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マタイ12:20 「彼は公義を勝利へもたらすまで、傷んだ葦を折ることなく、煙っている灯心を消すこともない。」 |
回復訳聖書を読む
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日本語の聖書にも、さまざまな翻訳があります。
ここでは日本福音書房発行の新約聖書「回復訳」のすぐれた点についてご紹介していきたいと思います。
回復訳聖書には、ギリシア語原典に忠実な聖書本文に加えて、各書のアウトラインやフットノート(注釈)が付いており、聖書を理解するうえでとても大きな助けになります。
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ローマ人への手紙3:22 「すなわち神の義は、イエス・キリストの信仰を通して、信じるすべての人にもたらされました.そこには何の差別もありません.」(回復訳) 上の「イエス・キリストの信仰」という言葉は、「イエス・キリストにある信仰」と訳すこともできるそうです。 そうです。信仰はイエス・キリストの中にあります! 信仰の源は、わたしたちにはありません。信仰は主から与えられるものです。 また信仰は、主イエスご自身だとも言えます。 わたしたちが主イエスに聞き、彼を知り、彼を評価し、彼を尊ぶとき、彼はわたしたちの内側で信仰となってくださいます。信じる力になってくださるのです。
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ある日、クリスチャンの方にはおなじみの箇所を回復訳聖書で読んでいたら、代表的な聖書とは明らかに違う訳を見つけました。 マタイ18章20節なのですが、以下に記します。 二人または三人がわたしの名の中へ集められている所には、わたしがその中にいるからである」。 「名の中へと」という、いささか不自然に聞こえる表現がまず目にとまりますが、今回触れたいのはそこではありません。 その後の「集められている」という部分です。 この箇所の代表的な訳と比較してみましょう。 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。(口語訳) ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(新改訳第3版) 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 (新共同訳) お気づきでしょうか? 回復訳では「集められている」と受動態を取っているのに対し、他の3つの訳では「集まっている」とか「集まる」とか、能動態を取っているのです。 なぜこんなにもはっきり違いが出てしまうのでしょう? まずギリシア語原文を確認することが大切ですが、原文ではここは受動態です。ですから普通に訳せば回復訳が正しいのです。 他の3訳では、なぜか能動態に変えてあります。なぜでしょうね?(なにかしら解釈が入って、3つの訳は能動態を取ったのでしょう。) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− さて、少し難しい話をしましたが、「集められている」という受動態の言葉づかいの素晴らしさを感じたので、それを以下に記したいと思います(これが本記事の本題です^^;) この箇所の回復訳聖書には注解がありましたので、それを一部以下に抜粋します。 信者たちの集会は、主によって始められます。主は彼らを占有しているすべての人、事、物から召し出し、ご自身の臨在の豊かさを享受するよう、彼らを御名の中へ集められます。 ハレルヤ! わたしたちは主の名の中へと集まるとき、自分の意志で集まっているようですが、実は主によって「集められて」いるんですね!「集められている」ゆえにハレルヤ!
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実はここしばらく、召会の集会に出られなくて困っていました。 「集会に出たい!明日こそ出よう!」 そう堅く決意しても、当日になると体調を壊したり予定が狂ったりして出られないのです。 そして私は悟りました。クリスチャンが共に集会できるのは、一見私たちの意志で集まっているようでも、実は主が召し集めてくださっているのだという事を。 回復訳聖書には、次のようにあります。 マタイ18:20 二人または三人がわたしの名の中へ集められている所には、わたしがその中にいるからである」。 口語訳とか他の日本語訳聖書と比べていただけるとわかるのですが、多くの訳はこの箇所を「集まっている」と訳しておりますが、回復訳では上のように「集められている」と受動態を取っています。 私はギリシア語原文を確認していませんが、回復訳はたいがい非常に直訳なので、ここの原文もたぶん受動態なのだと思います(ひょっとしたら中動相!?) とにかく、真のクリスチャンの集会は、実は主が召し集めてくださるものであって、私たちの熱心などにかかっているものではないという事です。集会できるというのは、本当に恵みですね。 最後にこの箇所の注解を一部引用して終わります。 「信者たちの集会は、主によって始められます。主は彼らを占有しているすべての人、事、物から召し出し、ご自身の臨在の豊かさを享受するよう、彼らを御名の中へ集められます。」 ハレルヤ!!
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コリント人への第二の手紙から 5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに押し迫っているからです.そこでこう判断しました.一人の方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです. 5:15 そして、彼がすべてのために死なれたのは、生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼らのために死んで復活させられた方に生きるためです。 この箇所は感動なしには読めません。というか、キリストの愛に強く感動しているパウロの姿を見せられます。 そしてパウロの生き様、かつては自分勝手に生きていた者が、キリストに出会った今、彼に生きる決意をいつも持っていたのを見せられます。 (わたしは現在ちょっと冷めています、恥ずかしい。13節では「神に対して気が狂っている」というほど熱烈だったパウロのようでありたいと思います。) さて、上のみことばを読んでいただければ十分ですが、よかったらもう少しおつきあい下さい。 14節で「押し迫っている」と書かれた原文では、以下のような意味があるそうです。 「四方から押しつける、身動きのできないように押さえつける、強制的に制限する、限られた範囲に詰め込む、(壁に挟まれた細い道にいるように)一つの路線、目的へと閉じ込める」 四方から押し迫って、一つの路線、目的へと閉じ込める・・・なんかとてもわかるような気がします。 主がすべての者のために死なれたのは、生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼らのために死んで復活させられた方に生きるためとあるように。。。 蛇足ですが、「〜に生きる」という言い方、「〜のために生きる」っていう意味に近いんでしょうが、日本語ではあまり使わない独特の言い回しですね。 神に生きる者となりたいです。
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