Jesus diary

療養中のクリスチャンです。レスが遅れたり、できない時もありますがご容赦ください。

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農作業休止中

先月に調子を崩しまして、農作業のリハビリは現在休止中です。

先日、人様のブログに長々とコメントしてしまったのが、一部の方に反響がありました。

ルカによる福音書10章に出てくる、「良きサマリヤ人」と呼ばれる有名なたとえ話です。

私がさいきん気付いたのは、その話は一見して「あわれな弱っている人を助けるように」というボランティア精神に溢れた教えのようなのですが、実は!道の途中で強盗に遭って弱っていたのは、実は私自身であり、それをあわれんで助けに来てくれたのはイエスだということでした!

時間の都合上、あまり記事にできませんが、一つだけ書いておこうと思います。

このたとえ話は、ある律法学者がイエスを試して「先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか?」と質問したのがきっかけでした。

イエスは答えられました。「律法に何と書いてあるか? あなたはそれをどう読むか?」

律法学者:「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛し、自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい」

ここの律法学者の答えなんですが、ここまですべてを尽くして神を愛すること、また自分自身のように隣人を愛することなんて、人の努力では決してできません!

・・・ということが分かりました。

それも分からず、一生懸命に自分の努力で神を愛し、隣人を愛そうとしているなんて、そりゃあわれなもんだとやっと気付いた私なのでした。

わたしたちが神を愛したのではなく、まず神がわたしたちを愛してくださったのですね。良きサマリヤ人のように。

永遠の命を得るために「何をすればよいでしょうか?」と自分の行いに頼る考えが、そもそも間違っているのです。

GOOD NEWS

神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された.それは、彼の中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである。


新約聖書 ヨハネによる福音書3章16節

一の立場の祝福

わたしは関東の某所に在る教会で集会しています。

私たちは、聖書の模範にしたがって「○○に在る教会」という言い方をしますが、他にバプテスト派やメソジスト派という名前は持ちません。

その都市にいる全ての聖徒は、そこの教会の一員であり、「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロにつく」、「わたしはケパにつく」、「わたしはキリストにつく」と言って分かれるようなことはしません。

「キリストは分けられたのでしょうか?」いいえ、分けられていません。

ただ全世界のクリスチャンが一度に集まることは、時間と空間の制限上は不可能ですから、それぞれの地において「○○に在る教会」ということで集会しています。それ以外に区別はありません。

この一(いち=一つであること)に基づいた立場に注がれる祝福は、すばらしいものがあります!

今日も本当にすばらしい集会でした。コリント第一の手紙14章にのっとって、一人一人がそれぞれキリストを語りました。その豊かさたるや!
まるで旧約のイスラエルの民が、祭りの時にエルサレムへ上ってきて、おのおのが収穫した産物を持ってきたような豊かさでした!


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以下補足


一つからだと一つ霊、それはあなたがたも、あなたがたの召しの一つ望みの中で召されたようにです.
一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ.
すべてのものの神また父は一つ、この方はすべての上に、すべてを貫き、すべての中におられるのです。

(エペソ4:4−6 回復訳)


見よ、兄弟が和合して共におるのは いかに麗しく楽しいことであろう。
・・・これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。

(詩篇133編1、3節より 口語訳)

キリスト対宗教

真のクリスチャンは厳密に言って、「キリスト教」という宗教を信じている人ではありません。

クリスチャンは、聖書に啓示されている神、イエス・キリストを信じ愛している人たちです。

かの内村鑑三も、「キリスト教は宗教にあらず」と言ったとか。(これはうろ覚えです。間違っていたら申し訳ありません)

最近になってわたしは、実はイエスが宗教を嫌っておられるということが少しわかってきました。

ウィットネス・リーの著書に「キリスト対宗教(Christ vesus religion)」というのがあります。
このタイトルには、ショッキングに感じる人もいるかも知れません。
見方によってはこのタイトル、何か奇をてらってるだけのように思えるかも知れません。ところがそうではなく、これは大袈裟でもなんでもない真実なのだとわたしも感じはじめました。イエスは宗教を嫌っておられるのです。

「イエスが宗教を嫌ってる!?そのイエスこそ、キリスト教という一宗教の開祖じゃないか?」

そう思う方もおられるかも知れません。

ここで、わたしが言っている「宗教」という言葉の意味を考えたほうがいいですね。

世界には様々な宗教がありますが、ここで言っている「宗教」とは、神について教えるけども、神との生きた関係がないもの、神の臨在が無いものと言ったらいいと思います。

聖書ではその実例の一つとして、ユダヤ教が挙げられると思います。

旧約聖書でもっとも大切な戒めは、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということでした。

もしこの戒めをその通りに実行していたなら、イスラエルの民は死んだ宗教に落ち込まずに済んだでしょう。

ところが一例として、イエスの誕生の時点からすでに、イスラエルの教師たちはおかしなことになっていました。

異邦の星占い師たちが、イエスの誕生を知って礼拝しに来た時、ヘロデの集めた祭司長や聖書学者はキリストの生まれる地を預言書からベツレヘムだと答えました。しかし彼らは、キリストが生まれると知っていながら、異邦の星占い師たちのように礼拝しに行かなかったのです!彼らは聖書に文字のうえで非常に通じていたにも関わらず、キリストに対する追い求める心や愛がなかったのです。異邦人がわざわざ礼拝しに来たにもかかわらず!

このようにイエスの誕生一つとってみても、彼は宗教の圏外で見出されたことがわかります。

それから後に起こった出来事の数々は、福音書等を読めばわかるとおり、聖書を文字のうえで知っていながら、その聖書が啓示しているキリストに対して敵対する宗教家たちの姿を見せています。

彼らのようになりたくありませんね。クリスチャンも死んだキリスト教徒にならないよう、注意が必要です。

しかも厄介なことに、宗教は純粋な神の子たちを迫害するのです。

それはユダヤ教徒がイエスを迫害したように、同胞であるはずの人たちが純粋な人たちを苦しめるのです。

創世記で自分の弟を殺したカインは、何が原因でそうしてしまったのでしょう?神に対する礼拝をめぐってでした。

同じように歴史は、ほかでもないキリスト教が!(特にローマ・カトリックが)クリスチャンを多く迫害し、命さえ奪ってきたことを伝えています。こんなことをイエスが望んでおられるはずがありません。イエスは変質したキリスト教という宗教を信じるのではなく、ご自身を信じ愛する者たちを欲しておられます。

わたしも注意しないと・・・生けるキリストの臨在から離れて宗教的になることは、どうやらわたしたちの堕落した性質の傾向としてあるようなのです。わたしも道を反れれば、いとも簡単に死んだ宗教家に成り下がることができます。それでころか今この瞬間でさえ、宗教から完全に解放されていないのではないかと思います。
気がついたら自分がクリスチャンを迫害する存在になっていた・・・そんなことは絶対に避けたいと思います。信仰の家族を実際に殺すことはなくても、自分の兄弟を憎む者は人殺しだと聖書は言っています(第1ヨハネ3:15参照。12節にはカインについての言及もあり)。
死んだ宗教から救われますように。

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マタリー
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