Jesus diary

療養中のクリスチャンです。レスが遅れたり、できない時もありますがご容赦ください。

回復訳聖書を読む

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日本語の聖書にも、さまざまな翻訳があります。

ここでは日本福音書房発行の新約聖書「回復訳」のすぐれた点についてご紹介していきたいと思います。

回復訳聖書には、ギリシア語原典に忠実な聖書本文に加えて、各書のアウトラインやフットノート(注釈)が付いており、聖書を理解するうえでとても大きな助けになります。

オンラインでも読むことができます!
http://www.recoveryversion.jp/
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言(ことば)

ヨハネによる福音書1:1 初めに言があった.言は神と共にあった.言は神であった。


久々の更新になります。(レスが滞っており済みません)

さて、冒頭のことばはクリスチャンにはお馴染みの箇所ですね。

ここの「言」は、疑いもなくキリストのことです。

ここの回復訳聖書では、「言」についてフットノートが以下のような説明があります。


 言は神の定義、説明、表現です。ですから、言は定義され、説明され、表現された神です。


もう私が何かを付け加える必要はありませんね。簡潔ですばらしい解説だと思います。

イエス・キリストは、神の定義、説明、表現である「言」である方です。

彼を知らなければ、神を知ることはできません。

そして神は、言であるキリストを通じてご自身を私たちに知らせてくださいます。

ですからイエスは多くの言を語り、また神の言である聖書が存在し、それを通じて私たちは神を知り、また言である神を語り、言であるキリストに似せられていくのです。

このように、クリスチャンにとって、いや人類にとって、神の言は大切なものです。

余談ですが、かつて教会にいる小学生の女の子から「なんで人間だけ言葉を話すの?」って聞かれたことがあります。

あまりの鋭い疑問に驚きました。

答えはすでに書いたとおり、私たちが神の栄光を表すためです。

神の栄光を表現するためには、神に似せられなければなりません。

ですから人は神のかたち、姿に造られました。

神は言でありますから、ことばを話す生き物に造られたのです。

ですから人は、堕落した言葉遣いから救われて、神の言を語るようになる必要があります。そうして神を表現します。
まずはマタイによる福音書18:20について、日本の代表的な聖書の翻訳を見てみましょう。「わたしの名」という言葉の直後の言い回しに注意してください。

ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。(口語訳)

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(新改訳第3版)

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(新共同訳)


口語訳と新共同訳では「わたしの名によって」、新改訳では「わたしの名において」となっていますね。

次に、回復訳聖書を見てみます。


二人または三人がわたしの名の中へ集められている所には、わたしがその中にいるからである」。


「わたしの名の中へ」と、先に掲げたどの訳とも違います。またその直後を読むと「集められている」という受動態になっており、これも上の3つと異なってます。

「によって」や「において」ではなく、「へ」と訳されている原文「エイス」は英語の「into」にあたり、直訳すれば「〜の中へと」ということになります。
ですから回復訳は直訳的表現をとっていると言えますが、初めて読んだら「名の中へ」という日本語は不自然に聞こえるでしょう。
それでもあえて「名の中へ」という表現をとっていることには理由があります。

「エイス」(into)という言葉には、方向性があります。マタイ18:20では、信者が集まるときの話をしているので、集まるという行為には方向性があります。ですから、イエスの名の中へと集まるということになるのです。
もう少し具体的に言うと、クリスチャンが集まるとき、それはイエスの名の中へと集まるのであって、他の誰の名の中へではありません。
たとえばある集まりが、「○○さんを囲む会」であれば、それは○○さんの名の中へと集まるということを意味します。
このように、クリスチャンが集まるときは、他の誰でもなくイエスの名の中へと集まるべきなのです。たとえばもしキリストよりもパウロが中心になっていれば、それはパウロの名の中での集会になってしまっているのであり、イエスの名の中へと集めれられているとは厳密には言えません。

「集まる」と一口に言いますが、その行為にこめられた方向性は重要です。それは「名によって」とか「名において」という言い方ではじゅうぶんに表現できません。ですから「名の中へ」という表現はすばらしいと思います。
これは実際に彼の名の中へ集まっていることを経・験・す・れ・ば、わかります。
後で見ますが、イエスの名の中へと集められることは決して当たり前のことではなく、真に恵みなのです。

さらに、私自身もこの記事を書いていて気付いたのですが、この箇所の回復訳は先ほども述べたように「集まっている」ではなく「集められている」という受動態を取っています。
この点については、私の言葉で説明するよりも、この箇所について回復訳のフットノートがありますので、そこを引用したほうがいいと思います。もう一度この箇所の回復訳を引用しますので、もう一度味わったうえでフットノートもご賞味ください。

本文:

二人または三人がわたしの名の中へ集められている所には、わたしがその中にいるからである」。


フットノートからの引用:

信者たちの集会は、主によって始められます。主は彼らを占有しているすべての人、事、物から召し出し、ご自身の臨在の豊かさを享受するよう、彼らを御名の中へ集められます。


ハレルヤ!このように回復訳聖書は原文に忠実なだけでなく、その豊かな意味をも伝達してくれるのです!
こうして見ると、私たちは自分の意志で集まっているようでも、実は主が召し集めてくださっているんですね。本当に恵みです。

Christ!Christ!Christ!

I want Christ!!

I need Christ!! than anything else.

↑This is my heart's desire.lol

自分の今の気持ちを書いてしまいましたw

さて、新約聖書回復訳のピリピ人への手紙にはこうあります。


3:12 わたしは、すでに獲得したとか、すでに完成されているとか言うのではありません.わたしは、それを捕らえようと追い求めているのですが、それはわたしが、キリスト・イエスによって捕らえられているからです。


ここの「追い求めている」を解説しているフットノートがすばらしいので、ここに引用します。


「迫害する」と同じギリシャ語。「押し進める」、「追求する」とも同じ意味。そのようにして、パウロは賞を得、円熟に達しようとして競走を走りました。彼は救われる前、キリストを迫害しました。救われた後、パウロは、積極的な方法でキリストを迫害するほどにまで、キリストを追い求めました。


迫害するまでに強くキリストを追い求める!なんてすばらしい姿でしょう!
私もこのようなクリスチャンでありたいです。

新約聖書回復訳では、「ことば」にあたる原文が「ロゴス」の場合は「言」と表記し、原文が「レーマ」の場合は「言葉」と表記し、使い分けています。
(新改訳聖書第2版などは、特にそれらを使い分けず、たいていロゴスもレーマも「ことば」と表記してます)

というのは、原文がロゴスの場合、それは恒常的(constant)で客観的なことばを指し、原文がレーマの場合、それ即時的(instant)で主観的なことばを指すからです。

具体的に言うと、聖書の書かれたことばは、そのままではロゴスであり、一方それが主観的に語られるとき、それはレーマとなります。
よく「聖書のこの箇所から語られた!」という場合がありますが、これはロゴスがレーマになったという事です。

回復訳聖書によれば、ヨハネ1:1は、

「初めに言があった.言は神と共にあった.言は神であった。」となっています。

ここの「言」はキリストご自身を指しているのは多くのクリスチャンが知っているところです。
永遠の昔、初めからあった言は、この箇所のフットノートによれば、

「言は神の定義、説明、表現です。ですから、言は定義され、説明され、表現された神です。」と解説されています。

これだけでもすごい解説なんですが、ここでの「言」は私たちが存在する前からおられる神の具体的表現としてのキリストでありますから、原文は「ロゴス」となっており、「言葉」とは表記しておりません。

ところが、私たちのクリスチャン生活にあっては、書かれた文字としての「ことば」があるだけでは用をなしません。主観的に語られる「レーマ」が必要です。

たとえばエペソ6章には、霊的戦いについて書かれています。

霊的戦いに必要な武具がいろいろ出てきますが、義の胸当てや信仰の盾のように、ほとんどが守りに使うものです。
ところがただ一つ、攻撃に使う「剣」が出てきます。ここの回復訳と新改訳を比べてみましょう。


「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(6:17-18新改訳第2版)

「また救いのかぶとを受け取りなさい.さらにその霊の剣、すなわち霊である神の言葉を、
すべての祈りと願い求めによって受け取りなさい.どんな時にも霊の中で祈り、すべての聖徒のために根気と願い求めの限りを尽くし、このために目を覚ましていなさい.」(6:17-18回復訳)


単語が入り組んだ文章なので、両者の文章の構造が少し違いますが、それについては今回は触れません。
また、回復訳では英語の the Spirit を「その霊」と直訳してますが、それについても今回は触れません。
ここで着目したいのは、回復訳で「神の言葉」という語を用いていることです。つまり、ここでの「ことば」は原文ではレーマなのです。

つまり、霊的戦いにおいて必要なのは、書かれた文字としての聖書だけでは使いものにならないということです。
その時その時に、「即時的に」語られる言葉、レーマが必要なのです。

霊的戦いの良い模範として、主イエスが荒野で悪魔に試みられたときが挙げられます。
悪魔サタンは、聖書さえ使ってイエスを試しました。
ところがそのたびに、主イエスは別の箇所の聖書を指して、悪魔を撃退しました。
このときの主イエスのように、私たちもその時々にタイムリーな聖書の箇所を示すことが必要です。
「聖書にはこう書いてあるが、これはおかしいんじゃないか?あなたの言っていることは間違っていないか?」と、聖書を使って反論されたことはないでしょうか?
悪魔はよくこの手を使います。それはその人の背後に、邪悪な霊の勢力が働いているのです。「ここの聖書のことばはおかしいぞ」と言うことで、私たちを打ち倒そうとしているのです。
こういう事態は霊的な戦いであって、血肉に対するものではありません。私たちは人に対して戦うのではなく、その背後に働いている悪い霊的勢力と戦っているのです。

こうした時、回復訳にあるように「霊である神の言葉」を使うことができれば、悪魔に一撃を浴びせることができます。
「霊である」というように、神の言葉、レーマはその時その時に適切に語られることばです。ですから私たちは、ふだんから聖書のことばに通じて「ロゴス」を知っている必要があり、それに加えて必要なときに必要なことばを取り出せるよう、常に霊の中で生きる必要があります。
イエスの模範を、もう少し回復訳で見てみましょう。


すると試みる者がやって来て、彼に言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じなさい」。
しかし、イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる』と書かれている」。(マタイ4:3-4)


奇しくもここでは、イエスは「神の言葉」つまり即時的なことばを指して言われました。
ここで霊の剣を使う模範を示されたばかりでなく、人が(霊的に)生きるのは神の口から出る言葉によると言われました。
私たちが霊的に養われるためには、みことばの即時的な語りかけが必要です。
霊的に戦うには、ただ文字に書かれた聖書の言葉を振り回しているだけではだめです。その時にふさわしい言葉が与えられるよう、霊の中で生きていなければならないのです。

最後にダメ押しで、このイエスが答えられた「神の口から出るすべての言葉によって生きる」の「言葉」レーマについてのフットノートを引用しましょう。


ギリシャ語「レーマ(rhema)」、即時的な言葉は「ロゴス(logos)」、恒常的な言葉とは異なります。この試みの箇所で、主が申命記から引用されたすべての言葉は、「ロゴス」、すなわち聖書の中の恒常的な言葉でした。しかし、それらが主によって引用された時、彼の状況に適用された「レーマ」、即時的な言葉となりました。


それにしても・・・私自身、ここでの主イエスのように、聖書から自由自在にみことばを取り出せるよう、まずは書かれた聖書にもっと精通しなければならないと思う次第です^^;

2:1 さて兄弟たちよ、わたしはあなたがたの所へ行った時、1すぐれた言や知恵によって、神の2奥義を告げ知らせたのではありません。

2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間では2イエス・キリスト、しかも2十字架につけられたこの方のほかは、1何も知るまいと決心したからです。

2:3 わたしはあなたがたと共にいた時、1弱く、2恐れ、ひどくおののいていました.

2:4 そして、わたしの言もわたしの宣べ伝えも、知恵の1説得力のある言によらないで、その霊と力の実証によりました.

2:5 それは、あなたがたの信仰が、2人の知恵の中にではなく、神の力の中で1立つようになるためです。

(↑本文中にある半角数字は、その箇所について注釈があるという意味です)



さて、新らしい書庫「回復訳聖書を読む」の記事第一弾です。今回は直前の記事でも取り上げた、1コリント2章の言葉から紹介します。これはこのたび私が享受した箇所です。

本文の翻訳については、まずじっくり味わってお読みください。

そして今回は、この箇所にあるフットノート(注釈)のうち、第2節から紹介したいと思います。2節のフットノート1は「何も知るまいと決心したからです。」について、以下のように説明しています。


十字架につけられたキリストが、使徒の務めの唯一の主題、中心、内容、実質でした。このことのゆえに、雄弁を高く上げ、知恵を崇拝するギリシャ人に、神の証しの言葉を供給しに行った時、彼はすべてを含むキリスト、しかも十字架につけられたこの方のほかは、何も知るまいと決心したのです。何という決心でしょう! これは、わたしたちすべての模範であるべきです。


これは前の記事でも紹介しましたので、ここを読んでわたしが享受した内容については、「この方のほかは、何も知るまいと決心した」にすでに記しましたので、そちらをご覧ください。

さて、今回は2節のノート2「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたこの方」に関する解説を加えて紹介したいと思います。


「イエス・キリスト」は、主のパースンを示します。「十字架につけられたこの方」は、主の生活、行動、働き、方法の模範を語っており、主のへりくだりと屈辱を示しています。自分の知恵を高く上げたギリシャ人の誇りを覆すために、パウロはここで、主の栄光の復活(ルカ24:26)や、引き上げられた昇天(使徒2:33、36)のことを言いませんでした。


なんという明快な解説でしょう!ここでパウロがコリント人へ語りたかった事が、このノートで本当にはっきりします!

このように回復訳聖書は、聖書を読むうえで本当に助けになるのです。

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