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                       「オレンジプラン(最終回)」

お待たせ致しました。 やッと「オレンジプラン」について書かせて頂ける段階となりました。「オレンジプラン」とはそんなに長い説明を要することなく、淡々と骨子をお話しできると思います。いま、しばらくお付き合いのほどお願い申し上げます。

書かせて頂く項目は、「カラープランとは?」、「オレンジプランについて」、「具体的なオレンジプランの展開について」といった3項目に分かれているにすぎません。簡単にお目通して頂けることと思います。

 1 カラープランとは
アメリカの海軍、あるいは陸軍は、1920年代(大正10年頃)から、仮想敵国を想定し、相手国をカラ―で表現して、シュミレーションで戦争(摸偽の戦争)を展開するような試みを行っていたようであります。
その相手国としては、英国相手の場合にはレッド計画、ロシア相手の場合にはパープル計画、メキシコ相手の場合にはグリーン計画、フランス相手の場合にはゴールド計画、スペイン相手の場合にはオリーブ計画、ブラジル相手の場合にはシトロン計画、ポルトガル相手の場合にはレモン計画、ドイツ相手の場合にはブラック計画、イタリア相手の場合にはシルバー計画、日本相手の場合にはオレンジプラン(オレンジ計画・対日国家戦略、対日軍事戦略)と言われていたようであります。そこで、アメリカの海軍あるいは陸軍は、そのカラ―で表現しながら図上の作戦を練っていたようであります。
かかるカラ―による戦略構想は、1939年(昭和14年)にいったん凍結されて、一応カラ―プランは消えてしまった感じでした。しかし、オレンジプラン(対日国家戦略、対日軍事戦略)だけは、そう簡単に消しさることはなかったようであります。

 2 オレンジプランについて
これらのカラ―コードプランの中でも対日カラ―プラン=オレンジプランは現実に太平洋戦争で重視され、中国大陸と日本本土の間における経済封鎖・経済遮断として、その展開は大きな成果を挙げたようであります。(わが国にとっては切歯扼腕の結末であったわけですが)
このオレンジプランは、1919年(大正8年)に非公式に立案され、1024年(大正13年)初頭にアメリカの陸海軍合同会議で採択されていたといわれています。
その後、第2次世界大戦勃発の前に、日独伊の三国同盟が結ばれ、この三国の枢軸国のカラ―、すなわちドイツのブラック、イタリアのシルバー、日本のオレンジを混合させて、オレンジプランからレインボープランへと移行していったといわれています。
レインボープランに先行するオレンジプランは、次のような内容であったといわれています。
1日本海軍のパナマ運河への攻撃を防禦することが主たる狙いの計画である。
2開戦時にはフィリピン及びグアム島の西太平洋のアメリカ領有の島嶼は自助で防禦させる。
3アメリカ海軍の艦船は、まずは動員をかけ、そして西海岸(サンディェゴ辺り)で艦隊編成を行い、グアム、フィリピンのアメリカ軍の支援に向かい、その後、アメリカ艦隊は北上し、日本艦隊との決戦に向かい、さらには日本本土を完全封鎖する。

この段階でも、アメリカ艦隊も、日本の艦隊も、ともに海上での艦隊決戦を金科玉条
としていた観があります(アルフレッド.セイヤー.マハンの海軍戦略の影響)。

当初、アメリカ太平洋艦隊は石炭を燃やしつつ日本への攻撃を行う計画であったのですが、石油の発見と燃料としての利用、さらには航空機が戦争の主役として先制攻撃を行うといったような戦争のすすめ方に大きな変革が起こり、南太平洋上でのアメリカ海兵隊の北上作戦からは、戦略は全然変わらなくとも、大戦略に基づく下位の中戦略、小戦略を変えつつ機動的に飛び石作戦をすすめていったようであります。

【以上は、ヤフーあるいはウィキペディァからの紹介です。実のところ、当方は、過去に、オレンジプランといったテーマで小さな原稿を二・三書き上げ投稿していました。その中でも1999年(平成11年)5月13日付けで書いていたものをフロッピーから引き出し、以下にて掲出させて頂きます。】

 3 オレンジプランの具体的展開について
上記の1及び2と重複する表現が多々ありますが、今から10年余り前から語っていた事柄を下記に書かせて頂きます。

1)アメリカにとっての仮想敵国をカラ―で表現される。
日本はオレンジ色で彩色し、自国・アメリカについてはブルーで表現していたそうです。

2)オレンジプランが本格的に力を発揮していた期間
第2次世界大戦中の4年間の太平洋戦争戦略を総称して「オレンジプラン」といったそうです。アメリカ太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッッ提督は、対日太平洋戦争この「オレンジプラン」(後ほどのレインボウプランという)を図上訓練通りに駆使して、わが日本を完封したといわれています。

3)「オレンジプラン」から「レインボウプラン」へ
1940年(昭和10年)からは、この「オレンジプラン」が「レインボウプラン」へと変わる(日本だけが対抗勢力ではなくなってきて、日本の同盟国でとなったドイツ、イタリアの枢軸国3国をも相手にせざるを得なくなり、対日戦略の名称が変更されることとなったようです。)

4)アメリカ政府とオレンジプランとの関係
この「オレンジプラン」はアメリカ議会で立法されたり、大統領の署名による承認を得たものではないようです。立案責任者の軍の最高責任者の署名だけで成立していたそうです。100名ほどの将校のうち30名程度が、毎年陸軍大学校、あるいは海軍大学校に籍を置いて太平洋方面の研究・図上演習をつづけていたそうです。

5)アメリカの対日姿勢(わが国の出方に対する予測・観測)
‘露戦争の頃は、日米は親善関係にありました。しかし、アメリカでは「いつの日か、日米は戦争状態に入るであろう」といった予想を抱くに至りました。 その思想的背景がレインボウプランの地勢的前提条件にあったようであります。
日本がアメリカへ挑戦するであろうと思われる理由として(当時のアメリカが)考えた内容とは、「極東の土地、人、資源を手に入れたいと願う日本は、将来、フィリピン、グアムなどのアメリカの基地へと攻撃してくるであろう。そして日本は、それらの獲得した基地から日本自国の海上輸送力の確保をはかるであろう」といったことと思われます。
アメリカ側では「日本は国益を賭けた戦いである故に、開戦までに総動員態勢を準備するであろう。そして、完全に準備が整った段階で、突然、日本は攻撃をかけてくるであろう。しかし、日本はアメリカ本土までは攻撃してこないであろう。日本は持久戦でもって講話の条件をアメリカから引き出すように働きかけてくるであろう」といった予測を行っていたものと思われます。
づ時のアメリカの国内のムードとしては、「アメリカは本来平和主義であり、戦争には簡単に参加しないであろう」といった状況にあったと思われます。 しかし、「フィリピン、グアム、ハワイなどのアメリカの領土が攻撃を受けた場合には、アメリカ国民は怒り狂い、正義と信ずる方向へ駆り立てられるであろう。アメリカは、その段階で、巨大な工業力を背景にして猛反撃に出てくるであろう。そして失った領土の回復と西部太平洋の制海権を取り戻し、日本の軍事力・経済力を徹底して破壊尽くし、日本を無条件降伏にまで持って行くこととなろう」といった考えは、当時のアメリカ大統領府にはあったものと思われます。つまり、「太平洋は広い海原である。この太平洋にまで日本の強い陸軍は進出しないであろう。海戦でもって日本の帝国海軍の艦船を完全に叩き、葬り去れば、わがアメリカの勝利である」といった考えがあったものと思われます。
ゥ▲瓮螢の対日反撃、と日本の制圧に向けて
日本への反撃と、最終的な勝利を得るためのアメリカ側のステップは下記のようであったと思われます。
第1段階=アメリカ側はフィリピンのマニラ周辺で徹底抗戦する。(アメリカ側は、現実には、バターン半島における籠城戦を展開していました)
第2段階=開戦後6カ月経過してから反撃に入る。
第3段階=アメリカ側は、「南太平洋から北上し、太平洋上の島嶼を一つ一つ攻略して、最終的には、沖縄、南九州、そして関東平野を制圧する」といったオレンジプランを具体的にすすめたということとなります。

長年のアメリカの対日姿勢はこのような「オレンジプラン」といった国家戦略に基礎をおき、国を挙げての長期的な戦いの形ですすめてこられたという事実を知り、今、改めて驚いております。

「思い出は蓄音機のなかから」といった話題提供から、「オレンジプラン」へと、長々と書いて参りましたが、皆さま方には、ここまでお付き合い頂きまして厚くお礼を申し上げます。

また、日を改めまして、「第二次世界大戦・太平洋戦争異聞として、山本五十六提督の日常生活の断片、ラバウル航空隊を含むラバウル要塞の中味、硫黄島寸描等々」、「アメリカの簡単な歴史(対外政策に絞って)」、「各国のシンクタンク、そして国家戦略策定の断片(わが国の現在の国家戦略局が、かかる国家戦略を考えているのでしょうか?)」などを書かせて頂きたいと思っております。

では、これにて失礼致します。長い間、ご覧頂きまして有難うございました。

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