Jesus diary

療養中のクリスチャンです。レスが遅れたり、できない時もありますがご容赦ください。

聖書・信仰

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一の立場の祝福

わたしは関東の某所に在る教会で集会しています。

私たちは、聖書の模範にしたがって「○○に在る教会」という言い方をしますが、他にバプテスト派やメソジスト派という名前は持ちません。

その都市にいる全ての聖徒は、そこの教会の一員であり、「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロにつく」、「わたしはケパにつく」、「わたしはキリストにつく」と言って分かれるようなことはしません。

「キリストは分けられたのでしょうか?」いいえ、分けられていません。

ただ全世界のクリスチャンが一度に集まることは、時間と空間の制限上は不可能ですから、それぞれの地において「○○に在る教会」ということで集会しています。それ以外に区別はありません。

この一(いち=一つであること)に基づいた立場に注がれる祝福は、すばらしいものがあります!

今日も本当にすばらしい集会でした。コリント第一の手紙14章にのっとって、一人一人がそれぞれキリストを語りました。その豊かさたるや!
まるで旧約のイスラエルの民が、祭りの時にエルサレムへ上ってきて、おのおのが収穫した産物を持ってきたような豊かさでした!


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以下補足


一つからだと一つ霊、それはあなたがたも、あなたがたの召しの一つ望みの中で召されたようにです.
一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ.
すべてのものの神また父は一つ、この方はすべての上に、すべてを貫き、すべての中におられるのです。

(エペソ4:4−6 回復訳)


見よ、兄弟が和合して共におるのは いかに麗しく楽しいことであろう。
・・・これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。

(詩篇133編1、3節より 口語訳)

キリスト対宗教

真のクリスチャンは厳密に言って、「キリスト教」という宗教を信じている人ではありません。

クリスチャンは、聖書に啓示されている神、イエス・キリストを信じ愛している人たちです。

かの内村鑑三も、「キリスト教は宗教にあらず」と言ったとか。(これはうろ覚えです。間違っていたら申し訳ありません)

最近になってわたしは、実はイエスが宗教を嫌っておられるということが少しわかってきました。

ウィットネス・リーの著書に「キリスト対宗教(Christ vesus religion)」というのがあります。
このタイトルには、ショッキングに感じる人もいるかも知れません。
見方によってはこのタイトル、何か奇をてらってるだけのように思えるかも知れません。ところがそうではなく、これは大袈裟でもなんでもない真実なのだとわたしも感じはじめました。イエスは宗教を嫌っておられるのです。

「イエスが宗教を嫌ってる!?そのイエスこそ、キリスト教という一宗教の開祖じゃないか?」

そう思う方もおられるかも知れません。

ここで、わたしが言っている「宗教」という言葉の意味を考えたほうがいいですね。

世界には様々な宗教がありますが、ここで言っている「宗教」とは、神について教えるけども、神との生きた関係がないもの、神の臨在が無いものと言ったらいいと思います。

聖書ではその実例の一つとして、ユダヤ教が挙げられると思います。

旧約聖書でもっとも大切な戒めは、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということでした。

もしこの戒めをその通りに実行していたなら、イスラエルの民は死んだ宗教に落ち込まずに済んだでしょう。

ところが一例として、イエスの誕生の時点からすでに、イスラエルの教師たちはおかしなことになっていました。

異邦の星占い師たちが、イエスの誕生を知って礼拝しに来た時、ヘロデの集めた祭司長や聖書学者はキリストの生まれる地を預言書からベツレヘムだと答えました。しかし彼らは、キリストが生まれると知っていながら、異邦の星占い師たちのように礼拝しに行かなかったのです!彼らは聖書に文字のうえで非常に通じていたにも関わらず、キリストに対する追い求める心や愛がなかったのです。異邦人がわざわざ礼拝しに来たにもかかわらず!

このようにイエスの誕生一つとってみても、彼は宗教の圏外で見出されたことがわかります。

それから後に起こった出来事の数々は、福音書等を読めばわかるとおり、聖書を文字のうえで知っていながら、その聖書が啓示しているキリストに対して敵対する宗教家たちの姿を見せています。

彼らのようになりたくありませんね。クリスチャンも死んだキリスト教徒にならないよう、注意が必要です。

しかも厄介なことに、宗教は純粋な神の子たちを迫害するのです。

それはユダヤ教徒がイエスを迫害したように、同胞であるはずの人たちが純粋な人たちを苦しめるのです。

創世記で自分の弟を殺したカインは、何が原因でそうしてしまったのでしょう?神に対する礼拝をめぐってでした。

同じように歴史は、ほかでもないキリスト教が!(特にローマ・カトリックが)クリスチャンを多く迫害し、命さえ奪ってきたことを伝えています。こんなことをイエスが望んでおられるはずがありません。イエスは変質したキリスト教という宗教を信じるのではなく、ご自身を信じ愛する者たちを欲しておられます。

わたしも注意しないと・・・生けるキリストの臨在から離れて宗教的になることは、どうやらわたしたちの堕落した性質の傾向としてあるようなのです。わたしも道を反れれば、いとも簡単に死んだ宗教家に成り下がることができます。それでころか今この瞬間でさえ、宗教から完全に解放されていないのではないかと思います。
気がついたら自分がクリスチャンを迫害する存在になっていた・・・そんなことは絶対に避けたいと思います。信仰の家族を実際に殺すことはなくても、自分の兄弟を憎む者は人殺しだと聖書は言っています(第1ヨハネ3:15参照。12節にはカインについての言及もあり)。
死んだ宗教から救われますように。

砕かれるということ

クリスチャンになってもいやな出来事は起こります。

何もかもが自分の思い通りにいくようなご利益信仰は、聖書の語っているものではありません。

クリスチャンに起こる様々な不快な環境は、多くの場合、外なる人を砕くためにあります。

クリスチャンはイエスを信じ受け入れた時、彼を命として内側に持ちます。

しかしこれは第一歩に過ぎず、このままではキリストを自己という堅い殻に閉じ込めてしまっています。

これではイエスの栄光を現そうにも、表現されるのはその人の自己ばかりです。

あるいはキリストの輝きがその人から放たれていても、その人が生まれながらにして持っている特徴や、生きてきたなかで培われた独特の「臭い」や「味わい」のようなものが混じって出てくるので、そのままではキリストの栄光が純粋に輝いて見えません。

この文章を書いてるわたし自身、自分では気づきませんが、独特の味わいでキリストを純粋に輝かしていないのではないかと気になります。

それほど私たちの自己は、堅くキリストの命が現れるのを妨げています。

しかし神には方法があるんですね〜^^

それが「環境によって外なる人を砕く」ということです。

例証をします。

花の種をひとつ、土にまくとします。

まかないうちは、種はいつまで経ってもそのままです。

ところが土にまかれると、土の中の温度や水分といった、環境上の様々な要因が作用して、種の殻が砕かれていきます。

そして殻の中に閉じ込められていた命が、自由を得て躍動しはじめます。芽が出て茎が出て、最後には満開の花を咲かせるわけです。

同じことがクリスチャンにも起こります。

神はどうすれば私たちの自己が砕かれるか、よくご存知です。

「こいつはこういう環境にすぐ反応するから、こういう環境を起こしてやろう」

そんな感じで外側の環境をアレンジしてくださるわけですね。

多くの場合、環境は煩わしいものです。なぜなら、それは私たちの自己を砕くために按配されているからです。

しかしそれがあってこそ、私たちの内に閉じ込められた主の命が解放されるのです。

(以下、コリント人への第二の手紙から)

4:16 こういうわけで、わたしたちは落胆しません.それどころか、わたしたちの外なる人が朽ちていっても、わたしたちの内なる人は、日ごとに新しくされていきます。
4:17 なぜなら、わたしたちの受けるつかの間の軽い患難は、ますます卓越した永遠の重い栄光を、わたしたちにもたらすからです.

このようにして、私たちはキリストの香りを放つ者へと変えられていきます。

このタイトル、過激だと思いますか?

でも聖書の言うことに耳を傾けてください。

創世記1章で6日間の創造が行われた時、神は3日目から命を持つものを造られ始めました。

植物、魚、鳥、獣・・・

そのどれもが、「その種類にしたがって」創造されました。

しかし人が創造された時、神は「その種類にしたがって」とは言われませんでした。

むしろ「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」と、非情に特別な方法で造られました。

聖書で神がご自分を「われわれ」と複数で呼ぶ箇所は非情に少なく、どれも極めて大事な局面で使われています。
(もちろん神はだだ一人しかおられませんが、このような場合はあたかも父・子・霊で相談して決められているようなので、「神格会議」と呼ばれたりしますね)

このように人は、神のかたちに、神にかたどって造られました。

つまり人は、「人」という独自の種類に造られたのではなく、いわば神の種類に造られたのです。

わたしがわざわざこんな事を言うのは、何か読む人をびっくりさせるためではありません。

人は神のかたち(image)に、神にかたどって(likeness)造られたのは一体なぜでしょう?

何か入れ物を作るとき、入れ物はそれを入れるモノの形に作られますね。

たとえば手袋は、手を入れるために手のかたちをしています。それは手を入れるという目的のためです。

つまり人も、神ご自身を入れるために神のかたち、姿に造られたのです。

神を受け入れて、神ご自身の栄光を表現するためです。これが神の種類に造られたという意味です。

ところが人は、すぐに失敗してしまいました。命の木から食べる前に、堕落してそれを食べる権利を失ってしまいました。

いわば人は、手の入らない手袋のようになってしまいました。手を入れない手袋は、ぺしゃんこで機能しませんね。同じように人は、神の種類に造られながら、その本来の目的を果たさないものになってしまいました。(だから多くの人は、神などそっちのけで自分勝手に生きているでしょう?)

しかし神に感謝します!イエス・キリストはやって来て、閉ざされていた道を再び開いてくださいました!

彼の贖いは堕落した人の罪の問題を解決し、人が神を命として受け入れることができるようにしてくださいました。

いまや主イエスを信じる者は、内側に神を命として持っています。

もしクリスチャンがこの方で満たされるなら、手を入れた手袋がパンパンに満たされて動くように、神を表現し、神のみこころを命によって行うでしょう。

人はなんて大事な使命を託されて造られたのでしょうね!!

日本各地の地方教会では、「説教」という言葉は使われず、集会で語られる長い話は「メッセージ」と呼んでいます。

理由をちゃんと確かめたことはないのですが、「説教」といった場合は、死んだ教えのイメージがあるから避けてるのではないかと思います。

「説教」とは文字通り、教えを説くことです。それ自体に問題はありません。新約聖書には、確かに教えがあります。

ただその教えが、死んだものであっては意味がないのです。

今日キリスト教では、死んだ教えが蔓延しています。

いくらその説教が聖書的で「正しい」ものであっても、それが人を生かさなければ、意味がありません。

新約の務め(ミニストリー)は、命を与える務めです。パウロは言っています。


「神はまたわたしたちを新しい契約の奉仕者として、資格づけてくださいました.それは、文字ではなく、その霊の奉仕者です.なぜなら、文字は人を殺しますが、その霊は人に命を与えるからです。」

(第2コリント3:6)


文字は人を殺しますが、その霊(the Spirit)は命を与えます。語ることによって人に命を供給できなければ、新しい契約の奉仕者としては失敗です。それでは文字を伝えてるだけに過ぎません。

旧約の務めは、まさにそのようなものでした。それは「石に彫られた文字による死の務め」と呼ばれています(3:7)

「律法が入り込んできたのは、違犯が満ちあふれるためです.」とあるとおりです(ローマ5:20)

それは人に罪を認めさせることができますが、それに勝つ力を与えることができません。

もし新約聖書を用いて語っても、それが人に命を与えて生かすものでなければ、死んだ教えを与えているに過ぎないのであって、新しい律法を語っているようなものです。それは聞くものに、聞いた教えを実行する力を与えることができません。要求だけがあるのみです。そのような教えをする者のわざを、主イエスは断固否定しています。

「・・・聖書学者とパリサイ人は、モーセの座に着いている.
だから、彼らがあなたがたに告げることはすべて行ない、守りなさい.しかし、彼らのわざに倣って行なってはならない.彼らは言うだけで、実行しないからである。
彼らは重くて負い切れない重荷をくくって、それを人の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本も貸そうとしない。」

(マタイ23:2−4)


これでは聞く側は辛いだけです。

どうかもっと多くのクリスチャンが、生かされる語りかけを聞く機会に恵まれますように。死が命によって飲み尽くされますように。

(以下加筆)

「もし命を与えることのできる律法が与えられていたとするなら、義は確かに、律法によるものであったでしょう。」とあります。(ガラテヤ3:21)

しかし律法の行いによっては、義とされることはできません。それは命を与えることもないので、義を行う力を与えてはくれないのです。

ガラテヤ人はそのような誤りに陥っていました。つまり、

「ただこのことを、わたしはあなたがたから知りたいのです.あなたがたが2その霊を受けたのは、律法の行ないによるのですか、それとも信仰を聞くことによるのですか?
あなたがたはそんなにも愚かなのですか? その霊によって始まったのに、今、肉によって完成されようとするのですか?」
(3:2-3)

こうパウロに指摘されてしまったのです。信仰によって始まったのに、肉の行いで完成を追い求めてはいけないんですね。ついついやってしまいますが、それは失敗という結果になってしまいます。

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