Jesus diary

療養中のクリスチャンです。レスが遅れたり、できない時もありますがご容赦ください。

聖書・信仰

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農業で命を学ぶ

先月から、ある福祉団体が運営している農場で、リハビリのために軽い農作業をしています。

その話を教会の長老にしたら、

「農業は命の学びになります」と言われました。

本当にそうだと、いま実感している日々です。

農業はおろか、簡単な植物を育てることさえまったくの素人である私には、新鮮なことばかり。

そして長老の言葉どおり、作物を育てるのは本当に命の学びになります。

そしてやはり、クリスチャンとして神からいただいた命がどう成長していくか?とても学びになります。

今日の作業の一つに、ほうれん草の種まきがありました。

種をまきながら、マタイ13章の種蒔きのたとえを思い出してました。楽しいので「神の子来て種まく〜♪」と、わたしだけが鼻歌を歌いながら蒔いてました。

こないだは花の苗や球根をポットに植えましたが、「これはまだ赤ちゃんと一緒だからね。やさしくやさしく扱ってね〜」と職員さんに言われたり、

「これはまだ自分で根から養分を吸収する力が弱いんだ。だからこうして化学肥料を置いてやんのよ」と農家のおじさんに言われ、

キリストを受け入れた者は「キリストの中に根ざしている」ことを思い出し(コロサイ2:6−7)、

「新しい信者と同じだ。自分でキリストから養いを受ける力が弱いから、周りが手厚くケアしなきゃいかんものな」と一人で妙に納得してました。

これから他にもいろいろ学びができたらいいと思います。農業って楽しいですね☆

光よあれ!

「暗やみから光が照りいでよ」と言われた神は、わたしたちの心の中を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識を、輝かせてくださったからです。

新約聖書 コリント人への手紙4章6節

パウロが上で言っているように、聖書の一番始めである創世記1章で神が光を創造された記録は、確かに人が神に初めて出会うときの経験を物語っています。

創世記では、「はじめに神は天と地とを創造された。」という有名な出だしの後、2節は

「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」(口語訳)

と言っています。

ここの「おおっていた」という言葉は、原文では鳥が卵をつばさで温めるような場合に使う動詞だそうです。

すばらしいと思います。

死の水を神の霊がおおい、母鳥のように命を生み出そうとしている様子が感じられます。

そして3節で、神は「光よ。あれ。」と仰せられ、光が出来ました。

これらの記述を読んでいると、わたしは自分がクリスチャンになる前の暗闇の人生を思い出します。いったい自分は何のために生きているのかも分からずに悩んでいたことを。そしてある日その闇から、神が救い出してくださり光が人生に差し込んできたことを。

自分が気づかぬ前から、神は暗闇にいるわたしを愛してくださり、すでにめんどりのようにおおってくださっていたのです。わたしが新たに神ご自身から誕生するようにと、光に出会うようにと、準備していてくださったのです!

どうかさらに多くの人の人生に、この光が差し込みますように。光よあれ!

その霊のとりなし

「・・・同じように、その霊もわたしたちの弱さを担って、助けてくださいます.なぜなら、わたしたちはどのように祈ったらよいのかわからないのですが、その霊自ら言い難いうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださるからです。」

ローマ8:26より


とりなす霊は、わたしたちのためにとりなすことによって、わたしたちを助け、わたしたちに同情し、わたしたちを支え、わたしたちを慰め、わたしたちを保持します。時には、わたしたちは弱いと感じ、意気消沈するかもしれません。しかし、わたしたちの内側には、そのような時でさえ、わたしたちを支え、保持し、励まし、慰めるものがあります。わたしたちは弱いのですが、内側には保持するものがあります。ある種の祈りがわたしたちの内側で、わたしたちのために進行してさえいます。これがとりなす霊の働きです。その霊は、あらゆる状況においてわたしたちを助けてくださいます。なぜなら、彼はわたしたちの必要、問題、短所を知っているからです。そして彼はわたしたちに同情し、わたしたちを保持し、わたしたちを支えます。

御子に口づけせよ

昨日は主の愛らしさを考えていたら、なんだか彼を抱きしめて口づけしたくなってしまいました。

主イエスは知れば知るほど、愛すべき方ですね。

そういえば聖書に登場する人で、やはりイエスに口づけをした人がいました。マグダラのマリヤです。彼女ほどイエスを愛することができたらいいなと思いました。

またこんな言葉もありました。彼に口づけせよと命じています。


「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」

詩篇2:12


(話がずれますが、なんと旧約にも「御子」って言葉が出てくるんですね!)

「御子に口づけせよ」とは、主を愛しなさいということですね。愛さずにはいられませんよ、こんな素晴らしい方を知ってしまったら。


「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが大切な第一の戒めである。」

取り除かれた肉の誇り

最近どうも集会に出られません。体調が悪いです。

それでも頻繁にメールや電話をくれる人たちがいて感謝なのですが、やはり日曜は弱って家で休んでるのではなく、集会に出ていたいのがクリスチャン・マタリーの本音です。

どうしてこうなっちゃったのかなあ・・・と考え出すと、発病の経緯やそれ以前の会社や学生時代とか、かなり昔のことまで遡って考えてしまいます。

しかもずっと集会に出ていないと、みんなが楽しそうにしてるのに溶け込めなかったりして、「これじゃあ行っても自分の居場所は無いな・・・」とか考えはじめてしまいます。

それでハッとしたことがありました。

若いころ、それも学生時代。よく自分より少し年上の人が、大学進学や就職をきっかけに教会から遠ざかりがちになっていくケースを見ることがありました。

おとなになるにつれて環境が新しく、またより厳しいものになり、世の荒波でもまれるようになると、信仰生活も揺さぶられますもんね。

今はそういうことも理解できるのですが、当時は解りませんでした。

だから大きな集会とかでみんなが盛り上がってるところに、昔は元気だった誰かが元気なさそうにしているのを見ると、よく「あの人は忠実さに欠けているからあーなってしまったんだ。俺はあーはならないぞ。」と思ってました。
熱心であれば信仰生活が維持できると思っていたのです。しかしそれは自分の力に信頼することであり、主に依り頼むことが必要であることをわかっていませんでした。
で、今になって思い知らされているわけですが。本当に信仰生活は、主が必要です。若い甘ちゃんのうちは、自分の熱心でなんとかなるかも知れませんが、この世はそんなにあまくないです。

まあそういうわけで、一時的に教会で孤独感を味わい、「ああ!あの人たちがみんなと共に喜べないでいたのは、こういう気持ちだったんだ!」と、はじめて彼らの気持ちに触れました。(遅いねぇ悟るのが)
あ、『他の人を計るものさしで自分も計られる』とは、このことですね。

つらかったろうな・・・こんな気持ち。

よし、元気になったらこういう人たちを裁かないのはもちろん、もしそういう人を見かけたら、放置したりしないで、できれば共に泣ける人になろう。いや、ならせてください、主よ。

幸いわたしは捨てられたわけじゃないし。現に調子が悪ければ、連絡をくれる人がいる。主は本当に、傷んだ葦を折ることも、くすぶった灯心を消すこともしないんだと実感します。

喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く。やっぱりこれですね。これが主の道だ。主はそういう方だ。

そういえば主はラザロが死んだ時、姉のマルタやマリヤのところへ行って、そこで涙を流されたんだったな。

でもよかった。これでわたしの肉の誇りが一つ取り除かれたのだから。「自分は熱心に教会生活を続けている」という自負みたいなものが打ち砕かれて、えらそうな顔ができなくなったのだから。ハレルヤ!


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