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ルカによる福音書から 10:27 彼は答えて言った、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛し、自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい」。 10:28 イエスは彼に言われた、「あなたは正しく答えた.それを行ないなさい.そうすれば命を得る」。 10:29 しかし彼は、自分の義を立てたくて、イエスに言った、「それでは、わたしの隣人とはだれでしょう?」 10:30 イエスはこの質問を取り上げて言われた、「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行った.すると、彼は強盗どもの手に陥った.彼らは彼の衣服をはぎ取り、彼を打ちたたいて、半殺しにしたまま立ち去った。 10:31 たまたま、ある祭司がその道を下って来たが、彼を見ると向こう側を通って行った。 10:32 同じようにあるレビ人も、その場所に来たが、彼を見ると向こう側を通って行った。 10:33 ところが、旅をしていたあるサマリヤ人が、彼の所に来た.そして彼を見ると、深くあわれみ、 10:34 近づいて来て、その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をした。そして自分の家畜に乗せて、宿屋に運び、彼の世話をした。 10:35 翌日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った、『彼の世話をしてください.どんなに余計にかかっても、わたしが戻った時に払います』。 10:36 これら三人のうち、だれが強盗の手に陥った者の隣人になったと思うか?」 10:37 彼は言った、「彼にあわれみを示した者です」。イエスは彼に言われた、「行って、あなたも同じようにしなさい」。 さて、多く取り上げるポイントがあると思いますが、順番に扱うことはせずにいきたいと思います。 今回は「隣人とはだれか?」ということを考えたいと思います。 「わたしの隣人とはだれでしょう?」と尋ねた律法学者に、イエスはたとえ話を話し始められました。内容は読んだことがある方ならよくご存知のとおりです。 たとえ話を終えてイエスは、「これら三人のうち、だれが強盗の手に陥った者の隣人になったと思うか?」と尋ねられました。 ここで冷静に考えていただきたいのですが、「わたしの隣人とはだれでしょう?」という問いの答えが、一般的に考えられているように「強盗の手に陥った者」であれば、ちょっとおかしいことになります。 なぜならイエスは、「だれがサマリヤ人の隣人になったと思うか?」と言われずに、「だれが強盗の手に陥った者の隣人になったと思うか?」と言われたのです。ここに注意してください。 つまり、このたとえを通じてイエスは仰りたいことがあったのです。それは「わたしの隣人とはだれでしょう?」と、他の人を愛せると思っていた律法学者は、実はそんなことできないあわれな強盗に遭った者と同じであり、実は彼こそ隣人となってくれるサマリヤ人としてのキリストを必要としている ことを悟らせたかったのです。ですからイエスは言われました「だれが強盗の手に陥った者の隣人になったと思うか?」 イエスはここでこう言っておられるかのようです。「あなたこそ自分を愛してくれる隣人を必要としていますよ!」と。そしてその隣人とはわたしなのですよ、と。 これについてはさらに説明する必要がありそうですが、次回以降とさせてください。 とりあえず強調しておきたいのは、律法学者は自分の努力で神と人を愛せると思っていながら、実はそれができずに霊的に「半殺し」になった状態であったということです。これはローマ人への手紙7章を読むとよくわかります。 「何とわたしは苦悩している者でしょう! だれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのでしょうか?」 (ローマ7章24節) これはまさに、強盗に陥った人の状態そのものではないでしょうか? 彼はこれこそ自分の姿であることに気付く必要がありました。 わたし自身も、これに気付かず一生懸命に神と人を愛そうとして、それができずに今まで来ました。しかも自分がこのあわれな者であることに気付かずにいたのです! このような状態から救い出してくださるのは、キリスト以外にありません。彼は真に救い主です。 ですから、律法の努力の結果は霊的な死であり、あわれんでくださるサマリヤ人としてのキリストを必要とします。
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回復訳聖書を読む
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ルカによる福音書から 10:25 すると見よ、ある律法学者が立ち上がり、イエスを試みて言った、「先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか?」 10:26 イエスは彼に言われた、「律法に何と書いてあるか? あなたはそれをどう読むか?」 10:27 彼は答えて言った、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛し、自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい」。 では第二回ということで、できるだけ聖書に書かれている順序で見ていきたいと思います。 まずイエスに「律法に何と書いてあるか?あなたはそれをどう読むか?」と尋ねられた律法学者の答えですが、それは次のようなものでした。 「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛し、自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい」 彼はある意味で模範的な回答をしたと言ってもいいと思います。なぜなら神を愛することと隣人を愛すること、この二つこそ最も大事な戒めであるとイエスも言っています(マタイ22:37−40) これらの戒めは何も間違ったことは言っていません。しかし問題は、それがあなたにできるかどうか? といことです。 今回は前半の神を愛することについて特に見たいと思います。 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、とあります。尽くし、尽くし、尽くし、尽くし! ここまですべてを尽くして神を愛することなど可能でしょうか? 私の家にはこの言葉を書いた色紙が、額に入れて壁に飾ってあります。家族が買ってきたものです。その影響もあるのか、これまでわたしは全力で神を愛するよう努めてきました。 神を愛することは間違っていません。しかしここの律法学者は、自分がここまですべてを「尽くして」神を愛することが可能であると思っていたようです。 私も自分がそうして神を愛することを実行してきたと思っていました。しかしよくよく振り返ってみると、決してそんなことはないと分かってきました。 いやなことが重なって神にぶちキレて、真っ向からののしったこともあります。今でも辛いことがあったりすると、「すべては神の主権のもとに起こっているのだから、益となると信じなきゃ」と一生懸命になって忍耐しようとする一方で、いいかげん神がいやになってすべてを投げ出したくなっている自分がいたりします。 これでもすべてを「尽くして」神を愛していると言えるでしょうか?とてもそうは言えません。それでもそんな自分に気付かずに、一生懸命になってまだ自分は神を愛せると思っているのは、あわれなことです。それは律法の努力に過ぎません。 これがルカ10章のたとえから、やっと私が気付いたことの一つです。私には、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、私の神である主を愛することはできません! 律法の役割はそもそも何でしょうか?それは私たちには「できない」ということを戒めによって悟らせるためにあります。ローマ7章はそんな律法の役割について書かれています。 しかしこの「できない」と悟ることが、実は幸せの第一歩なのですね。では続きは次回以降に。
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ルカによる福音書10章25節から37節には、聖書でも有名な「よきサマリヤ人」として知られるたとえ話があります。 |

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わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.彼はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そして神の御座の右に座しておられるのです。 ヘブル人への手紙12:2 ここで「ひたすら見つめ」と訳されているギリシャ語は、他のものすべてから目を離し、一つのものに完全に注目することを表すそうです。 この言葉を受取人であったヘブル人の信者は、当時ユダヤ人の迫害にありました。そんな彼らに手紙の書き手は、「イエスをひたすら見なさい」つまり、「すべてのものから目を離してイエスだけを見つめなさい」と励ましました。 私もよく自分を取り巻くいやな状況、心配事などにとらわれて、イエスを見つめるどころか他のものしか見えなくなってしまいます。ですからすべてのものから目を離してイエスを見つめる練習をする必要があると思います。 ちなみにこの節の「信仰の創始者、完成者であるイエス」という言葉がすばらしいと思います。回復訳聖書の解説で学んだのですが、イエスは私たちの内に創始者として始めてくださった信仰を、完成者として完成してくださるとありました。本当に励まされます。そのためには、やはりすべての不愉快な事や心配事などから目を離して、イエスをひたすら見つめる必要があるようです。 参考リンク:「完成者」についての解説 |
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第1テサロニケの手紙より 2:7 「むしろ、わたしたちはあなたがたの間で、養う母が自分の子供たちをはぐくむように優しくしました。」 2:11 「あなたがたが知っているとおり、父が自分の子供に対してするように、わたしたちはどれほどあなたがた一人一人に勧め、慰め、証ししたことでしょう.」 使徒パウロについて、「厳しい人」という印象を持ってる人は多いかもしれません。 しかし厳しいだけでなく、主の愛に満ちていた人であることが上の言葉などからも伺われます。どうぞサッと読み飛ばさず、あらためて味わってお読みください。 これらの言葉、見落としてはいないでしょうか? 彼は「優しくしました」とまで言っています。「ただただ厳しい人」というイメージとは大違いです。 彼があんなにたくさんの手紙を各地の教会や個々の信者に宛てて書けたのは、関心を持ってるからこそ!です。そうでなければできません。愛の関心がなければ、教会や信者がどうなってもほったらかしでしょう。 「だれかが弱っているのに、わたしが弱らないでおれましょうか?だれかがつまずいているのに、わたし自身が燃えないでおれましょうか?」なんて、感動的な言葉もあります。(第2コリント11:29) 時折、厳しい言葉を語るのも、まさに親が子を愛し思う気持ちからでありましょう。 「わたしがこれらの事柄を書くのは、あなたがたを辱めるためではなく、わたしの愛する子供として諭すためです。 たとえあなたがたがキリストにあって、導く者を一万人持っているとしても、多くの父がいるわけではありません.というのは、わたしがキリスト・イエスの中で、福音を通してあなたがたを生んだからです。 こういうわけで、わたしはあなたがたに勧めます.わたしに倣う者になりなさい。 このことのゆえに、わたしはテモテをあなたがたに送ったのです.彼は主にあって、わたしの愛する忠信な子であり、わたしが至る所のあらゆる召会で教えているとおりに、キリストにあるわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせるでしょう。」 (第1コリント4:14−17)
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