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エゼキエル書47章から
2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
上の聖句で、神の宮から水が流れていますが、これは神の恵みを言っているそうです。
クリスチャンの人生において、恵みは始め「足首」ほどまでの深さしかありません。
しかし足首まで水が来ていると、歩きづらいですね。
これは恵みがやってくると、わたしたちの努力が制限されることを表しています。自分の好き勝手に歩き回るのが難しくなるのですね。
もっとも恵みが「足首」程度では、まだわたしたちは自分の力で歩き回ることができます。また流れがそれほど深くないので、少々不便でも自分の力で歩かざるを得ないのです。
しかし流れが増し加わると、さらに歩きづらくなります。
ひざにまで達すると、自分の好きなように歩くのは、かなり困難です。
こうしてさらに流れは腰にまで達し、ついには泳げるほど、つまり自分の力で歩かなくても、恵みによって運ばれる程度にまで深くなるそうです。その段階になれば、自分の努力を完全に放棄して、恵みに身をゆだねていれば、流れが自然にわたしたちを行くべきところへ運んでくれるそうです。
しかしこれは相当に深い段階です。そこまで至るには時間が掛かります。
わたしたちには恵みが増し加わることと、自分の努力を放棄して委ねる両面の学びが必要です。
主イエスはペテロに言いました。
「あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、望む所を歩いた.しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯を締めて、あなたの行きたくない所へ連れて行くであろう」
(ヨハネ21章18節より)
これはペテロがどのような死に方で神の栄光を現すか語られた箇所ですから、ちょっと引用には不適切かもしれませんが、クリスチャンはだんだんと自分勝手にできなくなるという意味で引用させていただきました。
増し加わる恵みを感謝します。たとえそれがペテロのように行きたくない所へ連れて行くことになっても、恵みがあれば心配は要らないでしょう。
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