスタートしたばかりだと言う。 翌日からは彼ら手配のマルチスズキSwiftに乗り、各社を訪問、会議の連続で延べ何人と会ったか数える気もしないが、インド人との交渉は本当に疲れる。日本では日経などが10年前にChinaに対して行ったのと同様に、「眠れる巨象インドを狙え!」などとインドを一生懸命はやしているが、ことはそれほど簡単に進むとは思えない。 よく「インド人を黙らせるのは日本人を喋らせるのより難しい」となどと言うように、話が延々と続き止まらない。話が已むのを待っていては、こちらの言いたいことの一割も言わずに交渉が終わってしまうはめに陥る。あの平坦な英語で顔を横に振りながら、延々と続く主張を遮らない限り、交渉は先ず失敗すると肝に銘ずる必要がある。如何にこちらのペースで進めるかが第一だが、これが難しい。 インド進出企業は現在286社と聞いた。Chinaに店を張っている日系企業は五千社とも三万社とも言われているが、その比較ではChinaの百分の一から20分の一と言えるが、インドに駐在している日本人から話を聞くとこの少なさは何となく肯けるような気がする。 建物はどこも汚い、不衛生、ちょっと歩けば物乞いにたかられ街中をゆっくり散歩などと言うことは全く考えられない、家族も本人も皆車で会社・日本人学校・ゴルフ場辺りを行ったり来たりするだけの生活。健康診断、食材の買い出しでシンガポールやバンコックに行くのが唯一の息抜きなどといった生活では、この駐在期間はただひたすら堪え忍び蓄財に励み、次のポジションに期待しようなどと思うのが自然の反応かも知れない。 要するに東京、倫敦、紐育、東南アジアで言えばシンガポールあたりの生活に慣れてしまうと、インドという国はどうしようもなく暮らしにくい国と写り、また先に述べたようなインド人のビジネス手法を目の当たりにすると益々「嫌になってしまう」わけだ。 それでも10億を優に超えるこの親日国家と付き合わぬ手はない。古くは「東京裁判」でパール判事がひとり日本を擁護してくれた国だ。甘いことは一切考えずに、印僑と真っ向からお付き合いするのは、戦後の「甘さ」にならされたわれわれ日本人にとっては願ってもない貴重な経験ではないか。そんな感じがしている。 週末、気の良い友人は車を走らせチェンナイ南部の津波被害の地に連れて行ってくれた。一昨年末のスマトラ沖地震による津波被害では公表1万6千人が犠牲になったというが、現地の友人達は「本当はもっと。多分5万人はいると思う」と言っていた。写真の通り、仮設住宅などとは言えない藁葺き掘っ立て小屋に今でも数多の避難民が生活している。生暖かい海風に当たりながら祈りを捧げた。
|
|
先々週19日から4日間パキスタン(ラホール)に行ってきた。当初カラチ→ラホールと予定を組んだが、カラチでの爆発騒ぎ(57人死亡)で先方から「来るな」と言われ断念、ラホールだけの出張となった。五年ぶりのパキスタン。シンガポール航空がこの二月、カラチ・ラホール直航便を再開したので大分便利になった。シンガポールから5時間程度の距離にある。 以前とは様変わりイミグレ(税関)も難なくパス、ゲートには十年来お付き合いの現地の友人が温かく迎えてくれた。ホテルチェックインもそこそこに友人から「外に行こう」と、行った先はゴルフクラブ。依然アルコールは御法度の国のようだがそこではOK、遅い時間までウィスキーをなめながら旧交を温めた。 パキスタンも大分変わったものだ。翌日昼食をとったレストラン(写真)はシンガポールやマレーシアあたりのそれと見紛うほどだ。以前は女性だけのグループを見ることなど全くなかったが、綺麗に着飾った女性たちのグループが(それでも)周りの視線を気にしながら、おしゃべりしたり、高価なNOKIAの携帯を使ったりしていた。 ムガール王朝時代から続く古都ラホールは、彼らの説明では、人口12百万人、商業港湾都市カラチ(15百万人)の猥雑さと比べ落ち着いた雰囲気があり、人々の動作も心なしかおっとりした感じがする。ムシャラフ軍事政権が9.11テロ以降米国寄りになったことから、米国の経済支援を得、日本のODAも増額され、経済は好調のようだ(この第一四半期は7%成長)。 ラホールは市内から一時間以内でインド国境に到達する場所にあり、友人が土曜日に国境まで案内してくれた(写真)。市内を30分も郊外に出ると車窓から見る風景は煉瓦作りの家屋とご覧の通りのマーケット(写真)。学校もこの廃屋もどきの家屋の一角にあった。一握りの富裕層と圧倒的な数の貧困層が依然現実なのだろう。これでも前のシャリフ政権時代よりは「大分増しになった」と友人は言うが。アルジャジーラ一派はこんなところにも潜伏しているのだろうか。 眠りから目を覚ました「巨像インド」の陰でパキスタンは依然取り上げられることが少ないが、当国の自動車市場はスズキ(6割)、ホンダ(2割)と日系の独壇場(在留邦人は全国で八百数十人しかいないが)。親日国である。 47年のインド、パキスタン分離前はムスリムがヒンディーより優位にあったようで、インド人に対する優越感(とそれに相反する現在の僻み)が強い。三月のブッシュ印パ訪問ではインドに先を越されたようだが、インドネシアに次ぐ世界二位のイスラム国家が一体何時立ち上がるものか、シンガポールへの帰りの機内でカンパリを飲みながら、しばし考えさせられたものだ。
|
|
昨晩は11時から夜中の3時までテレビに貼り付けとなった。旧正月にもらったコニャックをなめながら。ひとりで過ごすこの時間はGolden Time。 シンガポールはこういう大会に選手を送り出す国威発揚価値は認めても、冬季に参加させるための社会的費用はそれは膨大なものだろうから、アジア大半の不参加国のひとつであった。夏のオリンピックでは卓球で6位入賞となったChinaから高額で引き抜いた選手の報道を一ヶ月も続けていたが。 従ってローカルのテレビ局は冷淡(開会式のみ放映していた)だが、唯一のメディアにStar SportsというPremium Channelがあり、当地ケーブルTVのMosaic画面(一画面に20Channelを同時に放映するやつ)で見られた。29インチのテレビでも20分割すれば一チャンネルは10CMぐらいしかないが、それでも音はあるので大きな問題は無し。 いつから二回走ることになったのか知らぬが、二回目最後の走りがただ悔やまれる。それでも岡崎の笑顔は素晴らしかった。実際「Pretty smile」とアナウンサーは口がすべったくらい。全選手の中で一番きれいだった。岡崎さん、あなたは偉い。(画面には出なかったが)リンクに入る前に一礼したという競技姿勢は観客の胸にきっと刻まれただろう。選手団長の大役はしっかり全うした。堂々とご帰還下さい。
|





