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クリスチャンになってもいやな出来事は起こります。 何もかもが自分の思い通りにいくようなご利益信仰は、聖書の語っているものではありません。 クリスチャンに起こる様々な不快な環境は、多くの場合、外なる人を砕くためにあります。 クリスチャンはイエスを信じ受け入れた時、彼を命として内側に持ちます。 しかしこれは第一歩に過ぎず、このままではキリストを自己という堅い殻に閉じ込めてしまっています。 これではイエスの栄光を現そうにも、表現されるのはその人の自己ばかりです。 あるいはキリストの輝きがその人から放たれていても、その人が生まれながらにして持っている特徴や、生きてきたなかで培われた独特の「臭い」や「味わい」のようなものが混じって出てくるので、そのままではキリストの栄光が純粋に輝いて見えません。 この文章を書いてるわたし自身、自分では気づきませんが、独特の味わいでキリストを純粋に輝かしていないのではないかと気になります。 それほど私たちの自己は、堅くキリストの命が現れるのを妨げています。 しかし神には方法があるんですね〜^^ それが「環境によって外なる人を砕く」ということです。 例証をします。 花の種をひとつ、土にまくとします。 まかないうちは、種はいつまで経ってもそのままです。 ところが土にまかれると、土の中の温度や水分といった、環境上の様々な要因が作用して、種の殻が砕かれていきます。 そして殻の中に閉じ込められていた命が、自由を得て躍動しはじめます。芽が出て茎が出て、最後には満開の花を咲かせるわけです。 同じことがクリスチャンにも起こります。 神はどうすれば私たちの自己が砕かれるか、よくご存知です。 「こいつはこういう環境にすぐ反応するから、こういう環境を起こしてやろう」 そんな感じで外側の環境をアレンジしてくださるわけですね。 多くの場合、環境は煩わしいものです。なぜなら、それは私たちの自己を砕くために按配されているからです。 しかしそれがあってこそ、私たちの内に閉じ込められた主の命が解放されるのです。 (以下、コリント人への第二の手紙から) 4:16 こういうわけで、わたしたちは落胆しません.それどころか、わたしたちの外なる人が朽ちていっても、わたしたちの内なる人は、日ごとに新しくされていきます。 4:17 なぜなら、わたしたちの受けるつかの間の軽い患難は、ますます卓越した永遠の重い栄光を、わたしたちにもたらすからです. このようにして、私たちはキリストの香りを放つ者へと変えられていきます。
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日本各地の地方教会では、「説教」という言葉は使われず、集会で語られる長い話は「メッセージ」と呼んでいます。 理由をちゃんと確かめたことはないのですが、「説教」といった場合は、死んだ教えのイメージがあるから避けてるのではないかと思います。 「説教」とは文字通り、教えを説くことです。それ自体に問題はありません。新約聖書には、確かに教えがあります。 ただその教えが、死んだものであっては意味がないのです。 今日キリスト教では、死んだ教えが蔓延しています。 いくらその説教が聖書的で「正しい」ものであっても、それが人を生かさなければ、意味がありません。 新約の務め(ミニストリー)は、命を与える務めです。パウロは言っています。 「神はまたわたしたちを新しい契約の奉仕者として、資格づけてくださいました.それは、文字ではなく、その霊の奉仕者です.なぜなら、文字は人を殺しますが、その霊は人に命を与えるからです。」 (第2コリント3:6) 文字は人を殺しますが、その霊(the Spirit)は命を与えます。語ることによって人に命を供給できなければ、新しい契約の奉仕者としては失敗です。それでは文字を伝えてるだけに過ぎません。 旧約の務めは、まさにそのようなものでした。それは「石に彫られた文字による死の務め」と呼ばれています(3:7) 「律法が入り込んできたのは、違犯が満ちあふれるためです.」とあるとおりです(ローマ5:20) それは人に罪を認めさせることができますが、それに勝つ力を与えることができません。 もし新約聖書を用いて語っても、それが人に命を与えて生かすものでなければ、死んだ教えを与えているに過ぎないのであって、新しい律法を語っているようなものです。それは聞くものに、聞いた教えを実行する力を与えることができません。要求だけがあるのみです。そのような教えをする者のわざを、主イエスは断固否定しています。 「・・・聖書学者とパリサイ人は、モーセの座に着いている. だから、彼らがあなたがたに告げることはすべて行ない、守りなさい.しかし、彼らのわざに倣って行なってはならない.彼らは言うだけで、実行しないからである。 彼らは重くて負い切れない重荷をくくって、それを人の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本も貸そうとしない。」 (マタイ23:2−4) これでは聞く側は辛いだけです。 どうかもっと多くのクリスチャンが、生かされる語りかけを聞く機会に恵まれますように。死が命によって飲み尽くされますように。 (以下加筆) 「もし命を与えることのできる律法が与えられていたとするなら、義は確かに、律法によるものであったでしょう。」とあります。(ガラテヤ3:21) しかし律法の行いによっては、義とされることはできません。それは命を与えることもないので、義を行う力を与えてはくれないのです。 ガラテヤ人はそのような誤りに陥っていました。つまり、 「ただこのことを、わたしはあなたがたから知りたいのです.あなたがたが2その霊を受けたのは、律法の行ないによるのですか、それとも信仰を聞くことによるのですか? あなたがたはそんなにも愚かなのですか? その霊によって始まったのに、今、肉によって完成されようとするのですか?」 (3:2-3) こうパウロに指摘されてしまったのです。信仰によって始まったのに、肉の行いで完成を追い求めてはいけないんですね。ついついやってしまいますが、それは失敗という結果になってしまいます。
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先月から、ある福祉団体が運営している農場で、リハビリのために軽い農作業をしています。 |
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「暗やみから光が照りいでよ」と言われた神は、わたしたちの心の中を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識を、輝かせてくださったからです。 新約聖書 コリント人への手紙4章6節 パウロが上で言っているように、聖書の一番始めである創世記1章で神が光を創造された記録は、確かに人が神に初めて出会うときの経験を物語っています。 創世記では、「はじめに神は天と地とを創造された。」という有名な出だしの後、2節は 「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」(口語訳) と言っています。 ここの「おおっていた」という言葉は、原文では鳥が卵をつばさで温めるような場合に使う動詞だそうです。 すばらしいと思います。 死の水を神の霊がおおい、母鳥のように命を生み出そうとしている様子が感じられます。 そして3節で、神は「光よ。あれ。」と仰せられ、光が出来ました。 これらの記述を読んでいると、わたしは自分がクリスチャンになる前の暗闇の人生を思い出します。いったい自分は何のために生きているのかも分からずに悩んでいたことを。そしてある日その闇から、神が救い出してくださり光が人生に差し込んできたことを。 自分が気づかぬ前から、神は暗闇にいるわたしを愛してくださり、すでにめんどりのようにおおってくださっていたのです。わたしが新たに神ご自身から誕生するようにと、光に出会うようにと、準備していてくださったのです! どうかさらに多くの人の人生に、この光が差し込みますように。光よあれ!
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