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前回は解説ばかりで難しい話になってしまいましたので、わかりやすいように自分の話をさせていただこうと思います。
わたしはずっと神を愛するよう努めてきました。どんなに苦しくても、時には神が嫌いになっても、我慢して忍耐して。
神を愛することは間違っていませんが、↑これって愛してない時もあるのがバレバレですよね?
愛してる時もありました。調子のいいときとか^^;
でも「神を愛することなんてできない!」って思ったことも、正直何度もありました。
それでもなお愛そうとして努力して苦しんでました。これってなんだか、悲壮感ただよってませんでしょうか?
「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」なんて無理なんですよ、人には。少し愛することはできても、ここまでして愛することは無理です。
↑この言葉、間違ったことは言ってません。しかしこれも律法の言葉なのです。律法の目的は「自分にはできない」と悟らせるためにあります。
ですからわたしは、自分の主に対する愛に信頼しません。それは必ずしもあてにならないからです。
それより神のわたしたちに対する愛に信頼したほうがいいです。彼の愛は強力です。
雅歌にはこうあります。
「わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。」
(雅歌 8:6 より)
また使徒パウロも言っています。
「なぜなら、死も、命も、天使たちも、支配たちも、現在の事柄も、来たるべき事柄も、力も、高いものも、深いものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにある神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないと、わたしは確信するからです。」
(ローマ人への手紙8:38−39)
これだけ強い神の愛こそ、わたしの希望であって、自分のあてにならない愛には信頼しません。
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