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幸・不幸
日記
[ 野の花 ]
2014/9/11(木) 午前 1:51
えっと…お待ち頂くほどのことは![]()
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これは「思い出のマーニー」を書いた時にも心に感じていたことですが、“世代間連鎖”のような不幸癖があると感じます。
十分に愛され、満たされ、他者を思いやる心の丈にまで成長していない心です。
対等に愛し合うということが解らない。
愛されている存在としての自分が見えない。
自分にも他人にもひそやかに絶望している。
外的には尽くして尽くしていても相手からはそれに見合う愛情が受けられない。
我が子を「愛という名のもとに」支配し、自立を許さない。
または我が子に愛情を注ぐ意欲が生じない。
脈絡なく並べてみましたが、私が育った家にはそういう大人子どもばかりがいました。
そういう場合、一度はそのしがらみを思いきって捨てなければならないと思います。
聖書の中に「家、兄弟、父母を捨てなさい」という箇所がありますが、昼間、私の中で自分へのみことばとして解きあかされたので「あっ!」となったんです。
断片的に…
日記
[ 野の花 ]
2014/9/9(火) 午前 3:16
日本の風土に育った現代っ子に、キリスト教圏の文化から語るスピノザの言葉がそのままで伝わるでしょうか?
でも…やはり誰かの言葉はいじるべきではありませんね。
私は私の出会った神様を拙くとも自分の言葉で語らなくては。。
私の出会った神様を最も近しく語っているのはリジューのテレーズです。
神様の前には子どものように無防備で、実は天罰とか地獄を恐れながら福音を語れません。
イエスさまは私の喜びです。
どんな愛で愛されているか!
…実は、それをもっと大胆に言えば、神様はクリスチャンのみを懐に抱かれる方ではないと感じてもいます。
私の主が望まれるのは隣人を「生かす為に愛する」ことです。
とても意志的なものです。
嫌われることや損をも受け入れる覚悟が必要なことさえあります。
…支離滅裂ですね(笑)。
思いばかり溢れて、思考がまとまりません。
いろんな意味で今は自重すべき時なので、ここまでにしますが、神の願いを知る者にとって自己犠牲=自己実現はとても素直に聞けました。
ありがとうございました。
断片的に…
日記
[ 野の花 ]
2014/9/8(月) 午前 11:25
「神学政治論」!そんなジャンルがあるんですねえ。。
崇敬と服従について自分の言葉を探してみたいと思います。
私が出会った神様は…恐怖や義務感ではなく、愛し合う喜びの中で「この御方(神)を喜ばせたい!」という衝動を生じさせてくださいました。
神体験の中で、自分が、また他の人々が皆特別に、どれほど深く豊かに愛されているかを感じさせてくれました。
世界は輝いて見えました。
神様の本質の一部を私に必要として見せてくださったのでしょう。
その時、神様への畏れは残っても恐れは消失しました。
だから、神様に喜んで頂きたいというのは自発行為になります。
それが自己犠牲であっても。
それから「神に捨てられる」については…神に捨てられるというより、神の愛の持つ本来の性質に背く生き方は、自ら神を捨てているのだと思えます。
少なくとも地上において本人にはそれが地獄だという自覚はないと思います。
だけど満たされない、不安で、孤独で、平和のない世界です。





