Jesus diary

療養中のクリスチャンです。レスが遅れたり、できない時もありますがご容赦ください。

聖書・信仰

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信仰から信仰へ(2)

ローマ人への手紙には「信仰から信仰へと至らせるのです」とありますが、ガラテヤ人は信仰から律法の行いへ戻ってしまったのですね。

解放

一生懸命になって立派なクリスチャンらしくあろうとするのは、律法によって義とされようとすることと同じですね。

ガラテヤ人を笑う資格はありません。

新約聖書にガラテヤ人への手紙があるのは、そのような誤りを気付かせるためではないでしょうか?

自分がガラテヤ人のようにユダヤ教に逆戻りしていると思っているクリスチャンは少ないかもしれませんが、新約聖書が律法と化してる人はいっぱいいると思います。

「自分にはできない」と認め、イエス・キリストの救いが必要であると認識する必要があると思います。

一番こわいもの

あなたが一番こわいものは何ですか?

わたしは何がこわいって、自分自身が一番こわいですね。それが今の実感です。

宗教改革で有名なマルチン・ルターは、カトリックの権力も恐れない勇敢な人でした。

しかし彼はローマ法王を恐れませんでしたが、「自分の中にはもう一人の法王がいる」と言いました。つまり自分自身です。そして彼は、この自分の中にいる法王を恐れると言っています。神の働きをなすにあたって、それを妨げる最大の原因となる自己を恐れたのです。

まったくもって同感です。

多くの人は自分を変えたい、変わりたいという願いを持っていると思います。

にも関わらず、あれこれ努力してみても変われずに悩んでいる人も多いと思います。

わたしもよくそういう経験をします。

聖書はイエスによって人が変わることの例を見せています。今日は新約聖書のヨハネによる福音書11章から、それを見たいと思います。
(ヨハネ11章のリンク http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=11

ここでラザロという死人をイエスが復活させる記録が出てきます。

ラザロが病気で死にかかっている時、イエスはマルタたちからその知らせを聞いてもすぐには彼の所へ行きませんでした。
マルタたちの願いとしては、当然イエスがすぐにでも来て、ラザロの病気を癒してくれることであったでしょう。

これは人の観念を表しています。

病気を癒すというのは、生きている人を改善することです。しかしイエスはこの時それをしませんでした。なぜなら彼は、神の願いは人に復活であり命であるご自身を与えることにあることを見せたかったからです。ですから彼は、ラザロが死んでしまうまで待たれました。死がなければ復活はないからです。

多くのとき、人は自分を変えたくて努力をします。クリスチャンであれば自分が変わるように祈りさえするでしょう。しかし、そのような努力や祈りが報われないことがあります。それは自分が生きたままで変わろうとするからです。

もし自分で自分を変えることができたら、神の栄光は現れることはないでしょう。それどころか、その人は自分の達成を誇る結果になるでしょう。
旧約聖書に登場するヨブという人は、まさにそのような人でした。自分の力で多くの成功を収め、外面的には宗教的に敬虔でさえありました。彼と友人の議論のなかで、彼がそのような自分に非常に自己満足していた様子が見てとれます。ですから神は、ヨブからすべての繁栄をはぎ取り、ご自身を真に知るまで導かれました。まさに死のような状況を通して、彼は復活である方を知ったといっていいでしょう。

このように死という絶望的な状態に導かれたなら、人はもはや自分に望みを置きません。「死人を復活させる神」に望みを置くようになります。
そして神は、そのような人に「復活であり命である」ご自身を与えることによって、その人を根本から変えてくださいます。
そのような経験は、その人の成分を根本的に変え、結果として自分ではできなかったことができるようにさせます。これが復活の経験であり、自己改善とはまったく異なった道です。

聖書の最初の2章と、終わりの2章は対応しています。

創世記の1、2章と啓示録の21、22章を対比すれば、多くの項目が対応しているのを見ることができます。

違いは創世記には否定的なもの、たとえば善悪を知る木が出てくるのに対し、啓示録の終わりでは命の木のような積極的なものしかないということです。

そのうち一つだけ、今日は見てみたいと思います。

創世記1章の、神による6日間の創造の記録は、クリスチャンの経験の絵です。以前の日記でも、たとえば「光よあれ」という言葉による光の創造が、人がイエスに出会って救われる経験を見せていることをお話しました(これはパウロがコリント人への第2の手紙4章で言っていることですね)

さて、6日間の創造において、毎回次のような記載があります。


こうして夕があり、朝があった。第○日。


ここで注目したいのは、まず夕があり、そのあと朝が来ているということです。

ふつう私たちは、一日は朝に始まり夜に終わると思っているでしょう。しかしここでは逆です。

これはクリスチャンの経験を表しています。クリスチャンは時に夜のような暗い状態を通りますが、その後で朝がやってきます。夜があっても、朝が来ます!

さいきん私も「夜」の経験を持ちましたが、やがて朝がやってきました!

このような経験を繰り返し、最終的には 夜はもはやない。 という状態に至ります(啓示録22:5より)。ハレルヤ!

しかしクリスチャンとして幼い頃は、「夜」の期間が長く、「朝」はあまり少ないというのが実感でしょう。

ですが成長するにつれ、夜の期間は減っていき、朝の時間が長くなるそうです。

箴言 4:18 義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。

このようにして、最終的に暗やみは完全に追い出されます。

夕があり、朝があった!ハレルヤ!

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