Jesus diary

療養中のクリスチャンです。レスが遅れたり、できない時もありますがご容赦ください。

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こんな事、とっくに学んだと思っていたのだが。
霊的に後退していた時期が続いていたので、調子が戻ったところで学び直しというところだろうか。

僕の通ってる施設には、どうも苦手な人がいる。
まず性格が生理的に苦手。
それから、その人のトークも苦手。話題が僕にはつまらない。
しかもその話題を話し始めると、デカイ声で止まらなくなる。
正直なところ、耳障りに感じる。
しかもその人と話が合う人もいるので、おとなしい(?)僕らはその場で黙っているしかない。

「とてもこんな所、一緒にいられんわ。」

と、席を外そうとすると、内側に平安がなく、主の強い力で席に押さえつけられた。

必死でもがいて逃げようとする僕。
でもそれが出来ない。
じゃあ覚悟を決めてその場にとどまろうとすると、それも無理している感じで、やはり平安がない!

いったいどうしたものだろうか!?

それどころか、たまにその人のほうから僕に話題をふってくる。
僕は彼と目を合わせて話すことも辛い。一方的な感じで話してくるので、どうも会話がスムーズにいかない。

かといって、その人は非常識な人間かというと、必ずしもそうではない。
僕は彼を苦手だと言ったが、実は彼も僕のことを好きじゃないらしい。
いや少なくとも、かつては僕を嫌っていた。
今はそんなことは引きずってないようにも見え、普通に僕と会話してくる。
ある意味、大人の付き合いができあていると言える。
それに比べて僕は・・・建前だけでも紳士的に付き合うことにも困難を感じている。

「クリスチャンのくせにこれじゃあ、何の証しにもならない・・・」

敗北感をかみ締めた。

その時、僕は月曜日に読んだデボーションのテキストの言葉を思い出した。

「それは律法の義の要求が、肉にしたがってではなく、霊にしたがって歩くわたしたちにおいて、満たされるためです。」
(ローマ8:4)

新約の信者は、律法を自分の力で守ろうとするのではなく、霊にしたがって歩み、それによって自然に律法の義の要求が満たすのだ。

テキストの解説には、こうあった。

「ある日、主はわたしの目を開いて、わたしは善を行おうとする必要はないことを見せてくださいました。(中略)わたしが行わなければならないのはただ、霊にしたがうことです。(中略)わたしが行わなければならないことはただ、主を享受し経験することです。ハレルヤ!」

これを思い出したとき、僕は解放された。

「ああ、僕は無理に彼と仲良くしようとしなくていいんだ!」

そう思った。
そこから先は、らくちんそのものだった。
無理に立派に振舞おうとしなくとも、命の霊の法則(ローマ8:2)に身を委ねていれば、気付けば自然と接している自分に気付いた。
帰り道もその人とマン・ツー・マンだったが、何の苦もなかった。

私たちは善悪の知識の木に毒されているので、善悪で物事を判断して、自分の力で善を行おうとし、失敗する傾向がある。
しかし、命の木で象徴されるキリスト、命そのものである方に身を委ねれば、単純に彼を享受するだけで、義は達成される。

閉じる コメント(2)

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肉でがんばらなくてもいいんですよね。>わたしが行わなければならないことはただ、主を享受し経験することです。ハレルヤ!アーメン。

2007/3/24(土) 午前 10:13 いつくしみ

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「クリスチャンだから、こうでなければならない。」と肉でがんばる必要はないし、それをやっては主のように歩めないんですね。ついやってしまいますが。もっとも律法も、自分の無力を悟らせ、主に頼るように導くためには用いられますね。

2007/3/24(土) 午前 11:20 マタリー

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