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                          太平洋戦争・異聞の1
                       (山本五十六長官の見えなかった面)

 平成22年(2010年)で99歳になられた近江兵治郎氏が文芸春秋で述べられた記述を簡単に紹介させて頂きます。第2次世界大戦・太平洋戦争の開始時に、帝国海軍聯合艦隊司令長官であった山本五十六提督の、案外一般に知られていなかった面について近江氏は語っておられます。

 近江氏は、昭和15年(1940年)には29歳の海軍上等兵曹であったそうです。そこで、近江氏は、戦艦「長門」乗務の下士官から司令部従兵として選抜され、しかも複数の司令部従兵の中でも従兵長という要職に就かれていたそうであります。

 司令部従兵とは、司令長官に2名、各参謀に1名、各幕僚にも各1名ずつのお世話をする専属従兵職であり、その要人各位の身の廻りのお世話をすることが職務の内容であったようであります。

 山本司令長官の専属従兵は、長官の靴下、寝巻の用意、そして他艦への移動、参謀会議に至るまでの24時間付き添い、というようにお世話をせねばなかったようです。

 近江氏は、その山本長官の毎日の生活振りの数々を紹介されています。以下にて、列記していきたいと思います。

1出身地からの親しみについて
 近江氏は秋田県の出身であって、山本長官は新潟の長岡の出身であり、同じ日本海に面した県の出身で、従兵として仕えた2年4カ月、毎日、非常に親しくして頂かれたようであります。

2マタタビの漬物について
 山本長官は、時々、郷里長岡から送ってくる名産のマタタビの漬物が大好物であって、この猫でも死から蘇るほどの精力の付くマタタビを朝食として食べておられたようであります。

3長官の昼食について
 山本長官が長官室から昼食のために公室へ足を運ばれるたびに、軍楽隊が行進曲を演奏し、昼食のメニューは“スープ、魚料理、ビフテキ、デザート、そしてコーヒー”といったフランス料理のフルコースであったそうです。
 コーヒーの時間になると、流される音楽はやわらかな洋楽が演奏されるのが常であったようでした。ある日、趣向を変えて、渡邉はま子の得意な「支那の夜」が演奏されたら、山本長官は非常にご満悦であったそうです。長官はこの曲がことのほかお好きであったようでした。

4食後の歓談について
 食後の歓談では、幕僚達を相手にアメリカの話をすることが多くあり、「海軍次官時代には、アメリカとは決して戦争をするべきではないと主張し、当時の陸軍省派遣の憲兵につけ狙われていたこともあった」と、平気で、笑いながら語っておられました。
アメリカ駐在武官時代には米国内をたびたび視察し「航空機技術の発展、造船工場の工業力は、日本の比ではない」と口癖のように申しておられたようです。

5賭けごとについて
 山本長官のアメリカ駐在時代には、時々ラスベガスへ行き、賭博場ですごく儲けられることがあったようです。幕僚の言葉に誘われて「僕が海軍を辞めたら、博打うちの親分になって、皆に大盤振る舞いをしてやりたい」と場を沸かされたようです。

6夜食について
 長官は、お酒を嗜まれますが、本当は専ら甘党であったようです。南洋の巡航の時には冷たいパパイヤをよく食べられたようです。それから、とくに、餡もの菓子、汁粉、羊羹は大好物であったようであります。航海中の夜食に“汁粉”を差し上げると、非常に大喜びでした。汁粉の大食い競争では10杯も平らげ、競争相手に汁粉代金全部を負担させるほどの大甘党であったということでした。

7食事での大失態について
 ミッドウエイの作戦会議後に、各艦隊長達が集合し、旗艦「大和」で出陣祝いの食事会が行われた際に、いつもの「鯛の塩焼き」でなく、「鯛の味噌焼き」であったそうです。「味噌をつける」ということは「負け」につながることとなり、「ミッドウエイ海戦での大敗につながったのではなかろうか?」と近江氏独りが、今でも悔やまれてならない、とのことです。

8お頭付きの鯛の置き方について
 お頭付き鯛は、左に頭の部分を置き、右に尾鰭の部分を置くのが習わしとなっています。ところが、昭和18年(1943年)のトラック島沖でのお正月の元旦のお祝いの席で、鯛のお頭が右にきて、左に尾鰭が向いていたようでした。 山本長官は、一言「年が変わると、魚の向きも変わるものかな?」と申されましたが、余り細かいことには拘らない長官も、このときだけは、ちょっと奇異に思われたようでした。
 その年(1943年・昭和18年)の4月18日、山本長官はブーゲンビル島上空で米軍機の待ち伏せにあわれて戦死されることとなりました。近江氏は、今なお悔やまれてならないと申しておられます。

9将棋好きの長官について
 長官は、将棋が大好きで、近江氏はいつもケヤキの将棋盤を携帯して長官の後に従っておられたようであります。長官が、旗艦から第一艦隊へ移動される20分少々の時間でも、長官艇の中で将棋を指そうとするほどの将棋好きであったようであります。
 当時の木村義雄名人と比較され「木村名人よりも、俺の方が将棋を指している回数は多いだろう。木村名人よりも上手いぞ」と機嫌よく語られることもあったようです。
 ミッドウエイ海戦中でも、長官は司令部参謀の渡辺安次戦務参謀を相手に将棋を指しておられたようです。「赤城沈没」、「加賀沈没」といった悲壮な電報が入電するたび、「ほう、またやられたか」と盤から目を離すことなく冷静に声を出しておられたようでした。しかし、長官は、その時、どのような心境でおられたのか、知るよしもありません、とのことでした。

10いまでも伝わる長官の言葉について
 「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめなければ、人は動かじ」という言葉を長官はとくに口にしておられたようでした。そして、長官は、その言葉通りに生きていかれた、と多くの方々が申しておられます。

以上が、山本長官の司令部従兵長の近江兵治郎氏の言葉です。出典は、「文芸春秋、2010年(平成22年)3月号、193頁〜196頁」であります。詳細は、図書館で閲覧して頂き、詳細をお読みください。

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近江氏がどのような意図で書いたか不明ですが、軍楽隊付き食事その他豪華な生活は明治時代からの連合艦隊司令部の伝統であるそうです。ミッドウェーでの将棋については、勤務中だったか否かを書いていないのでは? 生活の1部分を切り取って描写し、人を批評する人にはある心理的傾向があります。自己の負の部分を他者へと投影し無意識的の攻撃で自己の存在意義を高めるのです。 削除

2012/5/1(火) 午前 11:15 [ はなこ ] 返信する

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私も近江さんの本は読みました。驚くべきことにトンデモない誤りがボロボロとあります。おそらく書いたのは近江さん本人ではないと思います。なぜなら、山本さんと南雲さんの東北弁を秋田出身の近江さんが懐かしく感じたと書いてあるのですが、新潟は東北弁ではないので、近江さんが懐かしく感じるはずはないのです。たぶん、西日本出身のゴーストライターが書いたものか?また、ミッドウエーでの将棋の件ですが、暗号長が電報を持って来て報告したと近江さんは書いているのですが、それは真珠湾攻撃の時のこと。大和は電報は通信室から解読した用紙を作戦室に圧搾空気で送り、それを軍楽隊隊員が開封して参謀に届けるのです。ある軍楽隊員が自分がその電報を届けた、将棋をやっていたという記憶はない、と言っています。近江さんは他のトンデモない多くの誤り同様に、いろんな時期に存在したことを一緒くたに合成しているのだと思います。他のいろんなことから考えてもミッドウエーの将棋の件は事実ではないと思います。 削除

2015/6/16(火) 午後 4:55 [ 石部金吉 ] 返信する

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